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男と女 (創世記2:4~25)

メッセージ
2017年7月16日富里キリスト教会

「男と女」(人間とは何か)
(創世記2:4~25)

1.神の息によって生きる存在(祈る存在)

まず最初に人間は、神の息によって生きる存在だということです。2:7に「主なる神は、土〔アダマ〕の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻の穴に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)とあります。1:27では「神にかたどって造られた」とありますので、人間は他の動物とは違う何か特別な存在だと思うかもしれません。でも、2章でははっきりと土の塵から造られたと言っています。土だけではなく、わざわざ塵とまで言っています。

これはどういうことかと言いますと、わたしたち人間はまさに土や塵にすぎないと言うことです。みんなこうなるのです。わたしたちの行き着く先は、この土です。自分の存在のはかなさ、空しさを知ると言うことです。神の息はルーアッハ(ヘブライ語)と言いますが、この神の息、すなわち神の霊が鼻から吹きこまれることによって、人間は他の動物と異なり「生きる者」となることができたのです。

神の息が吹き込まれる前も生きてはいましたが、それは動物として生きていたのであって、神の息によって神様と向き合い、神の命を受ける特別な存在ではなかったのです。この神の息が吹き込まれることによって、真に神と向き合い、神と共に生きる人間となって行くのです。(「造る」という漢字の意味は、「土」に神が息「ノ」を吹き込んで、「口」で神に祈り、御言葉を「告げる」ために、立ち上がり歩く人「しんにゅう」。これが「造る」の意味です。)

そして、わたし達が死ぬ時には、この体は元の塵に返され、わたしたちの霊は神のもとに帰って行くのです。コヘレト12:7の御言葉にある通りです。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(コヘレト12:7)このことをしっかりと心に刻んで、自分がいかにはかない存在であるかと言うことをわきまえる必要があります。まさに塵灰にすぎないのです。(創世記18:27)しかし、信仰によって、わたしたちの霊はそれを授けて下さった神のもとに帰って行くのです。

ただこうして神様と相対して、神に語りかけ、神の御心を伺うことのできる者にして下さったのは主なる神なのです。つまり神に祈る存在にして下さったのです。神の息はそのことを意味しています。神の息によって、神様と相通じて、神様の霊によって大胆に物申すことが許されているのです。この祈ることを許されている存在であると言うことをまず、主に感謝したいと思います。そして、この主に造られ、主に祈ることの許された者として、へりくだって祈って行くものでありたいと願っています。

2.御言葉に従う存在

次に主なる神様は、わたしたちにこのすばらしい創造世界を与えて下さいました。そしてその世界を治めるためのモデル世界として、エデンの園を設けて下さり、そこに一人の人アダムを置いてくださったのです。(2:8)まさに楽園です。あらゆるおいしそうな果物がなっていました。食べることにおいては、こと欠きません。またチグリス、ユーフラテスと言った四つの川が流れていて、金や琥珀も産出する豊かな土地でした。そしてそこにアダムを連れて行って、エデンの園を耕し管理するように命じたのです。(2:10~15)

15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」つまり、この世界は神様が私たち人間に、そこに住んで土を耕し、その自然世界を守り管理するようにして下さったのです。但し、そこで主なる神は、一つの御命令を与えました。それはエデンの園のすべての木からは自由に好きなだけ取って食べてもいいが、園の中央にある「命の木と善悪を知る木」だけは決して食べてはいけない、もし食べると死んでしまうことになるという戒めを与えられました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16~17)と。

このようにして主なる神は、神の形である人間とはどういう人間なのかと言うことを、徐々に絞り込んで具体的に造り上げて行きました。第一に土から造られ、神の息によって、神と会話ができる、神に祈る存在として人間を造りました。これが神の形です。そしてさらに神の形とは何かと言うことで、今度は、神の戒め、神の御言葉に従う存在として人を造ろうとされたのです。

それが、園の中央にある二本の木の実を食べてはいけないという御命令でした。この神の御命令に従う存在が、真に神の形なのです。(「禁」という漢字の意味は、神が二本の木「林」を、「示された」ことです。)つまり神様は、神の御言葉に従う存在としての人間、神の戒めをしっかりと守ることによって、この世界を治める者として造られました。つまり、このエデンの園の中央に二本の木を置かれました。そして、実を食べることを禁じたと言うことは、神の主権を守られたと言うことです。この二本の木が置かれた場所というのは、いわば神の座でもあるのです。園の中央、世界の中心は、神のいます御座であると言うことです。

つまり、この世界は神が創造した世界であり、あくまでも主体は神であり、人間はその命令に従うものにすぎないと言うことを教えたかったのです。従って、勝手にこの禁止条項を破って、神の座に入り込み、神の本質である命と善悪の判断を、かってに自分で手にすることのないようにされました。人間が自ら傲慢になって、神のようにならないようにするためだったのです。

