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真理とは何か (ヨハネ18:28~38a)

メッセージ
2020年3月29日富里キリスト教会
「真理とは何か」
(ヨハネ18:28~38a)

1. あなたは自分の考えでそういうのですか

イエス様は、ゲッセマネの園で逮捕されて、大祭司の家に連行され、そこで尋問を受けました。ユダヤ人たちは何とかイエスを死刑にしようと考えていましたので、死刑の判決と執行権を持っているローマの総督ピラトのもとへと連れて行きました。早く何とかしてイエスを亡き者にしようと考えていました。そして総督ピラトの前に訴えて、イエスに死刑判決を出してもらおうと画策しました。

イエスは逮捕された罪人として総督官邸の中に入れられましたが、ユダヤ人たちは異邦人の家に入ると汚れると考えて、官邸の中には入りませんでした。そこで総督ピラトを呼び出して、訴えたわけです。罪状はローマへの納税を拒否しているということと自分を王としてローマ皇帝に反逆を企てているということでした。(ルカ23:2)しかし、ピラト自身はユダヤ人の本当の動機は、祭司たちの妬みという感情から訴えを起こしているということを知っておりました。(マタイ27:18)

ですから、できればこの裁判に関係したくなかったのです。自分たちの律法で自分達で裁くがいいと言っています。またピラトの妻も夢でうなされたと言って、夫ピラトにイエスのことであまり関係しないようにと進言しています。(マタイ27:19)しかしピラトは自分の意に反して、ユダヤ人の巧妙な言い方に誘導させられて、イエスに死刑判決を言い渡すよう仕向けられてゆきます。まずピラトは、裁判の初めに被告人の人定質問をしています。

「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そういうのですか。それとも、他の人がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。』」(ヨハネ18:33~34)

イエスはここでピラトに逆に尋ねています。わたしが王だということを、ピラト自身の考えで言っているのか、それとも他人がそう言っているのでピラトが言っているのかと。ここでイエス様は、逆にピラトに、「あなたはわたしをどう思うのですか」と尋ねているのです。回りが悪い奴だからとか、テレビで言っているからとか、ニュースがそう言っているからではなく、あなたはわたしをどう思っているのですかと、ご自分に向き合わせています。

そのうえでイエスは、自分の王国というものは、この地上のものではなく、霊的な天上の王国だと説明しました。そして自分が属している国は、この世の国とは異なると言っています。日本やアメリカ、中国と言った国ではないし、自分はそのような国の王様でもないと。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(18:36)と答えられました。

主イエスは、総督ピラトをご自分に向き合わせ、あなたはわたしを何というか、何だと考えるかということを迫ったのでした。いわば最後の場面で、ローマの総督ピラトに対してもご自分を証し、伝道されたのです。誰もイエス・キリストの前に客観的に第三者として中立的な立場で立てる人はいないのです。「あなたはわたしを何だと考えているのか。」そのことを問われています。

裁判官ですから、事情を差しはさまないで客観的に法律に従って人を裁かなければなりません。でもイエスの裁判は、そうではありません。ピラトのみならずすべての人はイエスの前に立たされているのです。真理の前に立たされているのです。裁判の基準となる真理は、実はイエス様の側にあるのです。なぜならイエス様ご自身が真理だからです。裁くのは神様の側です。彼らは逆に自分たちが裁かれていることに気がつきませんでした。

「自分の考えでそういっているのですか、それとも誰かがそういったからですか?」と。あなたはイエスを何と言いますか、信じますか、信じませんか、真理を受け入れますか、拒みますか?全世界の人々が、法律を犯した犯罪人も大統領も、首相も、裁判官も皆そう問われているのです。本当の真理であるイエス様の前に立たされているのです。真理であるイエス様ご自身が、そう問うているのです。

でも誰もそのことに気がつきません。自分が裁判官になって、真理を行っていると考えています。ピラトもユダヤ人も、イエスはこの地上の王だと考え、その視点で見ているのです。ですから「わたしが王だということは、ピラト総督御自身が言っていることであって、わたしはあなたがたが考えているような地上の王ではありません」と言いました。そして自分は王ではなく、ただ真理について証をするために来たのだと言いました。真理が人を裁く際の基準なのです。

2.真理に属する人は真理の言葉を聞く

イエスはこう言いました。「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」するとピラトは「真理とは何か。」と言いました。主イエスはユダヤ人の王でもないし、ましてやローマ皇帝を退けるような世界の王でもありません。イエスは王ではなく、真理について証をするために来たのだと言いました。言い換えるならば、ご自分は真理を伝えるためにこの世に来たのだと言いました。あるいは真理をもたらすために来たのであると言いました。

