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祝福の十分の一の献金 (マラキ3:6~12)

メッセージ
2019年11月17日富里キリスト教会
「祝福の十分の一献金」
(マラキ書3:6~12)
1.主に立ち帰れ

預言者マラキもこう言っています。「あなたたちは先祖の時代から、わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う、どのように立ち帰ればよいのか、と。」(マラキ3:7)たとえイスラエルの民でありましても、自分の罪を認めて主の前に立ち帰らないならば、神の裁きを受けます。たとえ礼拝に出席しても、心が神から離れていては、それは真の礼拝になりません。神の前に礼拝を捧げる場合、それは正しく捧げる必要があります。そのためには、神の御言葉や神の戒めを聞いて守ることです。神の御言葉に従うことです。それが正しい礼拝の捧げ方であり、神様はそういう礼拝者を求めているのです。

3:3にこうあります。「彼は精錬する者、銀を清めるものとして座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げ物を、正しく捧げる者となるためである。」と。つまり、わたしたちが神に対して罪を犯し、神によって罪や汚れを取り除かれて、清い者となって神を礼拝するために、神はわたしたちの心の中から汚れを取り除く、というのです。正しく主に捧げるものとなることです。余り物や残り物、傷ついたいけにえを捧げてはいないでしょうか。もしそうならば、あなたがたがは悔い改めなさいとマラキは訴えています。いろいろと経験する人生の試練や信仰生活の荒波は、最終的にはわたしたちが神の前に正しく礼拝を捧げる者となるためなのです。それは神の掟、神様の御言葉の前に悔い改めて立ち帰ることです。

2.十一献金を怠る者の罪

しかし預言者が命懸けで、罪を悔い改めて神に立ち帰れ、と叫んでも、彼らはどのようにして立ち帰ったらいいのか、どのようにして悔い改めたらいいのかが分かりませんでした。それだけ自分の罪が見えなくなっていたのです。気が付かないのか、気が付かないふりをしているのか、自分自身の心にしっかりと向き合わないのです。静まって振り返って皆、静まって自分の心と向き合っていないのです。真実から目を背けているのです。

預言者が来て、罪を悔い改めなさい。そして本心に立ち帰って主のもとに来なさいと言っても、どうすればいいのかとしらばっくれていました。彼らはこう言いました。「どのように立ち帰ればいいんですか?」「わたしたちは神様に嘘をついていますか?」と逆に問うているのです。律法学者がイエス様に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」と言われた時に、「わたしの隣人とは誰のことですか?」と自分を正当化しようとして、尋ねた言葉と同じです。(ルカ10:29)

ユダヤ人たちは自分たちの礼拝がマンネリ化し儀式化してしまい、礼拝をする人が何の緊張感も心からの感謝もない状態で、いわば惰性で礼拝していたようです。十分の一献金をも怠っていました。しかし、何の良心の呵責も感じないままで、惰性的に献金をしていたのでした。

しかし十一献金というのは、ただ単に収入の十分の一を捧げれば良いという割合の問題ではないのです。もともとは収穫物の中から神様に捧げる分として、全収量の十分の一を神にささげることによって、神への感謝を表す意味があると思います。そしてこの十分の一は、すべてのものを表しています、全収入はすべて神から来るものですから、そのすべてを主にお返ししますという意味で、そのうちの十分の一を聖別して神に捧げていました。ですから残り物や余り物ではなく、また傷がついたものではなく最高のもの、一番いいものを捧げたのです。

初穂に対する感謝です。そして残りの十分の九も、主の御栄光のために使いますという信仰の表れでもあるのではないでしょうか。神様はわたしたちの救いの初穂として御子イエス様をくださいました。御子は全人類の罪の贖いを一人で、なおかつ全人類を代表して成し遂げられました。この御子の十字架と復活の救いの業によって、御子を信じるものをも同じように神の子としてくださり、キリストの兄弟としてくださるのです。

イエス・キリストはわたしたちの十分の一となって下さったのです。このお方が清められ聖なる供え物としてささげられたことによって、わたしたちにも救いの恵みが与えられたのです。ですから十分の一という考え方は、御子の救いに関わる大事な出来事なのです。この神の大きな恵みの賜物、プレゼントに感謝して献げるのが十分の一献金ではないでしょうか。

ですからもし私たちがこの十分の一の捧げものを怠っているならば、それは神の恵みの救いであるイエス・キリストを拒んでいると言っても過言ではありません。神様は御子をこの世の罪の贖いとしてささげて下さり、三日目に甦らせ、誰でも御子を信じるものを神の子としてくださったのです。その御子の十分の一の救いを告白し、感謝するものとしてわたしたちは十分の一の捧げものをするのです。しかも最高のものを、残り物や余り物ではなく最高の良いものを捧げてゆくのです。しかも最初に捧げるのです。

神様はこういっています。「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、という。それは、十分の一の捧げものと、献納物においてである。あなたたちは、はなはだしく呪われている。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」(マラキ2:8~9)

