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活力あふれる年老いた信仰者 (申命記34:1~12)

メッセージ
2021/9/19
富里キリスト教会礼拝説教(高齢者祝福)

「活力あふれる年老いた信仰者」
(申命記34:1〜12)

①年老いた信仰者モーセ
明日は、敬老の日ですね。お年寄りを大切に、敬いましょう。こういうメッセージは普遍的にあるものでしょう。また、おばあちゃんの知恵袋という言葉もあるように長年、人生を渡り歩いて多くの人生の荒波を超えてきた方々の言葉というものには目が開かれるような知恵がこもっていることがあります。お年寄りとは敬うべき存在なのです。今日はそういった高齢者の方々の祝福を覚える良い機会として、共に礼拝をおささげいたしましょう。
先ほどお年寄りを敬いましょう。そう言ったメッセージは普遍的だと言いましたが当然聖書の中でもそう言った言葉があります。箴言では「白髪は冠である。」などと語られています。教会では子供の声が聞こえる、こういったことが本当に祝福として喜ばれ、私たちの教会もそのような祝福にあずかっていることは本当に感謝なことであります。しかし、他方で高齢者あってこその教会だとも言えます。そして、この富里キリスト教会においても多くの高齢の方々が恵みとして主から与えられています。この祝福を主に感謝したいと思います。
かつてのイスラエルの民は、長老の言葉を非常に重んじたと聞きます。バプテストには立場としての長老はいませんが、信仰を守り抜いた人生の先輩たちに敬意を持ち、常々耳を傾け知恵を仰いでいきたい。そのように願います。他方で、高齢の方々におかれましては「もう、私は引退よ。」などとは言わず、まだまだ生き生きと信仰者として新しい世代に対して背中を見せていただきたいと願います。むしろ、そのような中でこそ高齢の方々は活力が得られ、祝福を受けることと思います。仕事の引退というものはあっても信仰者としての引退というものはなく、その歩みは一生続いていくのです。
その典型的な例としてモーセという人物が挙げられます。モーセは120歳までいき、死ぬ直前まで目はかすまず活力も失せず、信仰者として走り続けました。今日はこのモーセという人物の一生、特に晩年を共に追っていきたいと思います。
先ほど読まれた申命記という書物は、イスラエルの民が荒野の40年を経て、いよいよ約束のカナンの地に入る直前という時、その前に今までの旅の一つ一つを思い出させ、私が伝えた神の言葉を思い出して、律法を守りなさい。この言葉はむなしいことばではなくあなたたちの命だ。そのように語ったモーセの説教集でありながら、自身の死を覚悟した上で語ったモーセの遺言だと言われています。そして、この申命記の著者はその遺言を語った本人モーセと言われています。
しかし、最後の章だけ例外的に別の人が書いており、これはヨシュアが書いたと言われています。なぜかといいますと、それはこの申命記最後の章はモーセ自身の死について書かれているからです。死んだ時の様子をその本人が書くわけにはいきません。ヨシュアがそのモーセの最後を見届けたのではないでしょうか。120年信仰者であり続けたモーセの人生を見届けた青年ヨシュアのモーセに対する敬意に満ちた言葉であり、知恵の霊が満ちた神の言葉。これが申命記の最終章なのです。今日の箇所はそのモーセの最後の場面に当たります。
まず、その場面はモーセの登山から始まります。ピスガという山の山頂に登ったと簡単に書いていますが120歳の登山です。私は、かつてアフリカのキリマンジャロという山を登ったことがあります。最高の思い出にはなりましたが、高山病の苦しみ、体力的なきつさを思い出すと二度と登りたくないという思いも正直あります。いくら元気とはいえ、120歳のモーセにとってピスガの登山というものは、きっとおなじくらいのきつさがあったのではないかと思います。正直、私は120歳になって山は登りたくありません。
でも、モーセは何も言わず当たり前のように登りました。理由はシンプルです。それが主の命令だったからです。彼はどこまでも、いくつになっても神様に対しての従順を貫きました。さらには、その登山は彼が死ぬためでもありました。にも関わらず彼は登るのでした。その神様からの命令が申命記32:48−50に書かれています。

申命記32:48−50
「その同じ日に、主はモーセに仰せになった。『エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登っていくその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。』」

