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目を覚ましていなさい (マタイ25:1~13)

メッセージ
2017年3月19日富里キリスト教会

「目を覚ましていなさい」
(マタイ25:1~13)

1.ユダヤの結婚式

ある外国人がイスラエルに行きまして、タクシーで観光をしながら町を見ていました。そうしましたら、車の前を10人くらいの少女たちがきれいな服装をして笑いながら通って言ったそうです。運転手の方に「あれは何ですか?」と尋ねましたら、今日は結婚式だというのです。「じゃあぜひ、記念にその結婚式を見てみたいので見学できますか?」と尋ねました。そうしましたら運転手さん曰く、「お客さん、それは無理ですよ。花婿がいつ来るか解りませんから、結婚式はいつ始まるか解りませんよ。」と言ったそうです。これがイスラエルの結婚式だそうです。

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。10人の乙女がそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。愚かな乙女たちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。賢い乙女たちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい。』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」(マタイ25:1~7)

結婚式のたとえを用いて、主の再臨に備えるクリスチャンの生き方を示したのが、今日のお話です。花嫁側の10人の乙女のうち、全員がともし火を灯して油も十分に予備を持っていて、花婿がいつ来てもいいように準備をしているわけです。ところが今日のお話では、そのうちの5人は「ともし火は持っていたが、油は用意していなかった。」とあります。(ともし火皿を見せる)つまり、このランプにはある程度の油は入っていましたが、予備の油は持っていなかったというのです。おそらくこの油が燃えている間には、花婿は来るだろうと思っていたかもしれません。これだけで間に合うと思っていたと思います。 

ところが予想に反して花婿は真夜中にやって来ました。10人とも夜遅いですから、全員、寝てしまっていました。女友達ですから、10人も集まればはしゃぎすぎて、夜には疲れ果ててしまったかもしれません。そして真夜中に突然、花婿の友達が10人やって来て、大きな声で叫びました。「花婿だ。迎えに出なさい!」と。この言葉は英語で、”Behold, the bridegroom is coming. Go out to meet him !”となっています。「見よ、花婿がやって来た。出迎えるために出て来なさい!」という意味です。英語では非常に格調の高い言葉です。と言うことはこの声は、主の再臨に際して、天使たちが聖徒たちを死んだ者も生きている者も、世界の端から端まで呼び出す時の言葉ではないかと言うことです。

すなわちこのたとえでは、「花婿」がキリスト、「花嫁」が教会、そして「花婿の友人たち」は神の御使い、天使、そして「花嫁の友人の乙女」というのが、わたしたちクリスチャンのことを言っているのではないかと言うことです。そして「油壺」はわたしたちの心、「油」は聖霊様、「ともし火」は信仰のともし火をさしているのではないかと思います。「婚宴の席」は天国、「戸」とは天国の扉で、「入れない」と言うことは天国から締め出されてしまうということを意味しているのではないかと思います。

そして5人の「賢い乙女」と言いますのは、「賢い」、「分別がある」、「思慮深い」、「注意深く見張る」という意味の「フロニモス」(ギリシャ語)という言葉です。日本語では「慧人君」の「慧」の字を使って「慧(さと)き者」とも訳している聖書もあります。一方、「愚かな乙女」といいますのは、「モーロス」というギリシャ語ですが、「愚か」という意味の他に「味が無くなる」という意味も持っています。

2.花婿(キリスト)は真夜中に突然来る

長い信仰生活の中で、いろんな人生の嵐に会って、神を疑い信仰を失いかけている人もいます。またいくら祈っても聞かれないと思って、失望してしまって、祈ることを止めてしまう人もいるでしょう。兄弟姉妹との人間関係や、経騎亜の奉仕などでつまずいたり、疲れ果ててしまって教会を離れている人もあるかもしれません。もうキリストは来ないと思って、あきらめたり、気落ちしたりしている人々がたくさんおられます。でも、もうすぐに主は来られるのです。突然来られます。

ただ言えることはやがて来ると言うこと、確実に来ると言うことです。そしてわたしたちの目は、その来られる日に向かって真っ直ぐに目を注いでいると言うことではないでしょうか。思慮深く、見張り人のようにして、未来に目を注ぐのです。過去に目を奪われないと言うことです。やがて来たりたもう方、その方は天から来られますから、上を向いて進みたいものです。そして前を向いて、未来に向かって真っすぐに目を注ぎ、やがて来られる方を見つめつつ歩みましょう。それはこの聖書の約束の御言葉のともし火を信じて、希望を持って見つめると言うことです。花嫁が花婿を喜ばせることに身も心も捧げるようにして、待つことではないでしょうか。

3.乙女たちを分けたもの

ではいったい、この賢い乙女と愚かな乙女を分けてしまったことは何だったでしょうか。どちらもさっきのランプを持っています。そして当然、ともし火を灯す油は入っています。8節に「油を分けて下さい。わたしたちのともし火は消えそうです。」と言っていますから、そのときまでは愚かな乙女たちも油を持っていて、一緒にともし火を灯して待っていました。ただ彼らを分けたのは、ともし火は消えかかっていますが、予備の補充する油がなかったのです。この予備の油、補充用の油を切らしたことが、彼らを分けてしまった決定的な理由ではなかったでしょうか。