他の新改訳も口語訳の聖書も、この3:8をこう訳しています。「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。・・・十分の一と捧げ物をもってである。」と訳しています。はっきりと十分の一献金を怠ったり軽視することによって、神のものを盗んでいる、嘘をついていると非難しています。この新共同訳は「偽っている」と訳しています。そしてその偽りによって、あなたがたはなはだしく呪われているというのです。「はなはだしく呪われている」という言葉は、少し厳しい言葉です。

3.信仰の決断としての十一献金

私達の所有物はすべて神様からのものです。神から来ていないものは何一つありません。子供メッセージでお話したように、子供の献金はすべて親から来ます。子供は自分でお金を稼ぐことができませんから、みな親から来るのです。全部親の所有物です。でもいったん自分の手に入ったら、そこに欲が出てきます。自分のために自分のものだ、自分の欲しいものを買おうという欲が出てきます。当然です。そこではもはやお母さんの顔は忘れているのです。与え主である神様の顔を忘れてしまいます。

牧師でもそうです。牧師給のほかに、葬儀や結婚式があって特別な収入が入ったりします。そうしますとつい、ああこれであの欲しかった本が変えると、神様の顔と感謝を忘れてしまうことがあります。全部自分のものにして、自分の好きなように使いたいという欲が出てきます。その特別の収入の中からも十分の一を捧げることに抵抗を感じてしまうことがあります。子供でもそうですね。お母さんからもらった50円。これがあったら駄菓子屋に行って、あのお菓子とこのお菓子が買えそうだと思ってしまいます。そうしますと手放したくなくなります。

ですから、皆さん方も、手元にお金が入ったならば、お給料でも年金でも高くじに当たった時でも、すべての送り主は神様です。出所は神様なのです。ですから、まずそのお金を手にしたら、イエス様の顔を思い浮かべることです。「ああ、この収入の十分の一は神様からなんだ。だからその恵みを感謝してそのすべてを代表して十分の一を捧げ、残りもまた有効に使わしていただきます」と思ってみてはいかがでしょうか。まず収入があったら、イエス様の顔を思い出すことです。先に自分の欲しいバッグや靴や洋服ではなく、欲しい品物を最初に思い浮かべるのではなく、イエス様の顔を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

イエス様はわたしの十分の一になって下さって、十字架の上で死んでくださったんだ、その方の恵みによって今日も20万円いただいた、これを感謝をもって捧げて行こうと考えてみてはいかがでしょうか。神の国と神の義であるイエス様を第一に思い浮かべるのです。この世と自分の義を第一にして、欲しいものを思い浮かべるのではなく、イエス様を思い出すのです。これが十分の一献金につながってくるのではないでしょうか。

そういう意味でこの十一献金は、わたしたちの信仰の正念場です。戦いの場です。
この十字架を取るか、この欲しかった高級時計を取るか、十字架を取るか自分の生活の必要を取るかです。イエス様はこう言いました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれら(衣食住といった必要な物)のものはすべて添えて与えられる。」(マタイ6:33)まさに十一献金の捧げものにおいて、わたしたちの信仰がはっきりと問われているところなのです。

4.主を試してみましょう

でも皆さん安心してください。マラキはこういっています。「十分の一の捧げものをすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10)わたしを試してみなさいと言っています。皆さんいかがですか、神様を試してみようではありませんか。神を試すことが赦されている唯一の個所です。試すことはリスクがあるかもしれませんが、御言葉は真実です。

四国で伝道していた時、広島で中四国連合の青年修養会がありました。八幡浜教会からも二人の青年が参加しました。でも一人は自分で参加費の五千円を払うことが出来ませんでした。そこでわたしは思い切って、わたしの一か月分の小遣いである五千円をその子にこっそり渡して参加させました。わたしはその時の修養会の講師だったのです。そして無事修養会が終わって、宇品のフェリー乗り場から松山の三津浜まで、高速船で帰ってきました。

船上で、こっそりと講師謝礼の封を切って中を見てもいましたら、何と、五万円入っていたのです。ふつう同じ連合内の奉仕では、講師謝礼は三千円とか五千円が相場です。それが十倍の五万円です。もらい過ぎだと思って返そうとしましたが、もう船は海に出ていました。この時ほど神様の不思議なご配慮を経験したことはありません。痛いと思って捧げる時、犠牲を払って捧げる時、そこには不思議な神様のご配剤が働くのです。神様は、わたしたちの必要を初めからご存じなのです。ですから、何も生活のことを心配せずに、手に入れたものの十分の一は神様に感謝してお返ししてゆきたいものです。その後は幾重にも神様は必要に応じて祝して与えてくれます。

聖書には、「必ず」という言葉が入っています。もし私たちが十分の一の捧げものをもって神に捧げて試してみるならば、必ず主は、天の窓を開いて祝福を限りなく注がれると約束して下さっています。必ずということは絶対にということではないでしょうか。十分の一献金はわたしたちに対する神様からの祝福の源です。わたしたちが捧げる前に、主はすでに私たちのために最高の宝物である十分の一を捧げて下さいました。神様の祝福への感謝と応答として、この十分の一の捧げものという信仰の闘いを戦い抜いてゆきましょう。(岡田 久)

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