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最後の晩餐 (Ⅰコリント11:17~34)

メッセージ
2018年5月6日富里キリスト教会
「最後の晩餐」
(Ⅰコリント11:17~34)

1.教会の問題行動

まず、どんな問題がコリント教会で起きていたのでしょう。
「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」(Ⅰコリント11:17~22)

パウロはこの手紙の中で、教会は生きた聖なるキリストのからだであると言っています。お互いがお互いを支えあい、助け合い、必要とする群れなのです。一つの柱は他の柱を必要とします。お互いに相手を必要とし、支えあう生きた神の家です。その一つの体であるはずの教会が、自分をよく見せようとして、競争し戦っているのです。他の信徒を無視したり、軽視したりしているのです。お互いの中に仲間割れがあるというのです。一つの体でそういうことがあり得るでしょうか。手が足に向かっていらないとも言えませんし、目が口に向かっておまえはいらない、自分の方が上だということができるでしょうか。

しかもそのような分裂分派行動が、集会の時に起こっている有様なのです。ですから、せっかくみんなで集まって教会に来たのに、お互いに嫌な思いになってしまう集会になっているのです。いかがでしょうか。わたしたちの中でそういう嫌な集会になってしまうことはないでしょうか。

何度も経験してきたことですが、ある時こういうことがありました。別な教会で、ある方が、「岡田先生、今度新しく就任されましたので、教会の近くの散歩コースを案内しますので、教会員の方々と一緒に行きませんか。」というのです。ありがたいなあと思いまして、快諾しました。そして後で一緒に行くメンバーを見てみましたら、何と自分の気に合った仲間たちだけなのです。そして自分の仲間でない教会員には、声をかけていなかったのです。わたしも、何かおかしいなあと思いながら、赴任したばかりでしたので、事情が分からずに同行してしまいました。でもなんと後味の悪いピクニックになったでしょうか。

教会の集まり、時に信徒同士で行く食事会や旅行にしても、これは必ず、主の名の元でなされなければなりません。そうでないと、結果的にそういう仲間割れのような後味の悪い集会になってしまいます。せっかくの牧師就任式が台無しです。そして気を付けなければならないことは、そういう分裂分派行動をした人は、最後には懲らしめとして裁かれると聖書にあります。パウロはこう言っています。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのためあなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。わたしたちは自分をわきまえていれば裁かれはしません。」(11:29~31)

そういう分裂分派行動をする者は、自分でも悪いことをしていると知りつつも、それを止めないで実行しているのです。そういう人は裁かれるというのです。これが、11:27「ふさわしくないままで、主のパンを食べたり、その杯を飲んだりするものは、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」(11:27)という言葉の言わんとするところです。そういうことをしていながら、平気で晩餐式にあずかり、キリストの血と肉を食べるならば、その人は主の体に対して罪を犯しているのです。十字架の死をもてあそんでいる人だと、別の聖書では言っています。

In Corinthian church some those who is rich was dining and drinking not to wait those who is poor. After their dining was finished the poor Christian came to the church too late for their job so that they had to join the Lord’s supper with standing and being hunger.
Paul accused the rich people because they disgusted and shamed the poor people. And Paul said whoever eats the bread or drinks the cup of the Lord in an unworthy manner will be guilty of sinning against the body and blood of the Lord. (11:27) if we do what the rich people do
for the poor people. And if we participate the Lord’s supper not knowing the meaning of the supper, we may invite God’s judgment to ourselves. for such a people will be guilty of sinning against the Lord. I do not want you to be judged. I persuade you to see your inside and confess your sins and repent during accepting of Lord’s fresh and blood of redemption . this is the true meaning of the Lord’s supper.

わたしは皆さん方がそうなってほしくないから言っているのです。皆で天国に行きたいからです。こんなに一生懸命奉仕しているのに、毎週礼拝に来ているのに、最後の最後で、天国の門のところで断られたらどうなるでしょうか。今までの奉仕はいったい何なのでしょうか。自分が何者であるかをわきまえていない、罪を犯す奉仕ではなかったでしょうか。もっと自分をわきまえてほしいのです。自分だけを喜ばせずに、教会の中の弱い人、小さい人のことを第一に考えて、その人がつまずくならば、肉も食べません。お酒も飲みません。食事に行きません。旅行もしません。と自分の教会生活、普段の態度を猛反省して改めてもらいたいのです。

このように、教会の集会や行事の時には、突然、このように主の教えと反するような出来事が起こります。牧師はそのためにいつも目を覚まして、羊の群れを見ていなければなりません。そして、役員、リーダーの方々は牧師と共に、そのような無意識な落とし穴にも目を光らしてもらいたいのです。そこが、富里教会がこれから伸びるかどうかの瀬戸際です。もしそういう人がいたら、お互いに注意しあいましょう。「今日はやめましょう。」とか「牧師先生に了解をいただいた?」とか「自分勝手なことをしては裁かれるよ。」と。忠告しましょう。これが愛の教会です。その人が裁かれないためにも、耳の痛いことも愛をもって戒めてあげましょう。

このコリント教会の場合でもそうでした。主の晩餐式の前に、各自で夕食を持ち寄ってきて晩餐式に備えておりました。ところがお金持ちの人たちは、早めに来て時間があるものですから、先に弁当を開いて夕食を食べてしまっているわけです。ぶどう酒ももってきていました。ですから、さあ食事が終わって、これから晩餐式という時に、もう出来上がってしまっているのです。一方、貧しい人たちは、やっと仕事を終えて教会に駆け付けるわけですが、晩餐式にはぎりぎり間に合って到着します。でもほかの教会員は、お腹もいっぱいでお酒の少し入って上機嫌で晩餐式にあずかるのです。ですから、あとから来た貧しいクリスチャンは、礼拝堂の後ろに立ったまま、おなかをすかして主の晩餐式にあずかっている始末なのです。聖書にはこう記述されています。

