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燃える柴 (出エジプト3:1~15)

メッセージ
2020年8月16日富里キリスト教会
「燃える柴」
(出エジプト記3:1~15)

1.燃える柴

「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」
(出エジプト記3:1~2)

モーセは、イスラエル人としての誇りを持っていました。同胞のためならば、王子という地位を捨てても惜しくないと思っていました。燃えるような同胞への愛と情熱はありました。しかし、彼が本当に神の器として用いられるためには、あと40年間、荒野でゼロからの生活をして忍耐と愛と謙遜の心を養う必要があったのです。そしていよいよ時が来て、神様はモーセに御自身を現わされました。

それは不思議な現象の中に現れました。ある時、羊の群れを追いかけているうちに、神の山ホレブに迷い込んでしまいました。ふと目を上げると、枯れた木である柴が、燃えているのが映りました。ふつう、木は燃えてしまえばなくなって灰になります。しかし、火は燃えているのですが、柴の木は燃え尽きてしまいません。モーセはその不思議な光景を見届けようとして、燃えている柴に近づきました。神様は通常、炎として現れることがあります。(ヘブライ12:29)そして炎が神様だとしたら、柴は何でしょうか。神が宿る木ならば、柴ではなく、屋久杉のような立派な大木の方がふさわしいような気がします。しかし、神様は岩山の上にある枯れ果てた灌木のような木に、御自身を現わされたのです。

わたしはこの柴は、モーセ自身を表しているのではないかと思いました。柴は枯れ木です。もはや生気を失い、風に飛ばされて枯れ果ててしまうのを待つしかない存在です。モーセも今は80歳、かつての王子としての気高さも威厳も若さもない、人生の黄昏を迎える一人の老人でしかありませんでした。しかし、神様はそういう生気のない人間、もはや力を無くしてしまったような人間を神の器として用いるのです。無に等しい人間こそ、神の霊の息吹によって、新しい命と力を注がれ、力と知恵が与えて用いられるのではないでしょうか。それが、枯れた柴を燃やす神の力であり、神のご臨在、霊なる神そのものなのです。

だから柴は燃えているのに、神の炎である神の霊によって燃え尽きることはないのです。神の炎である神の霊が枯れ木に火をつけ、神の木として、いつまでも赤々と燃やして力を与えているのです。人間は柴の枯れ木にすぎませんが、あらゆる存在の根源であり、あらゆるものを存在せしめ、生かし、完成させられる創造主にして贖い主なる神が、共にいて働いて下さるのです。神様ご自身が、ご自分のことを「わたしはある。わたしはあるというものだ。」(3:14)とおっしゃって、ご自分の本質を示して下さったのです。

預言者イザヤも言っています。「宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」(イザヤ56:3)またエゼキエルもこう預言しています。「その時、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」(エゼキエル19:9)と。枯れ木でけっこうなのです。いや枯れ木でなければできないことがあるのです。

わたしは尺八奏者としての名前が、岡田柴然です。それはこのエジプト記3章の柴の篇からとった名前です。枯れた柴が、神の霊によって燃える。しかもいくら燃えても燃え尽きない、枯れているからこそ人生は良い音色が出るという意味を込めて「柴然」(燃える柴)にしました。良い尺八は、年季が入った堅い竹を掘り出してきて、さらに乾燥させて、完全に水分を抜いて作るのです。そこへ思い切り、息を吹き込んで良い音が出ると言われています。同じように、神様は枯れた柴を必要とされるのではないでしょうか。枯れ木でいいのです。だれもわたしは教会の枯れ木だと言ってはいけないのです。パウロも「弱いときこそわたしは強い」(Ⅱコリント12:9~10)と言っています。

2.履物を脱ぎなさい

「モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると、神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』」(3:3~5)

モーセはこの不思議な現象を見て、更に近づいて行って、なぜ木が燃えてしまわないのかを見届けようとしました。すると神が、柴の間からモーセに声をかけられました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」と。わたしたち人間は、神様がご臨在されている聖なる場所に、自分の方から興味本位にヅカヅカと土足で入って行くことはできません。なぜなら神は聖なるお方ですから、あらゆる汚れを燃やして滅ぼしてしまわれるお方です。罪に汚れた人間が、何の供えもなしに、神の領域に入り込むことは聖なる神が赦しません。