神の息を受けると言うことは、いわば神の御命令に従うと言うことです。ですからこの2章では、神の名前が「神」から「主なる神」に代わっています。あくまでも主人は神様であり、人間はその神の御命令に従うかぎりにおいて、生きることを許されているのです。先ほど人間は、神の霊によって祈る存在だと言いましたが、自分の願望をどこまでも神様に押し付けて、何が何でも実現してもらおうというのではないのです。まず、神様がどういうことを求めておられるのかと言うことを、まず第一に考えて祈り行動することです。これが、神の形に創造されたと言うことの大事な点です。

3.互いに向き合う存在

更に主なる神様は、御自分の姿に似せようとしてアダムに助け手である女を造ろうとされました。「人が一人でいるのは良くない。彼に会う助ける者を造ろう。」(2:18)と考えました。しかし、最初に神が造られたいろんな動物では、真にアダムの助け手となるようなものはできませんでした。生物的な生き物では、どうしてもアダムの助けとはなりません。それはそうですね。いくら忠実なペットを造り与えても、動物では、単なるペットで本当の意味での助けにはなりません。

そこで、アダムを眠らせて、アダムのあばら骨の一部を抜き出して、それで一人の人、女を造られました。そしてその女を造って、アダムのところへ連れて来ると、アダムは歓喜してこう叫びました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これこそ女(イシャ―)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(2:23~24)つまり助け手が必要だと言うことですから、人間はお互いに助けられる人であり、助ける人です。助け合う存在としての人間なのです。助けを必要としている人と、助ける人とどちらが偉いですか?助ける人ですよね。女の方が地位が上なのです。

こうしてついに天地創造は、クライマックスに達しました。それは神が三位一体の神であるように、人間も、ただ一人の単独者ではなく、人間同士の関係を通して神の真の姿を表すものとなることを願われたのです。それが助け手である女の創造でした。神は、女を造ることによって、互いに相異なる二人の人間がお互いに相対する関係において、神の真の姿を表そうとされたのです。神に祈り、神の御言葉に従い、その神との関係を全く異なる別人格との関係、しかも助け合う、補い合う、カバーするという関係において実現しようとしたのです。

ですから人間はただ単に、神と相対しているだけではなく、他の人間との人間関係、相手の益を図る、相手を喜ばせるという関係を築いて行く中で、真の神の形になって行くのです。そのためには二つのキーワードがあります。一つは「父母を離れる」と言うことです。もう一つは「女と結ばれて一体となる」と言うことです。

イエス様は、12歳で既に親離れをしました。親の元を離れて、神殿で祭司たちから聖書の御言葉を学んでいました。わが子を探しに行った親に対して、イエス少年は「わたしが、自分の父の家にいるのは当たり前のことではないですか。」(ルカ2:49)と答えて両親を戸惑わせました。つまり12歳で人は肉体的血縁的な親から離れて、霊的な親である神の御言葉に養われることができると言うことを示しています。つまり12歳が霊的成人式なのです。これはユダヤ人の成人式の年齢です。そして父母を離れることによって与えられた最高のメリットは何でしょうか。イエス様はすでに12歳で、親から離れ、その結果、まだ子供ですが「両親に仕えて暮らす」ことができたのです。(ルカ2:51)親から離れたので、親を敬い、親に仕えることができたのです。

そして実はこの女であるエバの働きもそうでした。親から真に離れることができるように、自立できるように助けるのが女の働きです。助け手とはヘブライ語で「エゼル」と言います。ここから英語のエーゼルができました。エーゼルとは、キャンバスを乗せてしっかりと画家の方に向けさせて、絵を描くのを助ける道具です。キャンバスが夫です。妻はエーゼルです。そして神様が画家です。ですから助け手としての妻の働きは、夫が真っ直ぐに絵描きである神様に心を向けているかどうかを支える働きです。しっかりと地面に足をつけて、キャンバスを支えます。常にキャンバスである夫が神のほうを真っ直ぐに向いているようにします。完成するのは絵である夫のほうであり、夫が賞を受けます。妻は、賞を受けるわけではありません。縁の下の力持ちです。

またあばら骨と言いますのは、呼吸をするために大事な肋骨のことを言います。夫がしっかりとデボーションをして神様と祈りを持って霊的な呼吸をするのを助けます。また外部から夫の心狙って誘惑してくるサタンの火矢をも、あばら骨が守ってくれます。あばら骨である女の働きは、夫が霊的な呼吸をするのを助け、しっかりと神に向き合わせ、悪魔の誘惑と攻撃を防御することです。これが助け手である女の働きです。

そしてアダムである夫は、このあばら骨から造られたエゼルである妻を、ほめたたえることが求められております。これが、夫が妻を愛すると言うことです。聖書にありました。「息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。『有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる』と。・・彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。」(箴言31:28~29、31)これが妻を愛すると言うことではないでしょうか。ただ向き合うだけではなく、妻に感謝し、その働きをほめたたえることです。このことによって、二人は一体となって行くのではないでしょうか。ここに最終的な天地創造の完成があるような気がします。そのような交わりを持った存在として、主なる神はわたしたちを神の形に創造し、男と女に造って下さったのです。 

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