死ぬための登山。そして、神様はその前に約束のカナンの地をその山頂で見せようとも言われます。しかしそれは、悲しいかな、その約束の地をモーセは見るだけで入ることはできないという事実を突きつけた言葉でもありました。そして、神様はさらに厳しい言葉を続けます。

申命記32:51−52
「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」

メリバの泉というところでモーセはたった一回だけ神様に不従順をみせたことがありました。そのたった一つのことであなたは約束の地に入れない。そのように神さまはモーセに告げるのでした。この状況が自分の人生だったらと置き換えてみたらみなさん、どのように思われるでしょうか。胸中複雑になるかもしれませんね。約束の地をみせながらも、「でも、おまえはここには行けないよ。」と言われるわけです。下手すれば蛇の生殺しに見えなくもありません。神様に文句を言いたくなる人もいるかもしれません。
しかし、モーセは何も言わず、従順にこのピスガを登ったのです。リーダとしての権限を少しずつヨシュアに譲り、ある意味引退しながらもモーセは従順な信仰者としては変わらずあり続けたのです。120歳でもここまでするのか、いや120歳だからこそできる神への従順なのかもしれません。

②願いは叶わずとも
モーセはだまってピスガを登り、その頂上から周りを見渡しました。その景色はまさに絶景。約束の土地の全てが見えたとあります。ピスガという山はイスラエルから少し東に外れ、死海の一番北の端近くにあります。南北で見ますとイスラエルの真ん中あたりにあるので非常に全貌を見るには具合のいい山だと言えるでしょう。しかしその素晴らしい景色の中モーセは、厳しい現実の言葉を神様から受けます。

申命記34:4
「主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』」

あなたの願いは叶わない。だけどせめて見せてはあげるよ。これをモーセは神の憐れみとして受け止め、満足することはできたのでしょうか。明確な答えはありません。この事実に対するモーセの言葉はなにも書かれていないからです。しかし、この沈黙にこそモーセの答えがあるような気が私はするのです。私はこのとき、モーセはやっぱり満足していたのではないかと思うのです。
あなたは約束の地へは入れない。かつて、モーセは神様にこの事実を告げられた時、すがるように必死に神様に思い直すよう頼み込みました。そのモーセと神様とのやりとりが申命記3:23−28に書かれています。お願いです。どうか私にも約束の地に行かせて、見せてください。そのようにモーセは主に祈り求めました。しかし神様の返答は「もうよい、このことを二度と口にしてはならない。」と厳しい言葉を返します。そして、そのときもう行けないのだからピスガに登り約束の地の東西南北を全て見渡せ。そして後継者のヨシュアを力づけ、励ませ。彼がイスラエルの民に約束の地を受け継がせるから。そういったことをモーセに告げます。厳しい言葉です。しかしこの言葉を受けて、モーセは何か悟ったのかもしれません。なぜなら、この時を境に彼は神様に言われたとおり、二度とカナンに行きたいとは言わなくなったからです。
事の経緯を思い返してみてください。一体何故、モーセがイスラエルの民をカナンまで導くようになったのでしょうか。それは、そもそも神の召しに応えたゆえの働きでした。出エジプトもカナン進出も元々はモーセの願いではありませんでした。むしろ最初は全くやる気がありませんでした。しかし、この神の召しがいつしかモーセの夢、自己実現の願いとなっていたのでしょう。私がこの地に民を連れていきたい。私がその約束の地に入って夢を叶えたい。そういった思いです。夢を持つことは悪いことではありません。むしろ良い面がたくさんあります。しかし、神の召しは決して自分の夢ではありません。神の召しに対する私たちの向き合い方にとって最も大切なことは、その神様の召しに応じて従うことです。ことをなすとかなさないとかはその次の話なのです。
モーセはそのことに気づいたのかもしれません。私は行けない。しかしヨシュアが民を約束の地に連れて行くと神は言われた。目標は達成されるのだ。それでいいじゃないか。みこころがかなうのだから。そうモーセは思ったのではないでしょうか。
モーセは遺言のような説教を民に語った後、120歳でいよいよそのピスガに登れと神様から言われました。しかし、ここでのモーセにはかつてのように懇願する姿はみられませんでした。むしろ彼は、その後、イスラエルの祝福を祈ったのでした。そして、山頂まで登りこの約束の地をみてなお、そこには入れないと言われます。この神様の言葉に対してモーセは無言を貫いています。かつては懇願しました。ここに一つの答えがあるように思うのです。この沈黙に私は無言のアーメンが聞こえてくるのです。
「はい、私はそこへは行けません。しかし、あなたはその約束のすべてをみせてくださりました。そして必ず民はその地に行けると約束してくださりました。もう、わたしにはそれで十分です。」と。この無言に私は納得と満足のモーセを見るのです。

