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涙の再会 (創世記44:32~45:8)

メッセージ

2011年8月14日富里キリスト教会
「涙の再会」
(創世記44:32~45:8)
1.悔い改めの大切さ

「実は、このしもべが父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕をご主人の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせて下さい。」
(創世記44:32~33)
実に、このような兄たちとヨセフのやり取りが、3章にわたって書かれてあるのです。これはやはり。ヨセフが、兄たちが本当に昔の自分たちのしたことを、つまりヨセフを殺そうとして穴に放り込み、ついには隊商に売り飛ばし、親には嘘をついていたことを、悔い改めたかどうか確かめたかったのではないでしょうか。ヨセフは、言葉が解らないふりをして、じっとそばで兄弟たちのやり取りを聞いていました。

この中で、長男のルベンよりは四男のユダが中心になって、ヨセフにとりなしの願いをしています。44:16でも「神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主人の奴隷になります。」と言っています。つまり、神様は決して私たちが犯した罪を忘れたり、あいまいにしたりするお方ではありません。必ず、いつか隠されていたことは露わになります。そして、その犯した罪に対して私たちがどうするかを、主は問われるお方なのです。神様は決して、私たちが犯した罪を見逃されるお方ではありません。この兄たちの罪の悔い改めなしには、ヨセフとの本当の意味での再会にはならなかったのです。

フランス文学者で哲学者の森有正氏は、「土の器に」という本の中で、次のように書いています。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っています。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。そういう場所で、アブラハムは神様にお目にかかっているし、そこでしか、人間には神様にお目にかかる場所はないのではないでしょうか。人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳と言ったところでは、真に神に会うことできないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです。」と。

ヨセフにとっても、また兄たちにとっても20年前の出来事ですが、その心の一隅の闇がいつも兄たちに問いかけ、犯した罪の悔い改めを迫っていたのではないでしょうか。ヨセフの父ヤコブも、仲たがいした兄のエサウと再会するために、自分の影の部分と一晩中向き合って、死に物狂いの祈りの戦いをしなければなりませんでした。自分のかつての罪、そして自我というものを神に打ち砕いていただかない限り、兄との再会はできませんでした。

まさに「弟アベルの血が、土の中から叫んでいるのです。」(創世記4:10)人が犯した罪に時効はありません。人間はどこかで、一度この自分の心の一隅、暗い部分と向き合わなければならなかったのです。この自分の罪に背を向けて逃げる限り、いつまでも弟の血の声が地面の中から叫んでいます。「お兄さん、なぜ私を殺したのですか!」ヨセフが求めているのは、そして神が求めているのは、私たちが「心から悔い改めて、福音を信じる」(マルコ1:15)ことではないでしょうか。あなたはどうされますか。

3.涙の再会

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」
(45:4b~8a)

最初はびっくりして驚いていた兄弟たちですが、ようやく事態に気が付いてお互いに抱き合って泣きました。(45:14~15)ここにヨセフの愛と赦しの思いが述べられています。一つは、「もう悔い改めたのだから、悔やんだり、お互いに責め合ってはいけない」ということです。第二は、「自分をここに遣わしたのは、あなた方ではなく神だ」ということです。第三は、「イスラエルを残りの者として、この世界に大いなる救いをもたらそうとしている」ということです。ここにイスラエルの歴史の過去、現在、未来が述べられています。

A)悔やんだり、責めてはならない

悔い改めるということは、自分の罪を悔い改めることです。ですから、相手のせいにしたりして、いつまでもそのことにこだわっていてはいけないということです。私たちは弱い人間です。自分の罪で苦しい結果を招いても、どこまでも相手のせいにしてしまいたくなるものです。最初に、スパイ容疑で三日間拘留された時、長男のルベンが「俺がヨセフに悪いことをするなと言ったのに、お前たちはヨセフを殺そうとしたじゃないか。」(42:22)と言って、他の兄弟たちを責めました。

確かにルベンもユダも、あの時はヨセフを助けたかったのですが出来ませんでした。でも、あの時こうすればよかった、誰が正しかった、誰が悪かったということはないのです。そこに神様が働いていたのですから、人のせいにしてはいけないのです。ですから、ヨセフは自分たちの犯した罪のことで、お互いに後悔したり責めたりしてはいけませんと言いました。これが真の悔い改めです。誰が悪いというわけではなく、自分がこの国に売られてきたのは、神様の深い御計画があったからですと言っています。神の大きな愛と恵みの救いの中に、すでに置かれているのです。

B)神が遣わした

ヨセフは、「神がわたしをエジプトに遣わしたのです。お兄さんたちが私を売り飛ばしたので、エジプトに来たのではありません。私をここに遣わしたのは神です。」と、何度も言っています。兄たちは自分たちのせいで、ヨセフがエジプトまで行ったのだ、と思って互いに責めたり後悔したりしていましたから、このヨセフの言葉はどんなにか、兄たちを安心させたことでしょう。

なかなか自分の不幸、不遇を神様のせいだったと言い切れる人はいないのではないでしょうか。兄弟間のえこひいきは、子供の心にずっと長い間心の傷を残します。また、兄弟にいじめられた、虐待をされたという心の傷も残ります。
また、すさまじいまでの女の性的な罪の力(もちろん男の場合もあります)、恨み妬みによる罠、それの被害もあるでしょう。

ヨセフは、大臣になってから、あのポティファルの妻の冤罪の恨みを晴らしたでしょうか。大臣ですから、その気になればいくらでも妻の悪を暴くこともできたでしょう。そして自分の身の潔白を示すこともできたでしょう。しかし、聖書にはそのことには一切書かれてありません。

それは、神が私をエジプトに遣わし、牢屋にまで入れたのだということをヨセフが認めたからでした。すべては、神のみ手の中にあったということです。だから、一度悔い改めたならば、お互いに過去のことで、それをいつも蒸し返さないということです。いつまでも、過去のことにこだわって、ああして欲しかった、こうすればよかったと思うことは、神の救いの御計画を妨げようとしている者です。今、こうして恵みの中に生かされていることを喜びたいものです。

C)大いなる救いの完成

むしろ目を未来に向けることでした。神の救いの御計画は、たとい過去に罪や暗い部分がありましても、それを赦し合うという和解の働きによって、未来へとつながってゆくものです。あの過去の暗い部分も、実はやがてなされるべき、大きな救いのための布石であり、準備であったということです。人間の弱さや、もろさも包み込んで、それを神の愛と赦しの中で、なお前進してゆく神の救いがあるということです。

イスラエルというあの十二部族の民が、兄弟同士の妬みや仲たがいを通して、つらい歴史をくぐらされますが、しかし、それでも神の救いの業はなお、そのような人間の弱さや罪や影の部分を通してでも、そこに光を与え、最後の大いなる救いの完成を目指して進んでゆくのです。残りの者とは、そういう神の救いのために不完全、不十分な余り者に過ぎない者ですが、神に選び残された者だという意味です。

弱くても、不十分でも、傷を持っていても、影があってもそれを主の前に告白しつつ、救いの光によって照らされて神の愛のうちに一つになることを目指して行く群れのことです。それがイスラエルの十二部族なのです。教会も、この世に残された者として、弱さも敗れも欠陥もあります。しかし、この残された者を通して神様は大いなる救いを成し遂げようとされておられるのです。この神の憐みによって生かされている者として、日々に心から罪を告白して、愛のうちに主に従って行くものでありたいと願っております。     (岡田 久)

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