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神が望まれている喜び、祈り、感謝 (Ⅰテサロニケ4:13~5:11)

メッセージ
2020/07/05
富里教会礼拝説教
「神が望まれている喜び、祈り、感謝」
(Ⅰテサロニケ4:13−5:11)

①指導者と信徒の緊張関係
私たちは6月からこのテサロニケ第1の手紙を通して神様からの恵みをたくさんいただいてきましたが、とうとう今日は、手紙の最後の結びの言葉の箇所となりました。
しかし、ある意味今日の箇所が皆さんにとって一番馴染みのある箇所といっても良いのではないでしょうか。それは、この結びの言葉の箇所にはとても有名なみ言葉があるからです。
よく知っているみことばランキングをつけてみるとベスト5のうちには入るかもしれません。私も大好きなみことばです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というみことばです。どうですか?よく知っているでしょう。ですが、あまりにも有名な御言葉なのでこの前後に何が書かれているかということに関してはあまり知られていないことが多いようです。今日は、その前後にも触れつつ、喜び、祈り、感謝というキリスト者の本質についてじっくり味わっていきたいと思います。
まず、パウロはこの結びの言葉の冒頭で、「兄弟たち、お願いします。」とパウロにしては珍しく非常にお願いという低姿勢の中から、教会の指導者との向き合い方について語っていきます。言葉を選びつつ、テサロニケ教会の信徒の人たちの気持ちへの配慮しながら語ろうとしていることが伺えられます。
じつは当時、テサロニケ教会においては信徒と指導者の間で一つの緊張関係があったのではないかと言われています。一つの見解ではありますが、それゆえのパウロの低姿勢だったのかもしれません。丁寧に教会の中の関係を整えようとするパウロの牧会的配慮が伺えられます。そして、その緊張関係の原因とは、教会の指導者が仕事もぜず怠けている信徒に対して厳しくアプローチしたからではないかという意見があります。当時、テサロニケでは終末が近いということで、もう働いても意味がないとして、なにもせず怠けてしまう人たちがいたようなのです。そのことはⅡテサロニケ書3:11に書かれています。
そのような人に対して指導者は厳しく当たり、それに対して信徒は不満に思っていたのかもしれないということです。たとえ正論であっても、いや正論だからこそ腹が立ち、受け入れられないということはありますよね。私もかつては親や教師になんだ、偉そうにと思ったりしたものです。また、立派なクリスチャンに良くない点を指摘された時もそんなことを思ったものです。
しかし、パウロはそんな指導者の言葉を重んじ、尊敬しなさいと低姿勢にお願いしながらも言うのです。ただ、やみくもに無批判に、指導者の言うことにはなんでも従えとは言いません。その指導者がその指導者としてふさわしい責任を果たしているのだから、その言葉に敬意を持ちなさいというのです。

②信徒と指導者との平和
キ〜ポイントは労苦、主に結ばれている者として、指導者が信徒と向き合っているということです。愛の労苦として、自分を捨て、信徒一人一人のために生きようとする。神の愛、捧げる愛を持って信徒を愛するがゆえに誤った方向にいかないように、導き、諭す。ここでの戒めという言葉は時に諭すとも訳されます。決して独りよがりではない、相手の心に寄り添いながらも伝えるべきことを愛を持って伝える指導者であること。
また、主に結ばれた者、これはつまり、以前にも語った自分の誉れを求めず神の喜びを求める者と言えるでしょう。自分のプライドのためや、自分の考えを正当化するために戒めたりするのではなく、信徒が神に喜ばれる生き方をしていくことを主ご自身が望まれている。それゆえに時に厳しく語る指導者であること。このような指導者なのだからあなたたちは愛を持って尊敬しなさい、とパウロは言うのです。なんか、こんなこと正直、牧師の立場からは言いにくいですよね。私を尊敬しなさいと言っているみたいで。しかし、実際にこのみことばをもってだから私を尊敬しなさいと言う牧師は、私は正直間違っていると思います。このみことばは指導者である牧師に対しては、逆にブーメランのように鋭く返ってきます。
それは、あなたは、このような愛と尊敬を受けるにふさわしい指導者でなければならないのだということです。主に結ばれた者として愛の労苦に勤しんでいるのか。それゆえの戒めとなっているのか。自分のプライドで凝り固まっていないのか。このように牧師はこのみことばに向き合わなければなりません。
私たちはそれぞれの立場に対して語られているこのみことばのメッセージを真摯に誠実にまっすぐ互いに向きあうことが求められています。そして、互いにみことばに向き合う、つまり信徒と牧師、私たちの真ん中に神様がいてくださることによってはじめて、私たちの教会に平和が与えられるのです。互いに平和を過ごしなさい。平和を保ちなさいとも訳されています。教会が平和であるようにとパウロは何度も語っています。これはマスト事項といってもよいでしょう。それは神様の御性質が平和そのものだからです。教会とは神の平和が表れる場所でなくてはならないのです。互いにみことばに向き合いながらキリストの平和を共に求めてまいりましょう。

