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永遠の虹の契約 (創世記9:12~28)

メッセージ
2017年8月20日富里キリスト教会

「永遠の虹の契約」
(創世記9:12~28)

1.神の祝福と契約(ノアの律法)

ノアはまず最初に、洪水から救ってくださった神様に宥めの祭壇を築き、動物をいけにえとして捧げました。すると神様は、もう二度と水を持ってこの地を呪い滅ぼすことはしないという約束をノアに与えました。そしてさらに最初に約束した「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(1:28、9:1、7)という祝福の言葉を、ノアとその家族に与えてくださいました。この言葉で始まり、この言葉で終わる9章の1~7節までの部分を、ノアの律法と言ってもいいのではないかと思います。

一つは、「産めよ、増えよ」ですから「結婚して子供を造る」ことです。そして人間だけではなく、被造物すべてが子孫を増やすことでした。二番目は、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。」(9:3)とありますので、「肉食の許可」です。ただし血を食べることは禁じられました。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空の鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手に委ねられる。動いている命ある者は、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(9:1~4)
そして、三番目は、「殺人の禁止」です。「また、あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(9:5~6)とあります。

血の中には命が宿っていますので、命は食べないでそのまま地面に返すことを命じました。むやみに人間の血を流す殺人を禁じる戒めです。人間は神にかたどって造られていますので、どんな人間もどんな人種も民族も国民も神の形です。ですから神の形の人間を破壊するものは、神を破壊することであり当然その同じ代償を支払わなければなりません。アメリカ人であれ、日本人であれ、中国人であれ他の人種や民族を蔑視し、滅ぼしたり、血を流したりする者は、神に逆らう者です。神が造られたものを勝手に自分とは違うからと言って、非難し裁くことは神に対する反逆です。

また、人の血を流す者は、何人であれ、必ず自分の命を代償として要求されることになります。この「妻帯許可」「肉食許可」「殺人禁止」が、最も古い神の律法でもあったのです。これをノアの契約と言います。そして、そういう人間でありましても、神様はノアを通して、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」(9:7)と言って祝福を与えて下さったのです。

2.虹の契約

そして更にこう言われました。「あなたたち並びにあなたたちと共にいるすべての生き物と、世々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現われると、わたしは、私とあなたたち並びにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現われると、私はそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
              (9:12~16)

ここで一つ注目したいことは、今まで神様に、人間の側からのいけにえを供えるという祭壇を築いて来ました。アベルとカインの兄弟もそうです。またノアも神の前にかぐわしい香りのする宥めの全焼のいけにえをささげました。その供え物の香りをかいで、神様は怒りの気持ちを抑えて、宥められることがあったのです。宥めるというのは、怒りを鎮めると言うことです。

でも今回ここで大事なことは、人間の側からの祭壇や供え物ではなく、神様の側からの供え物が提案されたのです。「人が心に思うことは生まれつき子供の時から悪い」のであるからして、そういう人間に期待して契約しても、所詮、期待外れになるのではないかと神様は思いました。いくら人間を造っても、また悪いことをする、その悪い人間を一掃して滅ぼして、新しい人間を造ってもまた悪くなる、所詮、無駄ではないかと考えたのではないでしょうか。

それでどうしたのかと言いますと、人間には期待しない、人間の献げる供え物ではなく、神様御自身が自分で自分の心を慰め、自分でその怒りを鎮め、自分で人を滅ぼさないという気持ちを思い出すようにしたのです。それが雨上がりの後の、あの空にかかる七色の虹だったのです。ノアの洪水以来、もうすでに何千年も時代が過ぎました。長い人類の歴の中で、時には神も堪忍袋の緒が切れて、思わず手が挙がってしまうこともあったのではないでしょうか。でもその時に、神様は自分が造ったあの雨上がりの虹を見て、自分の怒りの心を鎮め、振り上げたこぶしを元のさやに納めて来たのではないでしょうか。ですからあれ以来、ノアの時のような洪水はこの地上に起こっていないのです。