人間が自分の方から神を「見ること」、「見届けようとすること」、「見に来ようとすること」は、神への不信仰であり不敬な行為でしかありません。このような人間の側からの一方的なアプローチを神は退けられます。それは神を神とせず、神を畏れず、自分の義を誇り、自分を神とする行為そのものだからです。神は、そういう近づき方にストップをかけられます。それ以上近づいてはならないと。新約聖書のあの富める青年が、自分は律法を守ってきました、律法を実践していますと言って、イエスのもとに来ました。つきましては、永遠の命をもらうことができますかと、イエス様に尋ねました。これこそ傲慢なまだ人生の失敗や挫折を知らない、若者の信仰だったのです。(マタイ19:16~22)自分の行い、自分の努力、自分の力で永遠の命を得ることができると考えた若い日のモーセそのものでした。

主はあなたの履物、すなわち靴を脱ぎなさいと言われました。なぜならモーセの立っている場所は聖なる場所だからです。神様がご臨在される場所は聖なる場所です。そこへは誰であっても、勝手に靴を履いたまま入っていける場所ではありません。まずわたしたちの足から靴を脱がなければならないのです。よくホーリネス系の教会に行きますと、会堂のこの説教をする場所、この壇の上は聖なる場所ですから、ここに昇る時にはスリッパを脱いで上がるようにしている教会があります。

どうして神様はモーセに、履物を脱ぎなさいと命じられたのでしょうか。その理由は三つあるような気がします。まず第一は、神を神と思わず、神を知らずにヅカヅカと、神の聖なる領域に自分の足で無断に入ってきたこと、神を畏れる信仰のなかったこと。神を神と思わずに、日常生活に埋没して、神から離れ、この世の生活にどっぷりとつかって生きてきたこと。神様を畏れず、自分のことだけを考え、虚構の生活にしてきたこと。この世の富、知識、名誉を誇りとし、神を誇りとする生活を忘れてしまっていたのです。その偽りの生活を主の前に差し出すこと、きれいな靴、きれいな洋服、財産、家等を捨てなさい。そういうこの世的な不信仰の虚偽のうわべの生活の罪を捨て、それを主の前に差し出しなさいということです。それが履物を脱ぐということではないでしょうか。

そして第二は、履物を脱いで、裸足になって自分の足で、聖なる地に立ちなさいということです。自分を着飾った見せかけの生活と別れを告げて、あるがままの自分で主の前に立つことです。自分の汚れた足の裏をもって主の前に立つ。つまり、偽りの自分を捨て、あるがままの自分、すなわち罪に汚れた不信仰な自分を認め、そこに神の手によって清めていただくということです。自分を着飾らずに、素足で立つこと、裸の自分で主の前に立つことです。主イエスがペテロに対して、「もしわたしがあなた(あなたの足)を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(ヨハネ13:8)と言われたように、わが罪を手ぬぐいで拭い取って下さる主の贖いの業を必要としていることを認めることです。

第三は、昔から靴を脱ぐということは、自分の権利を放棄するという法律用語でした。ナオミの親戚の男性が、ルツと結婚する権利があったのですが、その人がその権利を放棄するしるしとして、自分の靴を脱いだのです。すなわち履物を脱ぐことによって、自分の権利を捨てる、そして自分自身を神に明け渡すということを意味しています。(ルツ記4:7~8)主人はあなたです、あなたの僕になって仕えますということを意味しています。これが「あなたの足から履物を脱ぎなさい」ということの意味ではないかと思います。

これはモーセだけの召命のお話ではありません。わたしたちも問われています。あなたはこの聖なる場所に、何も考えずに土足でヅカヅカと入って来てはいませんか。自分の靴を脱いで、あるがままの自分、自分の罪や弱さを素直に認め、悔い改めの信仰を持って臨んでいますかと。今日のこの日曜日の礼拝に、どんな気持ちで神様とお会いしようとして来られましたか?一週間の間、犯した自分の罪の悔い改めの用意はできていますか?悔い改めと信仰をもって主の前に靴を脱いで膝まずいていますか?神様とお会いする心の準備はできていますか?

毎月、第一週の主の晩餐式でも警告しています。「もしふさわしくない態度でこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。ですから、晩餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を反省しなければなりません。もしキリスト様の体を気にもかけず、その意味も考えもせず、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神様の裁きを招くはめになります。キリスト様の死をもてあそんだわけですから。」(Ⅰコリント11:28~29)今日は主の日です。そしてこの礼拝の場も聖なる場所です。わたしたちがどんな態度で、どんな心構えで主の前に立つのかが問われています。

主がわたしたちのために命を与えるほど、愛して下さいました。わたしたちの罪を赦すためです。それゆえにわたしたちは主を喜び、感謝し、礼拝を捧げます。それが主の日で、主日礼拝です。ある教会では、主日礼拝と言わずに聖日礼拝と言っています。聖なる日であり、恵みの日、祝福の日、喜びの日です。それはわたしたちの罪が赦されているからです。わたしたちが神の子とされ、永遠の命をいただいた日だからです。わたしたちの罪を赦して下さった神様の愛に感謝し、贖い主なるイエス様をほめたたえる日です。喜びの理由は、罪に死ぬべきものをも神の憐れみによって救いに入れていただき、わたしたちを主の福音の証人としてくださったからです。そしてこの聖なる場所から、わたしたちを罪と死に苦しむ同胞のいるエジプトへと神様は遣わしてくださるからです。これが聖日礼拝(主日礼拝)の意味です。