③喜び、祈り、感謝
そして、その平和を保つためには、どうしていくべきかということをここからパウロは、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。」と語ります。この後、命令形の「〜しなさい」という言葉がたくさん出てきます。普通、人はこんなに命令されるとちょっともう辟易して、嫌になってしまうかもしれませんね。しかし、これらの命令のはじめに勧めますと言っていることに目を留めたいと思います。これらの命令はあくまで勧めなのです。これをしないと地獄に落ちるぞということではありません。それだと律法主義になってしまいます。これらのたくさんのリストは祝福です。このようにすることによってあなたと神様との関係、またあなたと大切な隣人との関係、そして教会に平和が訪れますよ、そこに神様の祝福があふれんばかりにありますよと、パウロは私たちに喜びをもって勧めているのです。
そして、その祝福の中心にあるものが、

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

ということです。喜び、祈り、感謝です。いつも、この三つと私たちの信仰生活が共にあるならば、心も人との関係にも本当に神さまの祝福と平和がいつもでもあります。それゆえ、神様は私たちにこの喜び、祈り、感謝と共にあることを切に望まれているのです。神様は私たちが幸せであることを望まれているのです。ここからはその三つの事柄を一つずつ見てまいりましょう。

まずは「喜び」です。喜びとは、キリスト者の本質の根幹です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、救われた、赦された、命がけで愛されている。その実感の喜びです。全ての人間と共有できない一般的な、一時的な喜びとは違います。全てのクリスチャンが共有できる決して消えることのない喜びです。この喜びは途切れることなく永遠にずっと続くのです。
神、我らと共におられる、インマヌエルなる主イエスが、私たちといつも一緒にいてくださっている。だからこそ、私たちはいつも喜ぶことができるのです。聖書のいう喜びとは、何かの出来事を喜ぶことではありません。神様そのものを喜ぶことにあります。だからこそ、主にある喜びは苦難に遭っても決してなくならないのです。そのことはこの手紙の著者であるパウロが人生をもって証明しています。主にある喜びは永遠なのです。
次に「祈り」です。祈りは神様との対話です。コミュニケーションであり神様と繋がることです。ある人は呼吸とまで言いました。祈りなくば、私たちは生きていけないということです。しかし、確かに呼吸は絶えずしなければなりませんが、24時間祈り続けるということは物理的には、ほぼ無理でしょう。ここでの「絶えず」という言葉は必ずしも字義通りに捉えなくてもよいかもしれません。ここでは、神様に自分の人生における全ての領域を委ねる、そういうことが求められていることを表しているのではないでしょうか。
何事においても神様に相談し、祈る。自分で問題を解決しようとするのではなく、まず神様に解決していただけるように祈る。全ての根本解決は神様によってなされる。このような精神状態でいることによって自然と常に祈るように導かれていくのではないでしょうか。
また、ここでは全てを治めておられる神様を信じて必死に祈ることの大切さが語られているでしょう。イエスさまご自身もルカ福音書18章で弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを、やもめと不正な裁判官というたとえ話を用いて教えられました。
祈ることによって初めて、祈りが聞かれたことがわかるのです。そこに祈りがなければ、「ああ、よかったな」で終わってしまうのです。でもそこに祈りがあれば、神様は確かに生きておられるということを確かめることになります。祈るからこそ、そこに感謝が生まれるのです。
そう。最後は感謝です。どんなことにおいても感謝しなさい。みなさん、できているでしょうか。中々アーメンとはいえないですよね。少なくとも、私は恥ずかしながら胸を張って、できているとは言えない自分自身を痛感します。しかし、それでもパウロは全てのことに感謝しようと勧めます。みことばと向き合いましょう。
さきほど、祈るからこそ感謝が生まれると言いました。しかし、全ての祈り、自分の願いが聞かれるわけではありません。全ての祈りが聞かれるなら確かに全てにおいて感謝できるでしょうが、そうはいかない現実があります。だから、全てにおいて感謝などできるわけがない。そう思われるでしょうか。
しかし、覚えていて欲しいことがあります。それは、祈りは自動販売機ではないということです。コーラが飲みたいとボタンを押しても必ずしもコーラは出てくるわけではありません。ダイエット中でまだまだ痩せる必要がある私がコーラを飲みたいと言ってもきっと神様はカテキンいっぱいの緑茶を出されると思います。何が言いたいかといいますと、つまり、神様は私たちが欲しいものではなく必要なものを与えられるお方なのだということです。
世の中の出来事に偶然は一つもなく、全てのことに意味があります。これを神の摂理と言います。時に主は与え、主は奪います。なぜ、と言いたくなるようなこともあります。理由は神様にしかわかりません。しかし、主は私たちに良いもの、必要なものしか与えられません。私たちのことをこよなく愛しておられるからです。
しかし、それは時に私たちにとって嬉しいものであり、時に辛く、苦しいものでもあるのです。その両方を両の手で受け取り、感謝する。このどんなことにおいても感謝するということは、どんなことにおいても主は私を見捨てず、愛しておられるという、信仰告白なのです。そして、それはひとえに神への揺るがない信頼によってなされるのです。
苦難を通して受けた傷、痛みはその時は辛く、とても感謝などできないかもしれません。しかし、必ず主はその痛みに寄り添い、慰め、癒してくださいます。そして、慰めを受けたものは、今度はその傷を持つがゆえにまた誰かの傷を慰め、癒すことがあるかもしれません。その時になって私たちはやっと主の深い深いご計画に気づくことになるでしょう。

