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枯骨の復活 (エゼキエル37:1~14)

メッセージ

2014年6月22日富里キリスト教会(召天者記念礼拝)

「枯骨の復活」
(エゼキエル書37:1~14)

1.白骨の散乱する谷の中で

ある時エゼキエルは、神の手によってとある谷の真ん中に連れて行かれました。そこには、人間の白骨が散乱している墓場のような場所でした。そこの個所をもう一度読んでみます。「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中におろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。その時、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』」(エゼキエル37:1~3)

わたしは、この箇所を読む度に、昔見た「ビルマの竪琴」という映画のワンシーンを思い出してしまいます。それは、太平洋戦争で戦って死んだ日本兵の遺体の姿です。映画では、ビルマ(今はミャンマー)の山や川や田んぼに誰にも葬ってもらえずに、朽ちるままにされた日本兵の遺体が累々と横たわっています。その場面を映画は、ズーッと取り続けているのです。

ユダヤの人々も同じでした。戦争に敗れ、多くの人々が異国バビロンの地に捕囚となって連れて行かれました。彼らは、故郷に帰りたいと思いながらも、帰ることができずに異国の地で死んで行かねばなりませんでした。「どうしてこうなってしまったのか、神が我々についているのに、ユダの国は滅び、自分たちは外国に連れられて来ている。なぜなのか。一体神は、おられるのか。」という神に対する不信や絶望の中で、一緒に捕虜として連行されてきたエゼキエルが、立ち上がって同胞を励まして書いたのがこの旧約聖書のエゼキエル書です。

谷のあちこちに散らばっている白骨、しかもおびただしい数の骨です。死んでから何十年も経っているのでしょうか、はなはだ枯れた骨であったとあります。まさに死の谷です。東京にも谷中という地名の場所がありますが、やはりそこはお寺の多いところです。この聖書に出てきます谷も、絶望と死と空しさの漂う異様な場所でした。

主はエゼキエルに尋ねます。「これらの骨は生き返ることができるか。」と。エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみが御存じです。」と。もはや、こういう悲惨な絶望的な場面では、人間の側に何の希望も力もないということがいっそうはっきりと知らされます。もはや、人間はこの現実に直面して、どうすることもできない無力な存在であるということを否が応でも知らされます。
この現実を回復できるかどうかは、神のみぞ知るということです。

でもこういう悲惨な現実を引き起こしたのは、神ではなく人間でした。ユダヤの人々は神をないがしろにし、自分の力で、神を頼まずに何でも自分でできると信じて生きて来たのです。真の生ける神に頼らず、自分たちの目に見える偶像により頼んできた結果がこうなのです。神の言葉をないがしろにして、神を頼らずに他国の武力や他国の王を頼ったために、戦いに敗れて捕囚の憂き目にあったのでした。このエゼキエルが見た谷中の枯れた白骨の群れは、そういう人間の絶望、空しさ、愚かさの極みを表しております。

2.枯れた骨よ、主の言葉を聞け

神は、このような現実をどうされるのでしょうか。それがこのエゼキエル書の一番言わんとしていることです。次を読んでみましょう。「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』」(37:4~6)

この枯れた骨を生かすのは何か。この枯れた白骨が再び回復することができるのか。それが、この「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」という言葉です。この神の言葉だけが、この干からびて枯れてしまった骨に命を与え、もう一度甦らせることができるというのです。つまり、この聖書の神の言葉だけが、枯れた骨を生き返らせることができるというのです。この神の御言葉には、命があり、力があります。死から命へ、闇から光へ、無から有を造り出す力があります。

人を造られた神は、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」と言いました。信仰とはこの神の御言葉を聞くことから始まります。なぜならば、神の御言葉には命があり人を生かし、永遠に生きる力があるからです。聖書にこういう言葉があります。「肉なる者は皆、草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)この神の言葉だけが、永遠に変わることがなく存続するものです。この神の言葉を聞く者が、新しく生まれ変わって生きる者であり、その霊は永遠に残るのです。