神様は自分で自分の怒りを鎮め、自分で自分を宥め、自分に言い聞かして、怒りの矛先を納めて来られました。なぜなら、これは永遠の契約だからです。これからは絶対に人間を滅ぼさない、たとえ人間が悪くなって手が付けられなくなっても、わたしは手を下すことはしないと誓ったからです。そのことを神は、御自分で御自分に誓われたのです。イザヤ書にも「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで救いを得よ。わたしは神、他にはいない。わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。」(イザヤ45:22~23)自分にかけて誓うと言いました。

神様が御自分にかけて誓われたのです。あなたがこの約束を守ったら、滅ぼさないというのではないのです。自分で自分に誓ったのです。これ以上確かな約束はあるでしょうか。(ヘブライ6:17)しかもこの約束は永遠に続くのです。変更なしです。真実です。不変です。変わることはありません。神様が御自分の怒りを、人間に向けないで、あの空の虹を見てその怒りを鎮め思い返されるならば、その約束は確かなものであり真実であり変わることはないはずです。神様がそう言っているのです。

そして実はこの虹に示された神の永遠の約束は、あの旧約聖書のイザヤ書の苦難の僕へと引き継がれてゆきます。一人の義しい人の姿を見て、神様はその怒りを宥められると、イザヤは預言しました。神の僕である義しい人によって、その人の執り成しによって、その人の苦しみによって、その人の祈りによって、その人の犠牲によって、その人の贖いの業によって、神の怒りが鎮まるのです。罪を犯した人間に向かうのではなく、その一人の忠実な神の僕に向けられるのです。そのことによって、神の怒りが宥められるのです。

預言者イザヤは、神の怒りが、一人の僕の苦しみと痛みを通して宥められることを預言しました。(イザヤ書53章)この人を見て神は永遠に怒りを鎮められるのです。新生讃美歌205番の「まぶねの中に」という歌がありますが、最後に有名な「この人を見よ」という歌詞があります。これは、わたしたちではなく神様が、この人を見て怒りを鎮められたと言うことです。

イザヤの預言の成就が、あのカルバリのイエス・キリストの十字架です。最終的にあのカルバリの丘のイエス・キリストの十字架によって神の怒りが宥められました。神御自身が神御自身の御独り子をこの世に遣わされて、御自分の一人息子の執り成しの苦しみによって、世の人々の罪を赦されたのです。神の御独り子の執り成しによって、怒りを鎮め人間の罪を赦されたのです。

ですからこの虹は、やがて来られるイエス・キリストの永遠の贖いを示しているのです。どちららも永遠の契約です。このキリストの十字架の贖いは永遠に続きます。そして、神の怒りは、あのゴルゴダのイエス・キリストの上に完膚なきまでに降されました。神は、御自分の一人息子の苦しみととりなしの故に、わたしたちへの怒りを鎮めて下さったのです。これが、神が神に対してなされた決断なのです。神がご自分に対して誓われた虹の契約なのです。

神の怒りは、あの雨上がりの虹の美しさを見て、宥められたように、十字架のキリストの苦しむ姿を見て、そしてこの御子の贖いの故にわたしたちの罪を思い出さないようにされたのです。帳消しにして下さったのです。そしてキリストは今も、わたしたちのために御父に執り成していて下さっているのです。「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているのか解らないでいるのです。」(ルカ23:34)と。

このイエス・キリストの十字架の贖いは、ノアの虹の契約のように永遠です。(ヘブライ9:12)ノアの虹の契約は、あのイエス・キリストの十字架を指し示しているのです。それは今も続いております。一人でも多くの人が、自分の罪を悔い改めて、主の十字架のもとへと立ち帰って来るのを待っておられるのです。神へと帰る架け橋となっていて下さるのです。十字架が救いの入り口であるならば、虹はその救いの道を示しています。

3.罪を覆う永遠の約束

「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。」(6:20~23)

