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知る力と見抜く力を身につける (フィリピ1:3~11)

メッセージ

2015年8月2日富里キリスト教会

「知る力と見抜く力を身につける」
(フィリピ1:3~11)

1.喜びと感謝の祈り

「わたしは、あなたがたのことを思い出す度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びを持って祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」(1:3~6)

かつてパウロが命がけで伝道し、不思議な仕方で救われた人々が教会を建て、今日に至るまで、信仰の道から離れず、福音にあずかり続けているというのです。これほど、福音伝道者にとってうれしいことはありません。パウロは、彼らが救われた時のことを思い出しながら、今もなおフィリピの教会が礼拝を守り伝道を続けていることを主に感謝しながら、確信を持って祈ることができたのでした。

それは神様が、フィリピの町で初穂を起こし、それが途中で挫折してしまうことなく、今なお、続いているということです。それは、彼らが今も福音にあずかって信仰に生きているものだという確かな証拠だからです。そしてさらに未来に向かっても、神様の始められた良い業は止むことなく、キリスト・イエスの再臨の日までに、その良き業を完成して下さるという確信を持って神に祈っています。それは、フィリピの教会が建てられただけでなく、マケドニア州全域にフィリピ教会を通して福音が宣べ伝えられることでした。

そして、神は決してその良い業を途中でやめたり、消えさせるようなことはなさらない、必ずこの教会が最後まで命に満ち溢れて福音にあずかり続け、完成させて下さるということです。教会の過去、現在、未来に渡って神様が責任を持って完成させて下さるというのです。たとえ一時、教会が問題を抱えてにっちもさっちもいかなくなり、消えてしまうのではないだろうかという危機的な状態にありましても、それは一つの通過点であり、神様が最後には必ず完成させて下さるというのです。ですから、パウロはフィリピの教会の方々を思い出す度に、神に感謝を捧げ、喜びに満たされて祈ることができたのです。

2.愛の祈り

次に愛の祈りについてみてみたいと思います。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださいます。わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:8~11)

パウロはフィリピの兄弟姉妹のことをきにかけ、愛しているかということは、神様が証明して下さいますと言っています。人の気持ちはなかなか伝わらないものです。気にかけて祈っていますよと言っても、決まり文句のようなあいさつ程度にしか受け取らない人もいるでしょう。でもパウロの思いは神様だけが知っておられ、神様がちゃんと見ておられます。それほどにパウロは真実の愛をもって、このフィリピの教会のために祈っていました。

でもパウロはこう祈っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(9節)と。まず信徒一人一人が「知る力」と「見抜く力」を身に付けて欲しいと祈っています。パウロが祈っていることは、教勢よりもまず私たち一人一人の内面、内なる人が成長し強められることを祈っています。

パウロは手紙を書くたびに、そして手紙の最初の所でいつも「わたしはこう祈っています。」と言って、自分の一番願っていることを書き記しています。このフィリピの手紙だけではなく、エフェソの手紙でも、コロサイの手紙でもです。そして同じようなことを祈っているのです。ご一緒に読んでみましょう。(エフェソ3:14~17、コロサイ1:9~10)

愛が豊かになるために、教会ではいろんな交わりをしたり、活動をしたりします。キリストの愛が増し加わるならば、どんどんと伝道して、新しい人を教会に招いて、霊的な交わりを通して神様の愛を人々に証することではないでしょうか。あるいはいろんな社会活動をして世に向かって善行を行い、キリスト教は愛の団体だと証しをすることはないでしょうか。弱者救済、悪しき社会制度を変えて、社会正義を実践することが教会の使命だと考える人もあります。それが愛の教会の証しではないだろうかと考えて来ました。愛という教えをすぐに、誰か困っている人を助ける、弱きを助けて強きをくじくという倫理的な生活に捉えてしまいがちです。

でもそれも大事ですが、その前にパウロはキリストの愛がどのようにして豊かになるかということについて祈っています。それらの活動、奉仕の前にまず、わたし達が「知る力」と「見抜く力」を身に付けて欲しいということです。神の知恵と理解によって、神様の御心を十分に悟ることがまず最初に求められています。本当の神様の愛は、まずなりよりも、「知る力であり見抜く力」によって養われるのです。そしてその二つの力によって、本当に大切なことは何か、大事なことは何かというのを見分けて選び取って行くこと、それがクリスチャンの目指す生き方ではないでしょうか。生涯の課題です。

英語では、この「知る力」はKnowledgeとなっています。ですからまず聖書から来るところの神様の知識、神様の視点というものをしっかりと身に着けることです。また「知る力」を他の聖書では、「真の知識」「霊的な知識」と訳しています。そして「見抜く力」とは、鋭い感覚を持って物事を洞察することです。他の日本語訳では、「鋭い感覚」「識別力」「判断力」「洞察力」「悟り」となっています。英語では「見抜く力」は、Insightまたは keen Insightとなっています。英語にはkeen(鋭い)という言葉がついているものもありますので、鋭い洞察力を養うことです。

いずれにしましても、わたし達の愛がこの聖書から来る神様の深い知識に養われ、感覚や物ごとを見極める洞察力が鋭くなり、それによって神様の愛がますます豊かになることを目指すべきではないでしょうか。そして何が重要なことか、何が正しいことかを見分けることができるようになってほしいとパウロは日々愛をもって祈っているわけです。

3.キリストの日に備える

最後の箇所を、もう一度聖書を読んでみましょう。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:9~11)

キリストの日に備えるということは、主の再臨の時に主の前に聖い者、神様から咎められることのないように義の実、すなわち知識においても洞察力においても正しい判断ができて、キリストの福音にふさわしい聖い生き方ができるようにということです。それはこのフィリピの手紙のテーマでもあります「お互いにへりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考えて、自分のことだけではなく他人のことにも注意をして気を配って歩きなさい」(2:3~4)ということです。キリストの十字架のへりくだりを学ぶことです。

くれぐれも自分の思い込みや勘違いによって人と衝突したりしないように、まずへり下ることです。キリストの十字架がそうであったように、わたし達も一人一人が自分、自我を捨てて、自我を通すのではなく、自分に死んでキリストと同じ思いを持つことです。自分の理想や考えポリシーではなく、相手のことまず第一に考えることです。一番いい言葉は、「何かお手伝いして差し上げることはないですか。何でもおっしゃってください。」です。

愛とは人に何かをしてあげるというのではなく、本人がして欲しいということをすることです。言い換えるならば、自分にして欲しいと思うことを相手にしてあげるということです。主もこう言っています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12、ルカ6:31)自分が人にしてあげるというのではなく、人が何をして欲しいと願っているのかを知る力です。そういう正しく知る力、見ぬく力です。そういう力を聖霊様によって深く身に付けて欲しいと願っています。

そういう内なる人が実を結んでくるまでには、時間がかかるかもしれませんが、必ず主はキリストの日までに、それを成し遂げて下さると約束して下さっています。年をとってはいても、まだみんな途上にあります。わたし達も誰かに祈られています。ですから自分自身のためにも、「知る知識の力」と「物事を見分ける深い洞察力」が与えられて真の愛に満たされるよう祈って行きましょう。最後の日までに、神様が成し遂げて下さると約束しておられます。

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