Ⅱコリント1:4
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」

と、みことばが語る通りです。苦悩、葛藤、疑い、悲しみ、揺れることは何度もあるでしょう。人は弱いものです。私も弱いです。しかし、最後の結論は全てにおいて感謝で終わりたい。そのように願います。

④三つを一つにするものとは
 喜び、祈り、感謝。ここまでそれぞれの事柄を一つずつ見てきました。しかし、これらの三つはバラバラに行われるものではなく全て、繋がっているものであります。逆に一つでも欠けていれば全てがダメになっていくとも言えるかもしれません。喜び、祈り、感謝、この三つは密接につながり、固く結ばれ、影響しあい、一体となっていくものなのです。そして、それはただ神の恵みによってなされていくみわざなのです。
感謝に溢れた心が祈りへと促し、喜びを生む。また、祈るからこそ感謝が生まれ、そこから喜びが溢れるともいえます。喜び、祈り、感謝、その全てが揃ったとき、その全てが影響し合い、上昇のスパイラルとなっていくのです。また、先ほども言いましたが逆にいえば一つ欠けたら負のスパイラルとなる可能性があります。
そして、この喜び、祈り、感謝を一つと結び合わすためには何が必要でしょうか。それは、聖霊とみことばです。霊の火を消さない。預言を軽んじない。霊とは聖霊、預言は私たちにとってはみことばを表します。ポジティブに言い換えれば聖霊を求め、みことばを重じなさいということです。信仰者の基礎、当たり前のことですね。日々みことばに親しむ中で聖霊は働かれ、喜び、祈り、感謝は結ばれ、信仰者としての祝福に預かることとなります。日々聖書に親しむという、キリスト者としての基礎を繰り返すことによってこそ私たちの信仰は祝福されたものとなるのです。

◎結
では、その祝福とは、いったいどのようなものでしょうか。それは互いの上に神の平和があるということです。喜びと祈りと感謝が一体となったキリスト者の心は自己中心ではなく隣人、他者に向かって愛を注ぐようになります。そして、そのためにもみことばを通して自分と向き合い、神さまと向き合い、その人は整えられ、心には神の平和があふれることとなるでしょう。
いつも、たえず、どんなことにおいても喜び、祈り、感謝する。そうすることによって私たちには隣人との平和、家族との平和、信徒との平和、牧師との平和、信徒と牧師の平和、つまり教会の平和。また、自分自身の心の平和、そしてなにより神様と私との関係における平和、シャロームが与えられるという祝福に預かるのです。私たちを聖め、引き上げ、平和を与えてくださる主を信じて、私たちは今日も明日も、いついかなるときも喜び、祈り、感謝いたしましょう。そこにこそキリスト者としての祝福と幸いがあるからです。

武井誠司

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