この世には真理なるものは存在していませんでした。哲学的な真理でもなく、かといって科学的な真理でもなく、イエス様がこのように来られたのは、まことの真理、唯一の真理をこの世に宣べ伝えるために来られたのでした。そうなのです。イエス様ご自身が真理そのもののお方なのです。以前こう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしを通らなければ父の御許に行くことができない。」(ヨハネ14:6)と。

イエス様は王様になるために来られたのではなく、真理を世に伝えるために来られたのです。そしてご自身が神から来られた真理そのものであられたのです。別な言葉で言いますと、真理とは、イエス・キリストの十字架を通して世に現わされた神の義と愛であるということです。つまりイエス・キリストその方がまことの真理なのです。ですから人を裁く裁判はすべて、この真理に基づいて判断され裁かれなければなりません。

そのために自分は世に来たのであり、「真理に属する人は皆、真理であるわたしの声を聞く」と言われました。ここまで来ますと裁判官のピラトも心穏やかになっていられませんでした。今度は、自分の方が逆に問われてきたのです。真理を愛する者は、皆真理であるわたしの言葉に従い、わたしの弟子ですと言われたのです。今度は形勢が逆転しました。問われているのはイエスではなく、ピラトの方なのです。あなたはわたしの言葉を聞くのか、聞かないのか、わたしに従うのか従わないのかと問われる立場になってしまいました。

わたしはここで一人の姉妹の証を思い出しました。今、手元にはありませんが、その方は、長い間真理を求めて旅をして来られたというのです。本当の真理を求めて、苦労して長い人生の旅をして来られました。夫と別れて子供を抱えながら、どこに真理があるのか求め続けました。そして、自分が求めていた真理とは、イエス・キリストであるということがやっと分かったという証を書いておられました。そして教会に行って真理であるお方を見つけ、イエス・キリストを信じる信仰をいただき、やっと自分が安心できる場所が見つかったとおっしゃっておられました。

人は皆、真理を求めています。何が一体正しいのか、この世にあって動かされない本当の真理とは何か。そこで思わずピラトの口から、「真理とは何か?!」という言葉が発せられました。ここで初めてピラトは真理とは何かという問いを発したのです。あなたの人生において真理とは何ですか、あなたは真理を追い求めていますか、そしてあなたはその真理と出会い、真理に基づいて生きていますかと問われたのです。逆に、ピラトの方が尋問されているのです。ここまで来ますと、ピラトはもうイエスの中に何の罪も見出すことができなくなりました。

3.総督ピラトの葛藤

ピラトはイエスから、真理について尋ねられ、自分はどっちなのか、真理を求めてイエスを信じるのか、それとも真理を拒むのかが問われたのです。ピラトはあせりましたが、はっきり分ったことは、この人には罪がない、ユダヤ人の妬みを買って冤罪をかけられているだけだということでした。

「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過ぎ越し祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人を釈放してほしいか。』すると、彼らは、『その男ではない。バラバを』と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」(18:38~40)

ピラトはイエス様が、肉を取って世に現れた神だというところまでは生きませんでしたが、罪がないということだけは分かりました。罪のない人間を裁いて死刑にするわけにはいきません。そこで、何とかイエスを釈放してあげたいと思い、当時の習慣で、過ぎ越しの祭には一人の犯罪人を赦すという恩赦があるということを思い出しました。そして罪のないイエスを赦そうと思い、ユダヤ人に問いました。すると、群衆は、ピラトの意に反して、イエスではなく本当の極悪人のバラバを赦して欲しいと言ったのです。これは祭司長たちがあらかじめ群衆を買収していたためでした。

ピラトは赦そうと思いましたが、群衆が「イエスを殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫ぶのでした。この18章後半から19章までに、「ピラトはイエスに罪を見いだせない、釈放したい」という言葉が、4回出て来ています。18章38節「あの男に何の罪も見出せない」、19章4節「彼に何の罪も見出せない」、6節「この男に罪を見いだせない」、12節「イエスを釈放しようと努めた」です。

いかにピラトがイエスに罪を見出すことができずに、釈放しようとしたかが分かります。しかしユダヤの指導者たちは、この男を釈放すればあなたはローマ皇帝に背くものとなりますと脅されました。そしてまた官邸の外で叫ぶ群衆の声、「バラバを赦せ!」「殺せ、殺せ、イエスを十字架につけろ!」という大合唱です。今で言う日当で雇われたデモ隊のようなものです。大勢の市民が総督に大声で叫び続けて、圧力をかけたのです。

