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朝毎に (出エジプト記16:16~29)

メッセージ

2011年9月18日富里キリスト教会
「朝毎に」
(出エジプト記16:16~29)
1.疑いを確信へ

私は高校生の時に、英語を教えてくださった宣教師に義理立てして手をあげてしまったのが運のつきでした。「しまった。」と思いましたが後の祭りです。流れに任せてバプテスマを受けました。信仰の確信がなく、その後はどうしたら教会を辞めることができるかということばかり考えていました。そこで、当時、学生の聖書研究会で流行していたのが、「否定媒介信仰」という言葉でした。つまり、確信のない学生は、徹底的に無神論の本を読んで、神の存在をどこまでも否定してみようというのです。否定できたら、信仰を捨ててもいいわけですが、もしできない場合には、逆に神を否定できないが故に信じようという考えです。

アメリカのリュー・ウォレスという小説家は、キリスト教を根底から否定しようとして、聖書をはじめ、あらゆるキリスト教の歴史書とか信仰書を調べつくしました。そしていよいよ筆を入れてキリスト教を否定する本を書き始めました。ところが、第1章までは書いたのですが、第2章に入ってどうしても筆が進みません。そして考え考え悩んだ挙句、書いて出来上がったのが、あの「ベン・ハー」だったのです。信仰を否定しようとした本が、信仰の素晴らしさを謳い上げる不朽の名作となってしまったのです。私も、自分の信仰を検証しようといろんな無神論の本も読みました。そして聖書も批判的に読みました。しかし、最後には聖書の御言葉に捉えられて、結局は牧師になってしまいました。

それは聖書から来ます。最後に残ったものは、神の御言葉であり、聖書です。クリスチャン学生同士の楽しい交わり、また伝道や奉仕活動、青年会活動、どれも素晴らしい経験です。つい奉仕活動が、信仰を養う最善の道かと思ってしまうことがあります。しかし、最後の決め手は、この聖書の御言葉に最後までとどまり続けるかどうかということです。大事なことは、どんな時でも御言葉を手放さないということです。そして、信仰生活というのは、この御言葉と真に結びつくための訓練と努力以外の何物でもないということです。

そして人生で出会う様々な苦難と試練が、私たちの教師であり、バプテスマを受けた者の歩む人生だと言っても過言ではありません。砂漠の何もないところを行くのです。荒野の人生、旅人の人生です。神様は、この荒野での生活を通して、私たち一人一人が御言葉にしっかりと立つことができるようになるために、訓練しておられるのです。そのために、毎日なくてならない食べ物として、天からマナを降らせました。

そして私たちが、この神様から来るマナを毎日食べることによって、神の御言葉に完全に従い、この御言葉によって生きるように養い、訓練してくださっているのです。マナというのは、モーセの時代では肉体を養うものでしたが、今日の新約聖書の時代では、私たちの霊を養う命のパン、すなわち神の御言葉であるイエス・キリスト様です。(ヨハネ6:35)そして、マナを入れたツボというのは、私たちにとってはこの聖書のことです。ですから、ツボのふたを開けるようにして、聖書を開き、中のマナを食べなければなりません。

しかし、なかなかこのマナを食べて生きるようになるまでは、時間がかかりました。真に御言葉で養われるようになるまで、実に40年という歳月、彼らは荒野を旅しなければなりませんでした。バプテスマを受けて、早いうちにデボーションを身につければいいですが、しばらく教会生活を送った後でデボーションをしようと思ってもなかなか身に付きません。私自身を見てもそうです。お恥ずかしい話ですが、信仰に入って20年目にやっとデボーション、静聴の時間を取ることができるようになりました。

2.朝ごとに

次にどのようにしたら、この霊の糧を食べることができるようになるかを聖書から見てみたいと思います。16:13から読んでみましょう。
「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが、大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」』

イスラエルの人々はその通りにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。モーセは彼らに、『誰もそれを翌朝まで残しておいてはならない。』と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」
                 (出エジプト記16:13~21)

このマナという食べ物は、霜が降りた後に、日が昇って霜が蒸発した後に残るもので、薄いウエハースのようなものだと言われています。(16:31)味は、コクのあるクリームのような味がしたと言われています。(民数記11:7~8)ただし、このマナを集めて食べる際に、気をつけなければならないことがありました。それは、一人、毎日1オメル(2.3リットル)づつ集めなければなりませんでした。後で、平均してみると、どの家族も一人1オメルづつの量になっていました。また、マナは、日が昇ると溶けてしまうので、朝のうちに集めなければなりません。(チョコレートみたいなものですね)また、明日のためにと、余分に集めて取っておいても、翌朝には虫が湧いて臭くなっていました。このように、マナはきちんと規則正しく食べるように決められておりました。

また、厄介なことに、マナは毎朝毎朝食べなければなりません。朝早く起きて、涼しいうちに拾い集めなければなりません。もう9時過ぎてしまうと溶け始めるからです。つまり、神様の御言葉は、朝早い時に読むということです。その方が、新鮮な生きた御言葉が与えられます。実際、朝食を食べて仕事が始まってからは、忙しくて御言葉に集中できません。心がさわやかな朝のうちに、静かに落ち着いて聖書を読むことです。これが、「朝ごとに」ということです。

5.必要な分だけ

最後に神様は、一人一人に、今必要な分だけの御言葉を備えていておられます。聖書の中に「必要な分だけ」という言葉が、何度も出てきていますが、それは神様が、今日、私岡田に必要な分の御言葉を知っていて、この日、私のために必要なマナを与えてくださるというのです。明日ではもう当てはまらないかもしれない、他の人には関係のない、私だけに必要な、かけがえのない今日の分の私の御言葉なのです。時には、読んでも何も感じられない時があるかもしれません。それでも、毎日毎日根気よく食べ続けるのです。きっといつか、なくてならぬものになります。

途中で休んでしまったっても諦めないで、おいしくてもまずくても、こつこつと御言葉を読み続けるのです。もちろん、読む前に「神様、私の心の目を開いてください。あなたのくすしき御業が解るようにしてください。」と祈りを持って読み、そしてまた読んだ後も、「どうぞ、この御言葉をどのように自分の生活に当てはめるべきかを教えてください。」と祈りながら黙想することも大切です。祈りだけのデボーションですと、ちょっと不十分です。何のために祈るのか、祈りの根拠がないし、自分の願望を訴える熱心なだけの祈りになってしまいがちです。「御言葉にこうありますから、私はこう祈ります。」「あなたがこう言いましたから、私はこう祈ります。」と言えるようになるまで、この訓練の旅は続きます。

最後に、新約聖書でもイエス様はこう言っています。「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。私は天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(ヨハネ6:48~51)
永遠の命とは、この生きた天からのパン、すなわちイエスご自身を食べること、別なことで言うならばイエスを信じることです。このパンを食べる人は生き、食べない人は死にます。救いとはこのイエスの御言葉を日ごとに食べることです。命のパンであるイエスのもとに行き、イエスを信じ命のパンであるイエスの御言葉を食べ続けることです。そのような人は永遠に生きます。

信じますと言いながら、食べない人は信じたことになりません。もしこのパンを食べないなら、その人は死にます。永遠の命とは、この御言葉を信じ、日ごとにそのマナを集めて食べ続けることです。食べない者ではなく食べる者になりましょう。毎日、毎日、几帳面に真剣にこの御言葉を求めようではありませんか。                          (岡田 久)

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