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祈りと伝道 (使徒言行録10:1~16)

メッセージ
2020年5月31日富里キリスト教会
「祈りと伝道」
(使徒言行録10:1~16)

1. 異邦人信仰者コルネリウス

「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ころ、コルネリウスは、神の天使が入って来て、『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょうか。』と言った。すると、天使は言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファヘ人を送って、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめしシモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。』天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召使と、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。」
(使徒言行録10:1~8)

この10章の出来事は初代教会にとりましては、非常に大きな出来事でした。それは福音がユダヤ人だけではなく、異邦人であるヨーロッパのイタリア人にまで宣べ伝えられたという出来事だったからです。しかも、ギリシャ語を話すユダヤ人による伝道ではなく、ユダヤ人である弟子の一人ペテロが、異邦人に伝道したのです。この百人隊長は、当時パレスチナ地方を支配しておりました駐留軍であるイタリア隊の兵士でした。

その百人隊長の名前はコルネリウスと言いました。彼は地位が高く、裕福でしたので、ユダヤ人の貧しい人々に施し物をしていました。この頃、ローマの兵士の中にも信仰を持っておられた人がいたようで驚きです。しかも彼は、聖書では「信仰があつく」「家族そろって神を畏れ」とありますから、いわばクリスチャンホームでもありました。さらに多くの貧しいユダヤ人に生活の支援をしていました。ということはコルネリウスが、信仰を持っていただけではなく、その信仰を実践して愛の奉仕活動をしていたということです。

しかも「絶えず神に祈っていた」とありますから、聖書にあります通り、彼は信仰者として、朝9時、昼の12時、そして午後の3時の三回の祈りに熱心でありました。どうしてこんな外国人である兵士が信仰を持っていたのか、しかもユダヤ教ではなくキリスト教の信仰を持っていたのです。いったい誰が彼に伝道したのでしょうか。もしかしたら、イエス様を十字架につけた時にそばにいて、「この人は正しい人であった。神の子であった。」と証言したあのローマの百人隊長だったでしょうか。(マルコ15:39、ルカ23:47)

あるいは部下の病をいやして欲しいと願い、イエス様の命令通り何でもしますと言う立派な信仰でイエス様を驚かせた百人隊長だったでしょうか。(マタイ8:5~13)いずれにしても、弟子たちが異邦人伝道する前から、イエス様を信じる異邦人が存在していたということです。しかも外国の軍隊です。神様はどんな手段を用いてでも世界宣教をされるのですね。まさに、一粒の種であるイエス様が地に落ちて死なれたので、今はその実に弟子たちが預かっているのです。ペテロは刈り取るだけでした。

10:3には「ある日の午後3時ころ、コルネリウスは、神の天使が入って来て、『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。」とあります。コルネリウスは、祈りというよりは戦闘に明け暮れる生活でありながら、それでも午後3時の祈りをしっかりと守っていたのです。しかも家族全員です。まさにクリスチャンホームです。しかも、7節には「二人の召使と、側近の部下で信仰のあつい一人の兵士を呼び」とありますから、自分の百人の部隊の中にも、同じ信仰を持つ兵士がいたということです。そして今回、ペテロを呼びにやった兵士は、その中でも特に信仰のあつい兵士の一人でした。ですからイタリア隊の中には、他にも何人かのクリスチャンがいたかもしれません。コルネリウスは、家族に対する伝道だけではなく、職場伝道にも熱心でした。

さて、3節には、そのコルネリウス隊長が、3時の祈りの時に、天使を幻ではっきりと見たとあります。コルネリウスは、幻ではっきりと天使を見、そして見つめていました。しかも午後3時の祈りの時にです。祈る人には天使が現れて語って下さいます。伝道というのは、わたしたちが敬虔深い正しい生活をして祈っている時に、天使を通して、神様がなすべき使命を語って下さるのではないでしょうか。たとえエルサレムから逃げて行っても、失敗したように見えていても、それも神様のご計画の一つなのです。神ご自身が伝道されます。天使は告げました。「ヤッファ(今のテルアビブ)の皮なめしシモンの家にいるペテロという男を招待しなさい。そして彼からイエス・キリストの福音について話しを聞きなさい。」と。

2.ペテロに告げる霊の声

さて一方、コルネリウスに招待されたペテロの方はどういう事情だったでしょうか。それが、9~16節まで書かれております。
「翌日、この3人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペテロは祈るために屋上に上がった。昼の12時ころである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペテロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りてくるのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペテロよ、身を起こし、屠って食べなさい。』と言う声がした。しかし、ペテロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」(10:9~16)

カイサリアからヤッファまで大体60キロです。コルネリウスが天使を見た翌日、三人の使いがペテロの住んでいるヤッファの家までやってきました。ペテロはちょうど昼の12時の祈りの時間帯でした。人目を避けて、二階に上がって一人で祈りをしようとしました。ところが、睡魔が突然襲ってきました。不覚にもペテロは祈るどころか、睡魔に負けてしまったのです。でも実はこの睡魔も神様からの幻を示すためのものでした。夢の中でペテロは大きな布が天から吊るされてくるのを見ました。そしてその中にはいろんな動物が入っていました。

すると、「ペテロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」と言う声がしました。しかし、よく見るとその動物は、聖書で禁じられている生き物が入っていました。野の獣とか地を這うもの、空の鳥などです。どんな生き物だったでしょうか。ユダヤ人は律法では、体にうろこのない魚や爬虫類などを食べることは禁じられています。ユダヤ人はそういう律法で禁じられたものは絶対に食べませんでした。それは汚れている動物であり、罪というウイルスに汚された肉だからです。

