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暗闇に輝く希望の光 (ヨハネ1:1~18)

メッセージ
2021/7/18
富里キリスト教会伝道説教
「暗闇に輝く希望の光」
(ヨハネ1:1〜18)

○はじめに
今日は伝道メッセージということですが今日の中心テーマは「愛」になります。キリスト教は愛の宗教などと言われたりしておりますが、それはまさしくその通りでキリスト教の中心は愛であります。愛ときくとどこか心が暖かくなるような感じがありますね。人は愛がなければいきていけないとも言われます。ですから、音楽でもラブソングというものがたくさん世にはでていますね。
私も音楽が好きなのですが、その中でQueenというバンドがとても好きでして、その中でも「I was born to love you」という曲がとっても大好きなのです。私はあなたを愛するために生まれてきた。なんかすごくかっこいいですね。言ってみたいし言われてみたい気もしますが、日本人はシャイな方が多いのでなかなか言うことも聞くことも少ないかもしれません。
しかし、この言葉は実にイエス・キリストが私たちに向けて語られているメッセージであるとも言えます。まさしくイエス様は私たちを愛するためにこの世に来られたのです。しかもその愛は、ラブソングにでてくるようなただの恋愛のような愛ではありません。もっと普遍的で全く条件のない完全な愛です。それでは内容に入っていきましょう。

①イエス・キリストとは
先程お読みした箇所はヨハネによる福音書の冒頭の部分にあたりますが、この書はキリストとは一体何者なのかということを伝えることを目的として書かれていると言われています。私も含めてこの教会にいる多くの者がクリスチャンですが、クリスチャンとはキリストに属するものといった意味があり、さらにいえばそれはイエス・キリストを救い主だと信じている者と言って良いでしょう。先ほども言いましたが今日は伝道メッセージです。道を伝えると書いて伝道と読みますがどんな道を伝えればよいでしょうか。それは、まさしくイエス・キリストそのものであります。イエスさまはご自分のことを道であり真理であり命であると言われました。道であるイエスキリストとは一体どのようなお方なのか。まずはそこから共にみてまいりましょう。

ヨハネ1:1
「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」

ここでいうことばとは言語とか文字とかいうことではなく、もっと人格的なものでイエス様そのものを表していると言われています。そしてそのイエスなることばは神と共にあり、ことばは神であった。ことばwith神、ことば=神、ちょっと一瞬頭に?が浮かぶかもしれませんが、これは聖書が一貫して語っていることで、つまり神はイエスであり、イエスは神である。イエス・キリストとは神そのものなのだということをヨハネはこの冒頭ではっきりと伝えようとしているのです。
また、このことばとは神の力そのもののようにも言えるでしょう。はじめにと冒頭にありますが、聖書はこの世には始まりがあって、その始まりは神によって起こされたとあります。私たち人間やこの地上のあるゆるものが神によって創造され、それは神がことばを発したことによって起こったと書かれています。光あれと神様がことばを発した時、そのとおりになったのです。神様のことばには力があるのです。
そして、さらに神様はそのことばを通して私たちにご自身の存在を明らかにしてくださいました。私たちから神様を探し、見つけるのではなく、神様の方からことばをとおして私たちに示してくださったのです。そのことばの集大成がこの聖書です。つまり聖書とはただの人間が書いた一般的な書物とは一線を画す、特別な神のことばなのです。神様はことばを通して私たちと関わりたい、そして伝えたいと願われているのです。そしてその聖書の中で神様が私たちに最も伝えたい中心メッセージは「私はあなたを愛している。」ということです。ですから、聖書は神様から私たちへのラブレターだ、などと言われたりもしています。
そして、そのことばなる神はとうとう今度は私たちに会いたいと願われ、この地上に人となっておりてこられたのです。そのお方がイエス様です。14節の

「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

という言葉はそういった意味を表しています。つまり、イエス様とは神でもあり人でもあるお方なのです。
では、なぜイエス様はわざわざ人となってこの地上に来られたのでしょうか。それはただ単純に会いたいから来たといったものではありません。人類が抱えている苦しみを解決するために。私たちを救い出し、命を与えるために、イエス様は人となって来られたのです。ただただ私たちをこよなく愛しておられるがゆえのことなのです。そして、この愛は私たち人類の希望の光です。暗闇の中で燦然と輝く永遠に消えることのないたった一つの光なのです。