ノアは世界最初のぶどう生産者となり、ぶどう酒を造っていました。おそらく秋の収穫祭でもあったのでしょうか。ぶどう酒を飲みすぎて、裸になって天幕で酔いつぶれてしまいました。アルコールに負けてしまったのでしょうか。気を張って必死に信仰に生きている時はいいのですが、何かが終わってホッとした時に、サタンがやって来て誘惑します。イエス様も、荒野での断食祈祷の時には何も起こりませんでしたが、40日間の試練を経た後で、サタンがやって来て試しました。

さらに人間の罪の行動は続きます。あのノアの家族の中の息子たちの中に、父親を辱めるような人物が出て来ました。三人兄弟のうちの二男のハムです。彼は父親の裸を見て、それを他の兄弟に告げ口をしました。わたしはこのハムは、ここで三つの罪を犯したと思っています。一つは、他人の罪や失敗を面白がると言うことです。二番目は、他人の罪を言いふらしたことです。そして三番目は、そのことによって他人をおとしめたと言うことです。父親に対する不敬、そして憎しみ、攻撃へと変わっていきました。

幸い、ハムの告げ口を聞いた他の兄弟セムとヤフェトは、自分たちの目で直接に父の裸をみなようにして後ろ向きに近づいて行って、その罪の裸を着物でそっと覆ってあげました。このセムとヤフェトの正しかった行動は何だったでしょうか。一つはハムの話を面白がって聞かなかったと言うことです。悪口や人のそしりに同調しなかったと言うことです。ハムの行動が、正しいことかどうかを自分で信仰に基づいて判断して、自分で考えて行動しました。

皆さんでしたらどうするでしょうか。皆で面白がって父親の裸姿を見るでしょうか。これはわたしたちの間でもよくあることです。誰かの悪口や失敗をあげつらって冷やかすことです。自分はそうは思わないと言って正しい行動をとれば、仲間からも逆にいじめられるので、つい同調して同じ悪い行動に走ってしまうことがあります。そういうことはないでしょうか。

このようにして、人間はノアもしかり、そしてその息子のハムもしかりです。せっかく洪水のバプテスマを受けてクリスチャンになっても、つい悪い道へと流されてしまいます。わたしたちはそういう弱さを持っています。でも、この雲の間に現われる虹を見るたびに、神様はそういうわたしたちを滅ぼしてしまうことを思い留まっておられるのです。罪人のわたしたちに目をやらずに、美しい虹を見てその美しさに心を鎮めて、怒りを鎮めて下さるのです。それは今も永遠に続いています。

神様は、今もわたしたちの罪の代わりに、あの十字架に架けられた愛する独り子を御覧になり、御子のその苦しみと取り成しとその流された血潮を見て、怒りを鎮めて下さっているのです。この神子の十字架のもとに来る人は、誰でも神の怒りから守られています。イエス様が私達の罪を覆って、執り成していて下さるのです。セムとヤフェトは、父の罪の裸を着物をもって覆い隠しました。

着物はキリストの血による贖いです。二人の息子セムとヤフェテは、父の罪をあげつらうことなく、父の失敗をカバーしてあげたのです。なぜか、それは二人は、神様の虹の決断の思いを知っていたからです。神はわたしたちの罪や過ちを罰しない、永遠に赦すと言って下さった。だから、わたしも親の罪を責めることはしません。お父さんの罪を赦します、いやそれを覆ってやります。そう思ったからではないでしょうか。これが虹の契約です。虹を見ているうちに、自分の怒りが、虹の美しさに変わって行ったのです。

「雲の中に虹が現われると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間にたてた永遠の契約に心を留める。」(9:16)と神様は、おっしゃってくださいました。ですから、このイエス様の永遠の贖いにおおわれている者として、わたしたちも、もし心に怒りを覚えることがありましたら、この贖い主である十字架の主を見上げましょう。イエス・キリストこそ、わたしたちの罪をいつも赦し、今もわたしたちが犯す罪を贖い続けていて下さるお方です。そして、このお方を仰ぎ見上げるならば、私たちも私たちのうちにある怒りも悔しさも悲しみも安らぐのではないでしょうか。そしてあの雨上がりの、美しい虹に変えられてゆくのではないかと思います。

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