ユダヤ人の罪の汚れと言うのは、今のコロナのような感覚です。つまり罪の病原菌を持っているのです。ですから食べないし、手にしないし、そういう場所にも行かないし、入らないのです。接触したら、コロナに触れたように念入りに手を洗います。そして罪を持っている証拠として病気になるのです。病気は罪と言うウイルスの結果なのです。ですからライ病にかかった人は、町を行く時には「わたしは汚れています。らい病人です。」と言いながら、人々からのソーシャルデスタンスを取って生活しなければなりませんでした。

その汚れは、本人だけではなく、その人の住んでいる家も汚れていました。ですからユダヤ人は、絶対、異邦人の家には入りませんでした。自分も汚れるからです。自分にも罪が感染するからです。そういうユダヤ人の習慣を知っている3人の使いでしたので、17節にありますように、「人々がシモンの家を探し当てて、門口に立ち、声をかけて、『ペテロと呼ばれるシモンと言う方が、ここに泊まっておられますか?」と尋ねたのです。

つまり、玄関から中に異邦人は、入ること許されていないのです。こういうユダヤ主義の宗教的な厳格主義といいますか偏見を取り去るために、神様はペテロに先ほどの動物の幻を見せたのです。そして、神が清めた物を、あなたが清くないと言ってはいけない。」とたしなめ諭したのです。これは異邦人、イタリヤ人だから汚れているのではない、どんな異邦人でも神が清いと認めているのだとうことです。ユダヤ教の教えに従って、彼らと交われば自分も罪に汚染されると思ってはいけないと教えたのでした。三回もそういうやり取りがありました。

ペテロはなおも、この幻についてどういう意味なのかと思案をしていますと、ちょうどその時に、霊がペテロに告げました。「霊はこう言った」と書かれてあります。つまり聖霊様が、直接ペテロに語りかけたのです。「今来たのはわたしが遣わした者たちだ。だから心配しないで、躊躇しないで彼らと一緒に行きなさい。」と。コルネリウスには、天使が現れて語りました。ペテロには神様の不思議な動物の幻と、聖霊の声がありました。

ペテロに神の霊がはっきりと語ったのです。使徒言行録の主人公は、すべて神様であり、聖霊の働きです。また、祈りなしには神の霊が語る言葉を聞くことはできません。祈りなしには天使を見ることはできません。祈りなしには異邦人伝道も海外伝道も開拓伝道も起こりません。なぜなら伝道はすべて神様から始まるからです。神の伝道なのです。聖霊のなされる伝道なのです。神の独り舞台なのです。ですから、この神の霊が語る言葉にもっともっと真剣に、そして敏感に耳を傾けましょう。まさに祈りと伝道は車の両輪でもあります。祈りによって霊が語り、わたしたちの偏見が打ち砕かれ、祈りによって異邦人に救いに至る福音の扉が開かれるのです。

3.御言葉と聖霊

こうしてコルネリウスから遣わされた三人の使いの者は、ペテロの逗留している皮なめしシモンの家に入り、一晩泊ることとなりました。そして翌日、ペテロは彼らと共にカイサリアまで出かけて行きました。もはやペテロには、異邦人の家に入ると汚れるというような偏見に満ちた信仰はなくなっていました。何の躊躇もなく、ペテロはコルネリウスの家に入りました。そこには大勢の人々集まっていてペテロの宣教を聞こうとしていたのです。

ペテロはそこで初めて、異邦人への伝道集会をしたのです。「イエス・キリストの十字架と復活によってすべての人は、人種、民族の区別なく誰でも救われること。キリスト・イエスこそ真の神であり、生きているものと死んだ者との審判者として神から定められた者であること。自分はその福音を宣べ伝え、力強く証をするようにと、命じられたこと。そしてイエスを信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる。」ということを語りました。(10:39~43)

そしてペテロがイエスの福音を宣べ伝えていると、聞いている人々の上に聖霊が降ったのです。聖書には「ペテロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。」(10:44)とあります。そして異邦人であるイタリヤ人が、讃美をしたり異言を語ったりするのを見て、ペテロは異邦人も同じ救いにあずかったのだと確信します。そして彼らもイエスの名によってバプテスマを受け、その後数日間、信仰の学びと訓練のためにペテロにとどまってもらいました。

ここにはっきりと、聖書の御言葉、福音を語っている時に、聖霊が会衆に降ると記されています。つまり聖霊の賜物は、御言葉と共に働くのです。福音を語る時に、イエス・キリストの十字架と復活、悔い改めと信仰を語る時に、聖霊が降り、イエス・キリストを信じて救われるという救いの出来事が起こるのです。聖書の神の御言葉と共に聖霊が働くのです。今日もこうして皆さんと一緒に、インターネットを使ってではありますが、神の言葉が語られています。

聖霊様が皆さんの上に働き、イエスの救いを宣べ伝えようという熱い思いを抱かせてくださいます。伝道は、聖霊の働きであり、神の伝道です。わたしたちはその道具にすぎません。自分の感情や考え方、偏見ではなく、聖霊様の教えてくださる導きに従いたいものです。あの人は救われないとか、あの人はだめだとか、そういう自分の偏見を捨てましょう。

そのためにも聖霊様の働く自由の器として、毎日祈りましょう。午後3時の祈りを始めてみませんか。そして聖霊の働きに敏感になりましょう。天使が現れて心に語りかけて下さるのです。霊の語る声に敏感になりましょう。こうしなさい、ああしなさい、こうしてはいけないと。聖霊の声に耳を傾けましょう。そして御霊の導くままに、すべての人々に福音を宣べ伝えて行きましょう。(岡田 久)

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