ヨハネ1:4−5
「ことばの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

②暗闇に輝く光
暗闇の中でこそ光は輝く。闇と光。人は生来、暗闇を怖がる習性があるそうです。他方、その暗闇の中で光を見るとホッとして安心するところがあるそうです。真っ暗な夜に私たちは必ず明かりをつけますよね。それは、見えなくなるからといった利便性からくるものもあるでしょう。しかし、そこには目の前からこの暗闇を失くしたい。そういった願望が人にはあるように思うのです。
情けない話ですが、自分は子供の頃いやになるくらい怖がりで、夜のトイレとか、慣れない場所で夜を過ごすのが怖かった記憶があります。小学校の宿泊学習の時など、集まって夜怖い話などをするのが定番でしたが、私はその話を聞くと本当に怖くて、何か不安で電気をつけて寝てしまいました。まあ、ここまで暗闇を怖がったのは単に私がビビりだということかもしれませんが、暗闇をきらう習性は大なり小なり人間にはあるでしょう。
聖書では暗闇という言葉は悪、さばき、苦しみ、そういったものを表現する時に用いられています。逆に光とは神様そのものを表すことがあります。光なきところに暗闇はできる。つまり暗闇、それはそこに神がいないという事実を突きつけるものなのかもしれません。神様がいない世界とは、つまり神様を認めない世界ということです。そして、そこにいるのは神を認めない罪に囚われた私たち人間であります。実は私たち人間は全て罪に囚われた罪びとなのだと聖書は語っています。そしてその罪の報酬は死であるとも語っています。聖書のいう罪とは犯罪とかいうものではなく、自己中心に生きたいという欲求、根源的な欲望のことを指します。この罪が私たちを苦しめ、この命を死へと連れ去ってしまうのです。実は私たちは、そんな暗闇の中を生きているのです。
そんな事実を否定したい。恐ろしい死もみたくない。それゆえ、人は闇を嫌い、光を好むのではないでしょうか。闇の中にはいないのだと否定するために懸命に明かりをつけ、今のこの現代社会の夜は闇の現実を打ち消すかのようにネオンとイルミネーションに囲まれています。しかし当然ながら人の作る光とは人工的なもの。その光はむなしい虚構の光といってよいかもしれません。
また、人生においても人は、多くの人工的な光によって生きようとします。私は暗闇の中にはいない。自己実現、地位や名誉、経済力、恋愛、人間関係、そういったものから希望を見出そうとします。逆にうまくいかない場合はストレス発散させる楽しいものを探し出し、そこに一時的な満足を得ようとします。今の現代は現実逃避をさせてくれる一見魅力的に見えるようなものがたくさんあります。こうして人間は暗闇の中にいても人工的な光を受け、どこか安心して生きている。そういったところがあるように思います。
しかし、これらの光は先ほど言ったように人工的なものでいつ消えてしまうか、全くわかりません。消えないと思っていた光がいきなり全てバッと消えてしまうかもしれないのです。今のコロナ禍などまさにそうです。当たり前の日常がいきなり消えてしまうことがあるのです。
これを人は絶望と呼びます。お先真っ暗。そこで多くの人間が自暴自棄になってしまいます。しかし、実はその中に決して消えることのないまことの光が一つだけあるのです。人はその絶望の時こそ暗闇に輝く光を見るのです。ネオンやイルミネーションなどが光っている時にはよく見えなかったまことの光です。暗闇の中でこそ、そのまことの光はひときわ輝くのです。東京の夜空では星は見えません。真っ暗な森の中でこそ星の光はひときわ輝いて見えるものです。そしてこのまことの光は決して何があっても消えることがないのです。

③愛の光に生きよう
その光とは愛の光です。この世にある全ての者があなたのことを愛していないといい、あなたという存在を無視したとしてもたったお一人、決してあなたを見捨てず永遠に変わらず私はあなたを愛していると言い続けるお方がいるのです。そのお方こそがまことの愛の光そのものであられる主イエス・キリストなのです。
私たちは心の中に罪という暗い部分をみな抱えています。人を憎んでしまったり、妬んでしまったり、許せなかったり、そんな時があります。その暗闇が私たちの心を苦しめます。私たちはこの罪という暗闇に囚われた憐れで弱い者なのです。その罪に苦しむ私たちをイエス様は愛の光で覆ってくださるのです。この愛の光はあなたの罪を暴いて、さばくためではなく、その罪すらも包み込んで抱きしめてくださる光なのです。そのあなたの罪は私が全て責任を取る。イエス様はそのように言われるのです。それを表すものがイエス・キリストの十字架なのです。
罪の報酬は死であると聖書は語っていると先ほど言いました。罪に囚われている私たちは本来、死を免れることができません。でも、神様は私たちをそのようにはしたくないのです。生きて欲しいと願われているのです。そして神様は、とんでもない方法によって私たちを生かすようにされたのです。神様はあなたを救い出すために、ご自身がこの地に降りて人となって人間の代表となって全ての罪を背負って十字架にかかられたのです。私たちの罪の報酬を全て受け取ってくださったのです。これがイエス・キリストの十字架です。
なんで、ここまでされるのでしょうか。常識では考えられません。理由はたった一つ、非常にシンプルです。それは、神様はそれほどあなたのことを愛しているということなのです。この愛は全てのものに、無条件に注がれた愛です。人の愛には条件がつきものです。なにかしてくれないとなかなか愛せないものです。しかし神様の愛はちがいます。どれだけ私たちが神様のことを無視していたとしても、神様はそんなことは関係ないといわんばかりに一方的に愛して続けてくださるのです。
そして、神様の救いのみわざは十字架にかかって死んで終わりではありません。神の力は死を打ち破るものであります。イエス・キリストは十字架にかかって死んだ後、三日目に神の力によって復活されたのです。これによってもはやわたしたちは罪と死の世界から解放されたことが証明されたのです。このイエス・キリストの十字架の愛のわざを信じ、受け取ったものはもはや死と罪から解放され永遠の命が与えられるのだと聖書は強く語っています。そして、神様はこの愛のギフトを受け取って欲しいと切に願われているのです。

ヨハネ3:16
「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

冒頭でQueenのI was born to love you の話をいたしました。イエス・キリストは、十字架にかかって死ぬために人となってこの地に降りてこられた神でした。死ぬために生まれたとはなんとも悲しい話に聞こえるかもしれません。しかし、それはひとえに私たちを愛するためのものでした。2000年前の十字架上でも、この今現在においてもイエス様はI was born to love youと語り続けています。そして、私はあなたを愛している、そのようなメッセージとともに、今度は私たち自身の生まれた理由についてもイエス様は語っています。それは「あなたは私に愛されるために生まれたのだ」ということです。最近の賛美歌で「君は愛されるために生まれた」というものがありますが、これがイエス様から私たちに向けられたメッセージであり、これが私たちの生きる理由なのです。この神の愛を受け取って生きるために私やあなたは生まれてきたのです。どうか、この神様の愛を受け取って、この愛を信じて、この愛の光の中で、共に生きていきませんか。神様はいつまでも手を広げてあなたが、その懐に飛び込んでくるのを待ち続けておられます。

武井誠司

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