つまり、両者とも、実は花嫁が来ることは知っていました。これは同じです。ただ知っていることと、備えていることとは違うことです。愚かな乙女は知っていましたが、その時のための十分な準備をしていなかったと言うことです。賢い乙女は知っていましたし、そのために万が一のことを考えて準備をしていました。この違いが両者を分けたのです。「知っていること」と「備えること」とは違うような気がします。

やがて主が、再臨されると言うことはクリスチャンなら誰でも知っています。でも知っていることと、備えておくと言うことは決定的に違います。備える人は、本当にその時が来ることを信じている人です。ですから、いつ来てもいいように花婿を迎える準備をしています。信仰のともし火が消えてしまわないように、聖霊の油を絶えず買い求め補充をしつつ待っています。つまり、祈りつつ、約束の御言葉を絶えず目の前において、清くなることを求めて日々を過ごしています。これは何も、教会に毎日行くとか、自分の財産を全部処分して、教会に住み込んで主の再臨を待っているというようなことではありません。普通の生活をしながら、今自分に与えられている奉仕や務めに真剣に取り組むことです。そして心は常に、やがて来たりたもう主に向かっていると言うことです。

皆、大地震があることは知っています。また大津波が来ることも知っていました。でもこの時、死んだ人と生き残った人を決定的に分けたのは何だったでしょうか。知っていることと備えることの違いです。その奇跡的な出来事がありました。死者と生者を分けたその違いがそこにあります。つまり生きた人は、津波が来ることを知っていてその備えをしていた人です。知っている人と実際に備えることとは違うのです。わたしたちはどんな訓練をしているでしょうか。どんな備えをしているでしょうか。油を蓄えておくと言うことは、その決定的な日のために備えると言うことです。(マタイ24:45~46参照)

4.油を蓄えるには

先週の祈祷会で、わたしはうっかり、もうこの愚かな乙女たちのともし火は消えてしまっていると言いました。そうしましたら、ある方が、「先生、『わたしたちのともし火は消えそうです』とあります。ですからまだ消えていません。」と注意してくださいました。そうなんです、まだ完全に消えていないのです。消えかかっているのです。まだ完全には消えていません。油を足せばともし火は再び燃えあがります。まだ可能性があります。

このたとえ話は一つの警告ですから、もし自分の油が消えかかっているのではないかと思われる人は、今のうちに、まだ花嫁は来ていませんから、買いに行けばいいのです。そして予備の油を蓄えればいいのではないでしょうか。まだ間に合うと言うことを、この「消えかかっています」という言葉から読み取ることができるのではないでしょうか。

ではいったい、どうしたら予備の油を用意することができるでしょうか。それは「店に行って、自分の分を買って来る」(25:9)しかありません。黙示録3:18にこうあります。「そこで、あなたがたに勧める。裕福になるように、火で洗練された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(黙示録3:18)またイエス様ご自身もこう言いました。「誰でも渇く者は、わたしの所に来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から行ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのである。」(ヨハネ7:37~39・口語訳)

つまり油を満タンにし、なおかつ予備の油を蓄えておくためには、イエス様のところに行ってそれを買えばいいのです。別の言葉で言いますと、祈りと御言葉を通して、イエス様から聖霊をいただくと言うことです。そしてまずこの聖霊様を認めなければなりません。いるかいないか知らないという人には注がれません。聖霊様が存在し、わたしたちの求める祈りに答えて下さるのです。ですから、遠慮せずに、「聖霊様、わたしの所に来て下さい。わたしを満たして下さいと」と祈ることです。また祈るだけではなく、神様の御言葉を読むことです。昼も夜も御言葉を覚え口ずさみ離さないことです。そのことによって聖霊の油が注がれ、満タンになります。わたしは聖書を読まない人、祈らない人は残念ながら、予備の油を持った乙女とは言えないと思います。

そしてここで一つ注意をしていただきたいことは、もし万が一にも、ともし火が消えかかっていても、他の友人から分けてもらえないと言うことです。油は自分でじかに、神様からいただかなければなりません。「分けてあげるほどはありません。それより、自分で店に行って、自分の分を買って来なさい。」(25:9)と言いました。ちょっと友達がいのない、冷たい友人ですね。でもそうなのです。聖霊様は自分で直接イエス様から買わなければならないのです。

ズーっと信仰生活から離れている人が、イエス様の再臨が分かって、あわてて教会に来て昔の信仰の友や牧師に、何とか私の分を分けて下さいと言っても、もう手遅れなのです。聖霊は分けてあげられないのです。これは、わたしたちに対する戒めであり、警告です。聖霊の油を祈り求めましょう。最後に主はこう言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、そのときを知らないのだから。」(マタイ25:13)と。

自分で普段から、聖書と祈りの時を持ち、目を覚まして祈り主の再臨に備えていることです。主日の礼拝、祈祷会、献金、教会総会、教会学校、スモールグループ、そして何よりも自分の日々の静聴の時間を持つことです。そして自分に与えられた霊の賜物を用いて、自分と他人を比較しないで、たとえ1タラントという小さなものでも、それを一生懸命用いて増やすことです。伝道することです。そのようにしてまず、神と自分とのタテの関係をしっかりと築くことが、油を切らさない乙女の生き方ではないでしょうか。まだ間に合いますから、まだ主を受け入れていない人は、今日主を信じて聖霊の油を買い求めましょう。
    

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