3.エジプトに行きなさい

神はなぜ、遠く離れたミディアンの地にいる80歳の老人に、御自身を現わされたのでしょうか。それは、エジプトで奴隷として重労働を課せられ、呻き、苦しみ悩むイスラエルの民の叫び声を聞いたからでした。3:7に「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者ゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」と言っています。エジプト王の圧政に苦しみ悩む神の民の叫び声を聞き、民との約束を思い出し、その人々を顧みて救い出すために、一人の男を民の指導者として選ばれたのです。それがモーセでした。そして彼を民のもとへと遣わされたのです。

モーセはかつての若いころの自分の失敗と挫折、逃亡といった心の傷を持っていました。彼は、民の解放者として召されたのですが、彼なりにまだいろんな不安と恐れを感じていました。なによりも80歳になっていた彼にとっては、あまりにも大きな事業でした。かつての若いころのように、自分の地位と力に頼って、力と感情任せに民を助けることはできません。そして一番恐れていたのは、王子時代に経験した自分の民からの非難と反発でした。(2:14)

主に召された者、主に出会った者は、何のために救われたのでしょうか。神に召された者は、全員神様の大きな目的に基づいて召されたのです。わたしだけが救われるために、神がわたしをすくって下さったのではありません。神様は、重い重労働に苦しむ神の民の苦しみと悩み、痛みの声に耳を傾けられて、救済者を送って下さったのです。年齢には関係ありません。30才だろうが、80才だろうが、神様が用いるのです。

わたしはあのエジプトの巨大な建造物であるピラミッドを建てるために駆り出され、重労働に苦しむ人々を思う時、日本人の救いを思い出されるのです。今はちょうどお盆の時期ですが、多くの日本人が、お墓参りのために故郷に帰っています。日本人は、真の神を知らずに、お墓に表されるような死の世界と先祖崇拝に縛られているような気がします。真の神を知らずに、先祖の死者を崇拝し、お墓を礼拝し、罪と死の世界から逃れることができずにいるのです。自分達がそのような、お墓に縛られている死の世界に生きているということさえ知らずにいます。

そういう同胞である日本人を救うために、神様はわたしたちを召されたのではないでしょうか。自分の救いのためだけではないような気がします。わたしたちが救われたのは、神様の目的があるからです。主は燃える炎の中からわたしたちに語りかけられます。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。・・・わたしは必ずあなたと共にいる。・・・わたしはある、わたしはあるというものだ。」(3:10、12、14)

これを今日の私たちの時代に当てはめて言い換えてみますと、「さあ、これから家族の者、友人、知り合いのところへ行きなさい。自分の心の中には人を恐れたり、人間関係を心配する気持ちがあるが、勇気をもってそういう人々をこの世から連れ出すのだ。たとえ抵抗されても反発されても、わたしはあなたと共にいる、恐れるな、さあ、行きなさい。わたしはあってあるもの、無から有を造り出し、すべてのものの根源であり創造主である神である。そして彼らを死と墓という罪の支配から連れ出して、もう一度神の山へ導き出して、家族全員でわたしを礼拝するようにしなさい。」これがこの柴の書3章の最後の部分です。

神と出会った者は、すべて神に召されたものです。それは神様が、この無力な私たち、恐れと不安でいっぱいのわたしたちを、神の霊によって上から力を与え、霊の炎で燃やして、この世に遣わされるのです。神様、わたしはもう年です、わたしには何の力もありません。体力も衰え、後は死を待つばかりですというわたしたちに、神様ご自身から出会って下さったのです。そしてその罪を赦し、清めて、新しい霊の力で燃え上がらせてくださるのです。

戦うのはあなたではない、わたしが戦うから、あなたはこの生ける主、戦いの主により頼む祈りの杖一本を持ってゆけばいいとおっしゃって下さいました。それは祈りです。唯一、主により頼むことができうるのです。だから、あなたの家族や親せきや友人がいるあのエジプトへ向かいなさい、恐れることはない、わたしはあなたといつも共にいるから、とおっしゃって下さっておられます。そして彼らをこのホレブの山へ、神を礼拝するこの山へ、聖なる場所へと連れて来なさい。これが柴の篇のメッセージであり、今日の礼拝そのものであるような気がします。(岡田 久)

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