③信仰者は老いてなお、活力溢れる
ピスガの山頂に、私がイスラエルの民を約束の地に連れていきたい、という自己実現の願いから解き放たれた、神に召された一人の信仰者がそこにはいました。その姿はまさしく神のみ前にへりくだった謙遜な者の姿でした。民数記12:3では「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」とあります。またこの謙遜という言葉は柔和という意味もあります。謙遜で柔和。聖書の中に出てくる人物でこのように評価されているのはモーセただ一人です。また、モーセだけが神と顔と顔を合わせた親しい関係を築くことが許されていました。彼は聖書の中でも、ひときわ特別な人間であることが示されています。
モーセほど人生が、自分の思い通りにならなかった人はいないでしょう。しかし、モーセほど神と親密な関係にあった人もいません。ここに人間としての最高の喜びがあるのではないでしょうか。
そして、さきほど、謙遜と柔和と評価されたのはモーセだけだと言いましたが、実はまさにその謙遜と柔和そのものを表しているお方が一人、聖書の中ででてきます。そのお方こそがイエス様です。モーセはこのキリストの予表であると言われています。主イエスこそが、だれよりも自分の願いではなく、みこころを求め、民である私たちに人生の全てをその愛ゆえにささげられたお方でした。モーセのような人生とは一見、報われないような辛い生き方に見えるかもしれません。しかし、そこにこそキリストが重なった幸いな人生があるのです。
人生の荒野、荒波を越えてきた高齢の方々は、その人生を振り返ることもきっとあることでしょう。そこにはそれぞれの約束の地があるのかもしれません。憧れ、願い、追いかけ続けたもの、それらは結局叶わなかったなというものがたくさんあるかもしれません。しかし、それでも私はこれを追い続けて、神と共に生きた。ここに立ったとき、自己実現ではなく神と共に生きた満足がそこにはあるのではないでしょうか。
そして、ここに立ったとき私たちは、歳をとっても目もかすまず、活力溢れた生き生きとした信仰者となるのではないでしょうか。逆に言えば歳を重ね、人生を振り返ることができるからこその練られた信仰とも言えるかもしれません。その熟練の信仰者の背中を見て、次世代は霊に燃え、ヨシュアのように知恵の霊に満たされ、バトンは受け継がれていくのでしょう。
モーセは死ぬ直前まで元気でした。主に仕え続けてきたからこその活力であったと思います。教会の高齢者の方々は総じて元気な方が多いです。もう私は歳だから・・・、などとは言わず、まだまだ教会に関わっていただきたいと願います。むしろそこにこそ祝福があるでしょう。
また、7節にモーセは、目はかすまず、活力も失せてはいなかったとありますが、これは体だけのことを言っているのではないように思います。聖書の中での目のかすみという表現は霊的な衰えを表すという解釈もあります。たとえ、体はなかなか動かなくなっても霊に燃えた高齢者はどちらの教会においてもたくさんおられます。信仰の練られた高齢者の祈りが教会を支えているのだということを高齢の方々も若い方々も忘れないでいてほしいと願います。
そして、最後にもう一つ決して忘れずに覚えていてほしいことがあります。それは私たちには、物理的に目に見える約束の地よりも、自分の願いなどよりも、はるかにまさって素晴らしい天の国という恵みを神様は用意されているということです。モーセは約束の地に行けませんでしたが神が用意された天の故郷を覚え、安らかに主の元へ帰ったのです。ここに心を留めたとき、私たちはたとえほしかったものが手に入らなかったとしても、満足、平安と喜びの中、この世の旅路を終えることができるのです。

ヘブライ11:13−16
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし、出てきた土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです。」

私たちの人生はたとえ思い通りにならなかったとしても、私たちのそばにはいつも主イエスが共にいてくださっています。苦しい時も悲しい時も嬉しい時も、いついかなるときもです。今も、過去も、未来も、死ぬまで、いや、死んでからその先も。私たちの人生は生まれてからも死んでからも神の恵みに満ちているのです。その信頼の中、モーセのごとく、死ぬ直前までも活力に満ち、霊に燃え、共にピスガの山を登ってまいりましょう。

武井誠司

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