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生命の御霊の法則 (ローマ8:1~7)

メッセージ

2013年8月4日富里キリスト教会

「生命の御霊の法則」
(ローマ8:1~7)

1.万有御霊の法則

聖書にもニュートンの万有引力の法則のように、当たり前すぎて、そういう大きな力が働いていることさえ知らずにいることがあります。それが命を与える御霊の法則です。この聖霊の働きは、万有、全てのことに働いてもいますが、とりわけクリスチャンの間にあっては不思議な仕方で、力強く働きます。あまり、当たり前すぎて気がつかないことがあります。教会の中では、いっそう顕著に働いています。しかし、わたしたちは当たり前すぎたり、奇跡だと思ったりして御霊様の力だとは気がつかないでいる時があります。

例えば、先週、坂井兄が礼拝の報告の中で「今、教会に三つ目の奇跡が起こりました。」と報告しました。第一の奇跡は、教会の看板が新しく建て直されたことです。そして第二の奇跡は、CBUのコンサートにたくさんの方が来て下さったことです。そして第三の奇跡が、BBQの時にあんなに激しく降っていた雨が上がって、庭でBBQができたことです。次々と奇跡が起こり、私たちはそれを目の当たりにしています。そして、宇野姉の御主人が無事に手術を終えて、今、回復に向かいつつあることも第四の奇跡かもしれません。

復活の朝、墓の入り口には大きな石で蓋をしているにもかかわらず、マリヤたちが遺体に香油を塗ろうとして墓に行きました。そうしたら、既に墓の入り口にあった大きな石がどかされていました。(ヨハネ20:1)また、ペテロが逮捕されたときにも、教会で祈っていましたら、天使が来て牢屋の鍵を全部開けて知らないうちに牢の外に出ていました。(使徒言行録5:19~20、11:11)これも不思議な出来事です。聖霊様が天使と共に働いて、奇跡を起こされたのです。

このようにして、聖霊様は私たちの間で生き生きと力強く働いておられます。しかし、あまりにも当たり前すぎて、御霊の法則でそのようになっているという実感がないのです。万有引力の法則のように、命の御霊の法則も当たり前すぎて、気がつかない時があるのではないでしょうか。でも、あとで考えてみれば、「あの時、聖霊様が止めてくれたんだ。あの時、聖霊様が道を開いてくれたんだ。」ということに気づいて来るのではないでしょうか。御霊の法則が存在し、私たちを導き助けて下さっていることを覚えたいものです。

2.御霊の法則は、罪の法則よりも強い

さて、第一コリント12:3にこうあります。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と。つまりイエスを主と告白している人、私達キリスト者はすべて、この聖霊の注ぎをいただき、聖霊によって主を告白し、聖霊を心の内に持っているのです。聖霊によって主を信じ受け入れ、聖霊によって告白し、聖霊によってバプテスマを受け、教会の一員になっているものなのです。

しかし、私たちの体には、この御霊の法則と、罪の法則と、心の法則の三つの法則が働いていて、これが体の中でしのぎを削っていることも事実です。私たちが自分の意志で何か善いことをしようと決心します。しかし、その良いことをさせない罪の法則も肉の中に働いていますので、しようと思う良いことができない自分が居ることに気がつきます。善を行おとする心の法則と、悪を行おうとする罪と死の法則が戦っているのです。そして、心の法則は、この罪の法則に勝つことはできません。

そういう自分に絶望してパウロは、「ああ、何と言う惨めな人間なのだろう。誰がこの死に定められた体から私を救ってくれるのだろうか。善をなそうとする意志はあるがそれができない。むしろ望まない悪を行っている自分の姿を見るばかりである。」(ローマ7:18~19)と叫んでいます。自分の意志や自分の判断で、善を行うと思ってもできないという現実に突き当たります。前回は、自分のこの肉の中にある罪の現実に気がつくことが、救いへの第一歩だと言いました。だから、クリスチャンは一回だけではなく、何度も何度も自分の罪を認め、悔い改めて生まれ変わることが必要だと言いました。

しかし、悔い改めても、悔い改めても罪の法則に負けるのは、それは自分の意志や努力や力で何とかしようとしているからです。この善をしようとする心の法則は、罪と死の法則には勝つことができません。そこでクリスチャンは、自分の力ではなく、自分以外の力により頼まない限り、この罪の力に勝つことはできないのです。それが聖霊の力であり、御霊の法則なのです。そして、この御霊の法則は罪の法則よりも強いのです。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」
(ローマ8:1~3)
イエス様はあの十字架の上で、私たちの罪を全身に受けて下さって私たちの罪の身代わりになって死んでくださいました。そして三日目に復活され、罪と死と悪魔に勝利されました。そしてその証拠に、私たちの心に聖霊様を送って下さり、信仰へと導いて下さったのです。主を信じる者はすべてこの聖霊によって信仰へと導かれているものであり、聖霊を自分の心の内に持っているものなのです。