「なぜなら、食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたは、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」(11:21~22a)

裕福な教会員は、同じ教会員の貧しい人たちを見くびっていたのです。貧しい人たちに恥をかかせていたのです。こんな信仰態度で主の晩餐式にあずかっているあなたがたを、ほめるわけにはいかないと言っています。キリストの一つの体にあずかっていながら、片方では兄弟姉妹を切り捨てているのです。自分たちだけで固まっているのです。弱い人貧しい人々を見くびり、軽視し、恥をかかせているのです。「これが教会ですか?これが晩餐式にあずかっているクリスチャンの信仰態度ですか?」とパウロは責めています。

We should not gather together on our own, we should do everything according the name of Lord. And we should care for the weak person and small one. Because we are the one body of Christ. We are the one.
We should not disappoint or mourn the poor people. If we keep in the Lord’s supper with such attitude, we may be judged. so let us confess our sins and repent to the Lord. Let us admonish and warn each other. This is a mature Christian and true church on the Name of the Lord.

2.主の晩餐式の意味

今日もこの説教の後で、主の晩餐式があります。もし、そういう問題行動、分裂分派、仲間割れをしたままあずかっているとしたらどうなるでしょうか。教会はキリストの体であり、一体となるべきであり、ほかの仲間をないがしろにしたり、自分勝手な行動をとったままで、この主の晩餐にあずかるとしたら、その人は自分に対する神の裁きを飲み込んでいることになります。神の怒りを食べていることになるのです。ですから、本当に自己吟味をし、反省し、悔い改めをもってあずからなければなりません。毎月の主の晩餐式を侮ってはいけません。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(11:23~26)

イエス様の体であるパンを食し、流された血潮であるぶどう酒を飲むとき、わたしたちはあの十字架に架けられたイエス様の姿を思い出すのです。そして、わたしの罪のために今もなお、血を流して贖い、とりなしてくださる主を見上げる時です。わたしたちとイエス様を繋ぐのは、この十字架の流された血潮と裂かれた肉のみです。そのことを信じ受け入れ、従ってゆく決心をしたものとして、毎回毎回思い出すときです。主に罪を赦していただいたものが、同じ兄弟姉妹を軽視したり、見くびったり、差別してよろしいでしょうか。

主が血を流されたのは、わたしたちが自分の罪を認め、絶えず主の前に罪を悔い改めて歩むためではないでしょうか。そしてこのパンはイエスの体を意味しています。わたしたちは一つになるために救われたのです。自分だけが自由になるためではないのです。相手を愛するために救われたのです。そういう仲間を差別していいでしょうか。競争して敵対していいでしょうか。そのような誤解を受けないように、わたしたちは絶えず周りに気を配って、弱い兄弟姉妹がつまずかないように慎重に行動しなければなりません。一つになるために召されたのです。そして一つの体とされたのです。

We will have the Lord’s supper in this morning. Jesus Christ bled for our sins and is bleeding now and will bleed forever for our sins. As we eat his bread and drink his blood we remember the redemption on the cross for my sins. And reflecting myself under the cross whether we have sinned or not to the Lord. Without such serious reflection we accept the bread and cup, we may be guilt against the Lord. Therefore we ought to examine ourselves before we eat of the bread and drink of the cup. Participating the Lord’s supper we should examine ourselves as the one body of Christ. This is the purpose of the Lord’s supper and purpose of the church. To be one we are to have the Lord’s supper.

今日ここでパンとぶどう酒にあずかったのは、一つになるためなのです。でもせっかくここで一つになっても、この晩餐式が終わったら自分勝手に仲間同士で、食べていいのでしょうか。教会は教会、個人生活は個人生活と区別していいのでしょうか。何事も私たちは、主のみ名の元で行動するのです。わたしたちはキリストのみ名をこの身に帯びている者です。イエス・キリストの大使です。どこへ行っても、ゴルフをするにしても温泉に行くにしても、イエス・キリストというタスキを肩にかけている身なのです。そのことを忘れないでほしいのです。

ですから、もし自分が誰かほかの兄弟姉妹をつまずかせていたことに気が付いたならば、直ちに悔い改めるべきです。晩餐式の前に、十分に自己吟味してみるべきです。そのような真剣な反省なしに気にもせずにあずかるならば、神の裁きを招く羽目になります。なぜなら、その人はキリストの死をもてあそんだからです。主の晩餐式の目的は、あずかることではなく、その前に十分に注意深く自分を反省することです。悔い改めの場です。

ただ単にありがたい儀式ではなく、自分の罪を認めて悔い改める時が主の晩餐式なのです。もし、悔い改めもせずに、平気であずかる人がいるならば、その人は自分の身に裁きを飲み食いしていることになると言っています。ですから「誰でも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」(11:28)と警告しています。悔い改めることが赦され、悔い改めることが求められている場なのです。罪赦される恵みの場です。このような恵みの場に招かれ、導き入れられていることを感謝し、心を開いて主の贖いの血潮を受け入れましょう。罪の告白と悔い改め、そして再献身の思いをもって主の晩餐式にあずかるものとなってゆきたいと願っています。    

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