皆さんでしたらどうするでしょうか。ローマ皇帝に悪く思われたくない、暴動を起こしたくない、平穏にこのユダヤの地を治めたい、そういう政治家としての判断です。あるいは真理に基づいてイエスを釈放するかです。そして釈放に向けて、彼なりの努力はしました。「ピラトはイエスを釈放しようと努めた。」とあります。しかし、自分の地位や出世を考えれば、自分の正義をたててローマ皇帝に悪く思われたくない、良い評価を受けて早くローマに帰りたい、そういう政治家、軍人としての思いが勝ったのではないでしょうか。ついに真理が隠蔽され、抹殺されてしまいました。ピラトの正義も、サタンの大合唱の前に覆い隠され、敗北して罪のない人間を死刑にすると言う闇の力が勝利しました。

先日も、森友学園の問題で、一国の首相を忖度して、不正な事務処理をした命じた佐川財務局長が訴えられました。真実を隠蔽し、公文書を書き換え、何事もなかったかのように犯罪を覆い隠し、そのしりぬぐいを部下にさせて、責任をなすりつけたのです。その部下は、自分のしたことに自責の念を覚えて自殺してしまいました。その妻が真理を求めて訴えました。その上司は首相を助けたということで、出世をして円満退職しました。すべては、自分のため、立身出世のため、お金のために動いているのがこの現代社会です。まさに真理のない世界、闇の世界、サタンの支配する世界です。

そしてこの闇の世界、人間の罪の世界を照らすのが、道であり、真理であり命であるお方、イエス・キリスト様です。それだけこの世の罪の力が大きいということです。この世は真理を隠し、真理を抹殺し、真理を葬り去りました。しかし、真理の御霊が来る時、この世の罪があばかれます。ヨハネ16:8にこうあります。「その方(真理の御霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネ16:8)

ピラトはイエスに何の罪も認めませんでした。そして何とか助けたいと願い努力しました。しかし、ピラトは自分自身の罪に気がつかず、イエスを十字架につけたのは自分だとは認めなかったのではないでしょうか。不本意ながら、ユダヤ人や群衆の声に押されて、死刑判決を出してしまいました。不可抗力だ、仕方がなかった。でもわたしには関係ないことだと思ったのではないでしょうか。でもそういうピラトのためにも、イエス様は肉体を取ってこの世に来られ、十字架に架かり、罪の贖いの業を成し遂げて下さったのではないでしょうか。

妬みから十字架につけて、イエスを抹殺しようとしたユダヤの指導者たち、そして買収されて叫んだユダヤ人の群衆、彼らの罪は大きいです。しかし、この裁判には関係ないと言って手を洗った、異邦人のピラト総督、そして何も知らないでイエスを十字架につけたローマの兵士たち、彼らはこのイエスの裁判と死刑に何の関係もないと言えるでしょうか。

ピラトの葛藤は分かりますが、結局は彼も、自分の地位を守るため、出世のため、自分自身のためにイエスに死刑を言い渡しました。彼も間違いなく罪人のひとりなのです。イエスと関係がないとは決して言えないのです。そしてその罪を赦すために今、ピラトの目の前にナザレのイエスが立っているのです。しかし、真理そのものが自分の目の前にいることにピラトは気づきませんでした。イエス様はこう言いました。「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(18:37)と。

真理とは、神に背いた罪人を、神はわが子を十字架につけるほどに愛して下さった。あの十字架のキリストに示された神様の愛と神様の義以外にはありません。十字架のキリストこそ真理そのものなのです。イエスはこの神の真理を証し、その真理を宣べ伝えるためにこの世に来られました。肉を取って来て下さったのです。世の罪を救うために、ナザレの大工の息子として来てくださったのです。イエス・キリストこそ、そしてその十字架こそ神の真理そのものなのです。そしてそれを教えてくださるのは、神の御霊以外にありません。この真理の御霊に導かれている人は、イエスの御声に耳を傾けます。

今全世界が、歴史的な未曽有の受難の時を迎えています。このような時代だからこそ、静まって主のみ声に耳を傾けてゆきましょう。昔も今も、真理の御霊はすべての人の心を照らし、すべての人の心に語りかけおられます。真理である主イエス・キリストの御前に立つことを、神ご自身が求めておられます。真理から目を背けている人々、政治的な指導者、宗教的な指導者、そしてわたしたちも真理であるお方の前に立たなければなりません。

最後の審判は既に、あの十字架の上でなされたのです。真理の御霊がすべての人の上に注がれています。この御霊のいうところに耳を傾けて真理の前に立つか、真理に背を向けて出て行くか、真理を否定するか、それは現代の私たちの決断次第です。どうか、素直に主の御声に耳を傾けて、真理の御霊の助けをいただきつつ、自分の心の奥を探ってもらい、悔い改めの時を過ごしてまいりましょう。そして今日も真理の前に立とうではありませんか。        (岡田 久)

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