神は、エゼキエルに「この神の永遠の命の言葉を、この枯れた骨に向かって語れ。」と命じました。ですから、わたしも預言者エゼキエルのように、皆さんに向かって今語ります。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。今のうちに、お骨になる前に、耳のある者はこの永遠の命の言葉を聞いて命を受けよ。そして生きよ。」と。更に言葉だけではなく、霊に向かって預言せよと言っています。言葉だけでは、骨と骨がつながって、生物的な意味で生きることになりますが、言葉だけではなく、神の霊にも向かって預言せよと主は言われました。

ちょうど、ペンテコステ礼拝以来、わたしは意識的に教会で神の霊に向かって説教しています。「神の霊よ、御言葉だけではなく、御言葉と一緒にあなたの霊をもってこの会衆に吹きかけて下さい。神の霊が、天の窓を開いて、四方八方からこの会衆の上に吹き込んでくださるように。」と祈りながら毎週、語らせていただいております。ただ生物学的にまた医学的に生きるだけではなく、神の前に、神と共に生きて、信仰を持って神の働きを共に担えるようにして下さいと、毎週語っています。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ、霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」(37:9)神の聖なる霊よ、今ここに吹きつけてください。

3.自分の足で立ち、大集団となった

エゼキエルが、主の御言葉を語り、霊に向かって吹きつけよと命じると、大きな音がして、骨がカタカタと音を立てて集まり始めました。そして、筋と肉と皮膚がその上を覆い、人間の体になったのです。更にエゼキエルは、霊に向かって「吹いて来い」と命じました。すると神の霊が四方八方から吹き付けて来て、立ち上がった人間の体に入り、神の前に生きる人間となり、谷の中は大勢の群衆でいっぱいになったのです。

37:7節から読んでみましょう。
「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って、自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」
(37:7~10)

この骨が一個一個つなって行く様子を歌ったのが、あの有名な黒人霊歌『ドライボーンズ』です。歌は難しいので省略しますが、この黒人霊歌の歌詞を見ますと、「エゼキエルは乾いた骨に向かって叫ぶ。今、お前たちは主の言葉を聞け。エゼキエルは乾いた骨を繋ぐことができる。今、お前たちは主の言葉を聞け。
つま先の骨と足の骨がつながり、足の骨とかかとの骨がつながり、かかとの骨と足首の骨がつながり、足首の骨と足の骨がつながり、足の骨とすねの骨がつながり、すねの骨と腿の骨がつながり、腿の骨と腰の骨がつながり、腰の骨と背骨がつながり、背骨と肩の骨がつながり、肩の骨と首の骨がつながり、首の骨と頭の骨がつながる。」という歌詞になっています。

この聖書にはいちいち骨の名前は出ていませんが、骨がつながってから、筋ができ、それを筋肉が覆い、その上に皮膚が覆って肉体ができたとあります。つまり、人間の体ができるには順番があるということです。教会もそうです。いろんな働きをする様々の骨があります。でもそれが互いに相繋がって、一人の人間の体ができるように、教会もキリストの一つの体と言われていますので、いろんな骨の人が筋でしっかりと結ばれ、その間が軟骨と筋で繋がれて、更に筋肉でつながれて動きやすいようになります。骨と骨が外れないようにしっかりと結ばれます。そしてその上を皮膚が覆って美しい体を形づくるのです。これがキリストの一つの体である教会です。

これは何を意味しているかと言いますと、エゼキエルは37:12節で、「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く。」と言いました。この枯れた骨の甦りの幻は、やがて異国の地に骨を埋めてしまったイスラエルの民を、その墓を開いて墓から引き上げて、真の故郷であるエルサレムへ連れて行くということです。しかも大勢の群衆となって、天の故郷へと連れて行くということを意味しています。やがて、イエス・キリストが天から降って来て再びこの地上に立たれる時には、多くの神の国の民と共に空中で主と相見えるとあります。その復活の朝を、私たちも待ち望みつつ、日々、神の御言葉と神の霊をいただいて歩んでまいりたいと願っております。                     (岡田 久)

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