ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

目をあげて山々を仰ぐ (詩編121・1~8)

メッセージ

2010年9月19日富里教会
「目をあげて山々を仰ぐ」
(詩編121:1~8)

1. わが助けはどこから来るのか(1~2節)

まず最初に、1節から読んでみます。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(121:1~2)
この詩人は、山々を見上げて、神の助けを待ち望んでいます。そして私の助けはどこから来るのだろうかと、問い掛けています。つまり、今彼は助けが必要な時なのです。しかしその助け手である神の存在が、身近に感じることができないでいます。そして遠くの山々を、はるか彼方に望み見て、ある意味では、神と自分との距離感、隔たりを感じていたのかもしれません。

詩人カール・ブッセは、自分で、自力で幸いというものを探しにいったけれども、発見できずに帰ってきました。太宰治は、「われ山に向かいて目をあぐ」と聖書を引用していますが、彼の暗い欝的な思いを打ち消す事はできなかったようです。彼は「人間失格」という小説を書いて、最後には自殺してしまいます。
一方、この詩編121の作者は、カール・ブッセや太宰治のように、何か自分の限界や無力さを覚えて山を見上げたかも知れません。しかし、次の2節の言葉で、180度違う結果になっています。それは、「私の助けは来る」とはっきりと断言していることです。そしてその助けの源は、「天地を造られた主のもとから」来ると信じています。

ですから、わたしたちが山を見上げるのは、はるか彼方の遠い遠い存在の神様を諦めて見上げるのではないのです。山の彼方からいつも私たちを見守り助けを与えて下さる神様を信じて、期待して、待ち望みながら山々を仰ぎ見るのです。山々を仰ぐということは、別な言葉で言いますと、はるか彼方におられる神様を礼拝するということを意味していると思います。見ずして信じる信仰です。

もちろん山岳信仰のような「山そのもの」を礼拝するのではなく、山を造り、空を造り、雲を造られた創造主なる神を礼拝するということです。そのお方を、はるか遠くに、高いところに、私たちが見上げて礼拝するのです。私たちは見上げるしかできません。目を上げて、山々を仰ぎ見ることしかできないのです。でも、それが大事なのです。なぜなら、私たちが見上げる先には必ず助けて下さるお方がいるからです。ですから、どんなに状況が厳しくても、辛くても、苦しくてもまず、目を上げて山々を仰ごうではありませんか。「あなたがたは上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:1~2)

2. 足がよろめかないように見守る方(3~6節)

次に第3節から読んでみましょう。
「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守って下さるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う蔭、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。」
                         (121:3~6)
この詩人は、あのはるか彼方の山の向こうの空遠くから、必ず神の助けは来ると信じていました。どんな助けでしょうか。この詩編の中にキーワードとして何度も繰り返されている言葉があります。それは「主は私たちを見守る方」だということです。「見守る」という言葉は、合計6回出ております。それだけ強調されていると言うことですし、神様は実際にそのようなお方だということです。英語では「見守る」を、「WATCH OVER」と言います。

主は、常に目を見張って、私たちの足がよろめかないように見守って下さるお方です。しかも、4節に「まどろむことなく、眠ることもない。」とあります。私はここの英語の言葉の響きがとても大好きです。「HE WHO WATCHES OVER ISRAEL WILL NEITHER SLUMBER NOR SLEEP」まどろむという言葉はSLUMBERといいます。つまり、神様はいつも眠ることなく、また、うとうととうっかり眠って、目を閉じてしまうことすらないというのです。いつも、目を覚まして、寝ずの番をして、私たちを見守っていて下さるのです。しかも、単に見ているだけではありません。守っていて下さるのです。

ベトナム戦争に出兵した一人のアメリカ兵の証です。戦闘の激しい最前線で彼は戦っていました。ある日、テト攻勢というベトナム軍の総攻撃があるという知らせが入りました。彼はもしかしたら、今晩、ベトコンの一斉攻撃で、自分は生き残ることできないかも知れないと覚悟を決めました。そしてポケットに入っていた詩編付きの小さな新約聖書をめくってみました。そうしたら、この詩編121:5~6節の御言葉が与えられました。「主はあなたを見守る方、あなたを覆う蔭、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない」。彼は思いました。「主は私を見守っていて下さる。たとえベトナム兵が襲いかかって来ても、私の右にいて守って下さる。どんな攻撃も私撃つことはできない。」そういう確信をいただきました。

照明弾が打ち上げられ、爆発音と共にベトナム軍の大攻勢が始まりました。弾丸と叫び声が飛び交い、何が何だかわからない地獄のような阿鼻叫喚の闘いの中で、彼も必死に死に物狂いに戦いました。やがて、銃声が止み、うっすらと夜が明けてきました。彼が、周囲を見回すと、自分がいた塹壕にアメリカ兵とベトナム兵のおびただしい数の死体が散乱しているのを目の当たりにしました。しかし、彼は守られ助けられて、生き残ることができました。神様の御言葉は真実です。たとえ、私たちが、神様の御心から離れ、神に背を向けていようとも、主の目はまどろむこともなく、眠ることもなく私たちを見守っていて下さいます。大きな鳥の翼のように彼を覆い隠し、どんな敵の攻撃からも守り続け、死から救ってくれたのです。

3.立つのも帰るのも見守る主(7~8節)

そして、神様は私たちを守って下さるだけではなく、私たちに襲いかかろうとする災いからも遠ざけてくださるお方です。どこかへ出かけるとしても、その出発と帰りをも守って下さり、無事返してくださるということです。最後に、7節以降を読んで見ましょう。
「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守って下さるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守って下さるように。今もそしてとこしえに。」(7~8) 

一人の方が、病気で入院することになりました。その時、「先生、今朝、御言葉を読んで与えられたのが、この詩編121の8節です。」と元気におっしゃって下さいました。「あなたの出で立つのも帰るのも、主が守って下さるように」という御言葉です。入院のために家を出て、病院に出発するわけですが、帰るのも主が守って下さるという確信をいただいたのでした。家族も教会員も皆心配しました。でも、彼はこの御言葉の通りに、間もなく退院されて元気に帰ってまいりました。その時私は、いつも御言葉を求め、御言葉の語る声に耳を傾けて歩まれている兄弟に、信仰の何たるかを教えられたような気がしました。

いろんな困難や悩みや問題で、行き詰まってしまう時があります。不安と恐れにかられて、地に足が付かなくなる時があります。それでも、主はいつも私たちを見守っていて下さいます。たとえ、行き詰まりや不安や恐れにかられるような時がありましても、そのこともまた主の目から見た場合には意味があります。その人が、自分の無力さを覚え、謙遜になり、悔い改めて、今まで以上に、神様に従う者へと変えられ成長してゆく時でもあるのです。

人間が、人生の空しさを覚え、自分の不甲斐なさに気づき、山に向って目を上げざるを得なくなる時こそ、ある意味では、神様とのもっと深い出会いの時でもあるのです。そして不遇の時、病いの時、弱さを覚える時こそ、私たちは神様の真実と出会い、生きる真の意味を見出す絶好の時ではないかと思います。

私たちにできること、それはただ、ただ天地を造り、全てを御支配しておられるわれらの主なる神様を、目を上げて仰ぎ望むことです。今こそ目を上げて、天地万物の造り主なる神を見上げ、心からの礼拝を捧げましょう。そして主に助けを求めましょう。その時、天地を造られた主のもとから、必ず主の助けが来て下さいます。

                                                 (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional