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生きるはキリスト、死ぬことは益なり (フィリピ1:12~30)

メッセージ
2019年6月9日富里キリスト教会
「生きるはキリスト、死ぬことは益なり」
(フィリピ1:12~30)
1. 愛と知識と判断力

皆さん、パウロが手紙の中で、何度も繰り返し、繰り返し訴えていたこと、それは何でしょうか。この前のエフェソの手紙でも、またこの後のコロサイの手紙でもそうですが、手紙の冒頭で、同じことを何度も繰り返し祈っていました。それは1:9~11に述べられています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉をたたえることができるように。」

この言葉は、エフェソ書の1:15~19までにも、同じような言葉が述べられていまして(「あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。」)、いかにパウロがこのことをいつも祈っていたかが分かります。コロサイ書でも1:9~10(「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟り」)でも同じようなことを祈っています。

そして同じように、このフィリピ書でも、「知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」と祈っています。つまり、わたしたちの愛というものは、盲目な一方的な、人に何かしてあげると言った愛ではなく、知る力、見抜く力、によって増し加わり、重要なことを見分ける力となるようにと祈っています。口語訳聖書では、「あなたがたの愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別できるようになるように。」となっています。

つまりわたしたちの愛というものが、わたしたちが何か人に良いことをしてあげているというのではなく、まず聖書を深く知るところから始まり、聖書の教える知識や知恵に裏打ちされた愛によって満たされるように、そしてその結果、正しい判断ができるようになるようにということです。私たちの愛はともすると一方的になったり、恩着せがましくなったり、愛を実践していると思いながら知らず知らずのうちに、相手を傷つけてしまったりしていることはないでしょうか。そのような聖書から来る、知識と知恵、知る力、見抜く力によって、正しい判断力が働くクリスチャンになってほしいとパウロは祈っているのです。

先日もどなたかが、啓示の霊というものがあれば、わたしにも啓示の霊を注いで神様が見えるようにしてほしいとおっしゃっていました。それは簡単です。自分がそのことを願い求めればいいのです。願っていないから、求めていないから与えられないだけなのです。求めればいいのです。熱心に、開けてもらえるまで門をたたけばいいのです。「求めよ、さらば与えられん。探せ、そうすれば見つけるであろう。叩け、そうすれば開けてもらえる。」とある通りです。聖霊は今も私たちの上に、あのペンテコステ以来激しく注がれています。あとはわたしたちが、天を仰いでで、主に求めさえすればいいのです。「啓示の霊を降してください。わたしの目を開いて下さい。」と。そうすれば必ず主は答えてくださいます。

Paul has been praying for believers in every letter. This is Paul’s prayer: “Your love may abound more and more in knowledge and depth of insight, so that you may be able to discern what is best and may be pure and blameless until the day of Christ.” (1:9-10) And I also am praying for you in Tomisato Christ church that through the knowledge and insight from the Bible your love may abound and you may be able to discern what is best and what is good. I am afraid that your reading of Bible may be insufficient. I ask you to pray and seek the Spirit of revelation through the Bible reading. Then God will pour down the Spirit of revelation upon you. It is not difficult way to get it, just ask it.

2. 生きるはキリスト、死ぬは益

パウロはこの手紙を、実は牢屋から書いているようです。でも彼の投獄によって、キリストの福音が停滞することがなく、むしろかえって宣べ伝えられるようになったと書いています。たとえ福音のために投獄されるようなことがありましても、神の福音は決して縛られていることはないのです。1:14にこう書いています。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」

多くはパウロの遺志を継いで愛の動機から伝道する人がいましたが、中には、妬みと争いの感情から伝道する人も出て来ました。どういうことでしょうか。おそらく、伝道者が迫害され、逮捕されてその信仰が評価されることを見て、自分たちも負けてはいられないとあえて、危険を冒して名を売るために競争心をもって伝道し始めた人たちのことでしょうか。同じクリスチャンの中に、やはり妬みや嫉妬心や競争心でもって、自分の名を売るために伝道する人たちが出て来たのでしょうか。それでもかまわない、要はキリストが宣べ伝えられることだからいいのではないかと、パウロをそのことも認めています。

パウロはそういう反対者たちの不純な伝道活動も喜びますと言っています。またフィリピの信徒が、まだ未完成ではあるが、知識と知恵に基づいた愛の業ができるようになることを期待しつつ祈っています。パウロにとっては、信徒のために祈ることも、牢屋に投獄されることも、不純な動機で伝道することも、すべてのことを喜びを持って受け止めているのです。それはもうすぐにでもキリストがこの地上に来られるゆえに、どんな困難や艱難や心配事がありましても、失望落胆することなく、常に喜んでいることです。ですから、この手紙は別名「喜びの手紙」とも言われています。

パウロにとっては、このキリストの再臨が迫っている時代に、どんな悩みや心配事がありましても、常に喜んでいることができたのです。そして彼は、死ぬことさえ利益だと言っています。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い希望しています。私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリスト共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(1:20~25)

パウロにとっては、死ぬことは益だと言っています。どういうことでしょうか。彼はできればこの世を去って、キリスト共にいたいのですと言っています。確かに死はすべての人にとっては忌まわしいものです。神の裁きとしての呪いの死です。でもイエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとして、十字架に架かって死んでくださいましたから、罪の刑罰は終わり、死にまとわりついていた呪いや忌まわしいという性質が無くなってしまったのです。ですから、イエス・キリストを信じる者にとっては、死はもはや呪いでもなく刑罰でもなく、むしろ天国、永遠の命への門出の時でもあるのです。死が、天国への門に変わったのです。ですからパウロは早くこの世を去って、主の御許に行きたいと言ったのです。

パウロもそうです。「死ぬことは益だ、プラスだ。」と言ったのです。しかも今自分は牢獄に入っており、いつ死刑にされるとも分からない時です。だからこそ、彼は4:4でこう言ったのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:4~6)主の再臨が近づいていますから、死ぬことさえ益なのです。だからいつも喜んでいなさい。思い煩ってはいけない。どんな時でもどんなことでも、感謝を込めて祈りなさいと言っています。

パウロもそのことを願いました。「この世を去って一日も早くキリスト共にいたい、そのことが一番望ましいことです。でもこうして生きながらえて、フィリピの兄弟姉妹を励ますことの方が必要であるならば、まだ地上に生きて伝道牧会することを選びます。」つまりパウロにとっては、生きていても死んでも、兄弟姉妹の信仰を強め、彼らの信仰が喜びに変わるように励ますことなのです。そのために自分は今生きているのだと言っています。

ですから私たちももうすでに死んだ者なのです。ただ今こうして生かされているのは、福音宣教の為なのです。弱っている兄弟姉妹を励まし、助け、彼らの再臨信仰が力強くなることです。一つの教会が形成されることです。今行かされている目的は、この一点、福音宣教の為なのです。そのためにだけ、わたしたち信じた者はこの地上にとどまっているのではないでしょうか。この世のことであくせくしたり、一年でも長生きしたいと不老不死の研究をする必要があるでしょうか。葬式は天国への嫁入りなのです。人生の最高の幸福の時なのです。わたしたちはこの地上に生きながらえて、天国の希望に生きるように、兄弟姉妹を励ますために生かされているのです。

Paul wrote this letter from a jail. Even if he has been in jail, he was praying for believers with joy. He may percieve and prepare the death.
He said “For to me , to live is Christ and to die is gain. If I am to go on living in the body, this will mean fruitful labor for me. Yet what shall I choose? I do not know!” (1:21-22)
What does it mean for Paul that to live is Christ and to die is gain? He desired to depart from this world and be with Christ. But it is more necessary for believers that he remains in the body. The death is horrible for all, and it is a curse death as the judgment of God. But Jesus Christ died for our sins on the cross as the substitute of us , release us from the death and sins as the curse of God. As the result of redemption of Jesus for us believers in Christ the death became the gate to heaven. For the people who believe in Jesus Christ the death is not the curse and punishment but rather it became the gate to heavens. So Paul dare to say to live is Christ and to die is gain. Let us stand firm in one spirit, fighting as the one body of Christ for the faith of the gospel.

3.一つの霊、一つの心で

最後にパウロは、フィリピの教会員を励ましてこう言っています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことがないのだと。」

死ぬことが益であり、かつ生きることはキリストであるということは具体的に何を指しているのかと申しますと、イエス・キリストに結ばれていること、福音にふさわしい生活を送ることです。わたしたちはもうすでに死んだ者ですから。今生きているのは主の為だけなのです。そして一つの霊によってしっかりと立つこと、心を合わせて福音信仰のために戦うことです。先月学んだガラテヤ教会と同じように、ここフィリピでも割礼を強制する偽使徒たちが入り込んで来ていました。パウロはあの犬どもに注意しなさい、彼らは十字架に敵対して歩んでいるので、その行き着く先は滅びだと厳しく言っています。(3:2、18~19)

彼らは教会に分裂をもたらしました。自分たちの仲間に引き入れようとして、いろんな手を使いました。キリストに人々を結び付けるのではなく、自分に従わせるような策動をしました。自分を喜ばせるためです。支配者になりたがっていました。そのように十字架に反対する者たちとの戦いが教会にあったのです。教会の中心はキリストの十字架です。そして晩餐式でもあります。キリストの十字架はわたしの罪のためという告白をもって、わたしたちは皆キリストを信じました。そしてそのことを毎週毎週礼拝で御言葉を通して確認し合います。また月一回ですが、毎月毎月キリストの十字架の贖いの血を飲み、また裂かれた肉を食べることによって、キリストの贖いの業によって召し出され、一つにされたのだということを確認し合います。教会が真に一つとなるための信仰の闘いなのです。

そのことを証明して下さるのはキリストの霊以外にありません。神の啓示の霊によって、わたしたちは主を信じました。わたしたちを結ぶもの、わたしたちの共通項はキリストの霊以外にありません。このキリストの霊を持たない人はクリスチャンでも何でもありません。このキリストの霊は、わたしたちが主を信じる時に与えられたものです。この聖霊の一致を保ち続けましょう。信仰の一致を守りなさい。教会の力はこの一致です。そのための苦しみもパウロは経験しましたし、またフィリピの兄弟姉妹も経験していました。わたしたちも今同じ戦いをしています。それは教会が一つとなるための闘いです。聖霊による一致です。教会員一人一人が、一つ心になって福音のために前進することです。今日はペンテコステ礼拝です。その啓示と知恵の霊が一人一人の上に注がれて、わたしたちが一つとなって進んでゆくことができるよう祈りましょう。(岡田 久)

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