そしてこの聖霊の法則だけが、罪と死の法則に勝利することができるのです。御霊の法則が罪の法則よりも圧倒的に強いのです。これは先ほども言いました通り、法則ですから、強い法則に弱い法則は従わなければなければなりません。いくら、空に向かって矢を放っても、引力の法則には矢の慣性の法則は勝てません。途中で落ちてきてしまいます。ピストルを地面に水平に撃っても、やがて弾は地面に落ちてしまいます。引力の法則が強いからです。自然界の法則というものは、強い法則に従わなければなりません。

同じように、罪と死の法則は命を与える御霊の法則に勝つことはできません。キリストの十字架の死と復活がそのことを証明しています。罪の力はこの聖霊の力に勝つことはできません。死の法則は、命の法則に勝つことはできません。なぜならば、それが自然界の法則のように決定済みだからです。おなじように、私たちは、心の中にキリストの霊をもっています。神の霊に従って神の霊に導かれて歩んでいます。そして、この命を与える御霊の法則の中に生きています。この御霊の支配下にあるものです。この御霊の法則の下にある者には、もはや罪の力も死の力の私たちを支配し得ないのです。

ですからパウロはこう言っています。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊をもたない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
                       (ローマ8:9~11)
私たちは皆、目には見えませんが、聖霊様を通してキリストのものであり、御霊の法則の支配下に移されているものです。キリストの霊をもっています。もし持っていないという人はこの教会のメンバーではありません。主を告白した者は全員この御霊の法則の支配下に置かれているのです。聖霊によらなければ、信じることができないからです。皆様に聖霊様が働いておられるのです。聖霊様を内にもっているのです。あの第一、第二、第三、第四の奇跡を通して聖霊様が私たちの間に働いておられるのです。そして、御霊の法則は、さらに第五、第六の奇跡を見させてくれるかもしれません。それを期待しましょう。

3.御霊によって祈る

パウロは、私たちが御霊の導きを受け、キリスト・イエスを信じた者として、なすべき義務があると言っています。8:12にパウロは「私たちには一つの義務がある」と言っています。どんな義務かと申しますと、一つは「霊によって体の仕業を断つ」ということです。二つ目は「神の子である」という確信を持つということです。三つ目は「アッバ、父よ」と主の名を求めて祈ることです。

8:12から読んでみましょう。「それで、兄弟たち、私たちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(8:12~17)

聖霊の働きは御霊の法則をもっています。皆さん方は皆、聖霊様を受けていますし、心の中に聖霊様を宿しています。その聖霊様の力によってわたしたちは、肉の悪い行いを殺すことができるのです。何もできない惨めな私たちですが、聖霊の導きによって「アッバ、父よ」と祈ることができます。その時に、心の法則ではできなかったことが、御霊の法則によって、可能にして下さるのです。つまり祈りです。死んだも同然のこの体を、義の器として命を与え、聖めて用いられるのは祈りによるのです。

ですから、御霊の法則の中に置かれている者は、「天のお父様!(=アッバ、父よ。」と父なる神に、子供としてなんでも祈り求めることができるのです。ですからその祈りによって、聖霊様の助けと導きをいただき、この体が神様の宿る祈りの神殿として用いられるのです。私たちの死んだも同然のこの体が、生けるキリストの体として、聖なる神殿として用いられることはなんとすばらしいことでしょうか。罪の体が祈りを通して、御霊の宿る祈りの体になって行くのです。

何度も申しますが、私たちはもうすでにこの御霊の法則の中に置かれているものです。時には失敗し、罪を犯してしまうことがあるかもしれません。落ち込んでしまうことがあるかもしれません。でも、このうちにある御霊の力によって、立ち上がらせていただくのです。兄弟姉妹を助け、主の十字架と復活を証し、伝道の働きをさせて下さるのです。そして、何よりも御霊に助けられて祈ることができるということです。

パウロは「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)と言っています。聖霊様を通して、神様はこの死ぬべき惨めな体をも、神の霊の宿る聖なる生きた神殿として用いて下さっています。聖霊様の助けをいただいて、祈りましょう。そして、聖霊様をもっともっと豊かに受けることができるように祈りましょう。命に至る御霊の法則が、富里教会にますます豊かに満ちあふれるように祈りましょう。この御霊の充満によって、罪と死に勝利された主を先頭にして進んで行きましょう。第五、第六の奇跡を起こしていただこうではありませんか。(岡田 久)

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