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時のある間に (ガラテヤ6:1~10)

メッセージ

2015年7月26日富里キリスト教会

「時のある間に」
(ガラテヤ6:1~10)

1.互いに重荷を担い合いなさい

「兄弟たち、万一誰かが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何物でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが自分の重荷を担うべきです。」
(ガラテヤ6:1~5)
このガラテヤ教会は、律法的な傾向が強く、せっかくパウロが十字架の赦しを説いても、すぐに律法的な考えに舞い戻ってしまうような教会でした。それは、たとえクリスチャンでも「割礼」を受けなければならないとか、儀式的なことや表面的外見的なこと、信仰の自由というものをがんじがらめに縛って不自由な信仰生活へと引き戻してしまう傾向が強かったようです。(6:12~13)

そういう教会では、お互いを監視するような傾向が強く、律法違反をしているのではないだろうか、クリスチャンとして恥ずべき態度や行為をしてしまっているのではないだろうかと、非常に窮屈な信仰生活を送っていました。ですから、たまたま誰か一人の人が、「不注意で」罪を犯してしまった場合には、まるで鬼の首をとったようにして、徹底的な罪の責任追及がなされて、排除されてしまうような厳しさがありました。

ここで聖書の御言葉を読んでみましょう。「万一誰かが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(6:1)とあります。聖霊に導かれているあなたは、その罪を指摘はしますが、その人を裁いて絶対許さないというのではなく、柔和な心で罪を悔い改めて立ち返るように指導しなさいと勧めています。しかもその場合には、まず一対一で忠告します。それでも相手が非を認めなければ、他の方を証人に立てて忠告します。それでもダメなときには、教会で取り上げるという手順を前回学びましたね。忠告して悔い改めに導くことによって、その人を救うことになるということです。これも立派な伝道です。

ここでは、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言っています。なぜなら、あなた自身も同じようなことをしかねないからだというのです。人は、絶対自分は大丈夫だと言える人はいないのです。誰でも不注意で、つい魔がさして罪を犯してしまうことはあります。誰でもです。わたしも決して例外ではありません。罪を犯したことなどないと言える人はいません。自分には絶対非がないという人は自分を欺いている、即ち自分を偽っていると言っています。

皆さんはいかがですか。自分は絶対、過ちを犯したことはないと言える人はいるでしょうか。誰でも、いつでも罪に陥る危険性と可能性はあります。大事なことは、その罪を黙認することではなく、その罪を指摘し、咎めることです。しかし、本人を滅ぼすためではなく、本人が罪を悔い改めて立ち帰えるように忠告、指導することが大事です。そして「互いに重荷を負い合いなさい」と言っています。これはお互いに赦し合うということです。ここにキリストの教会の真の姿があります。教会の力があるのです。

コヘレトの言葉の7:16です。『善人過ぎるな。賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。』という御言葉があります。「善人過ぎるな。賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。」とあります。その方もようやく「自分が正しい、善だ」ということが罪なのです。そして自分の罪の重荷、即ち自分の罪を認め、その自分の罪、自分の弱さをしっかりと担うことなしには、相手の罪をも担うことができません。自分の罪の重荷を認めて、しっかりとそれを見据えることのできる人こそ、真に相手の罪の重荷も担うことができるのです。

2.良いものを分かち合いなさい

次に「良いものをお互い分かち合いなさい」ということについてみてみたいと思います。「めいめいが、(まず)自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔くものは、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔くものは、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(6:5~10)

今日の聖書箇所のキーワードは、この冒頭の「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」という言葉のような気がします。まず一人一人が自分の重荷、即ち自分の罪を深く知り、自覚するところから教会の愛の奉仕が始まります。そして御言葉を教えてもらう人、皆さんはみ言葉を教える牧師と持ち物をすべて分かち合いなさいと言っています。他の聖書では、「持ち物」ではなく「良いもの」を分かち合いなさいとなっています。

御言葉を語る者と聞く者は、お互いに自分の重荷を知ったうえで、お互いの欠点や弱さや罪と言ったものを互いに担い合い、赦し合うようにしなさいと勧めています。これが良いものを分かち合いなさいということです。師の重荷は、信徒に解りやすいメッセージを語ることです。しかしいつもそうだとは限りません。時に失敗メッセージもあるでしょう。信徒の重荷は、そのメッセージを全身全霊をもって聞くということです。今日のように暑くても、礼拝に出て来て御言葉の前に座るということです。これがお互いの重荷を担い合うということではないでしょうか。語る口、聞く耳、これがお互いに相まって礼拝というのが成り立つのです。良きものを分かち合うという麗しい礼拝です。

そして、お互いに自分の分を果たさないと、御言葉を教えてもらう人が、教える人に対して不平や不満が出て来ます。一生懸命良い心で聞く代わりに、「今日の説教はつまらない。」とか「あの先生の話は勢いがない」とか「聞いてもちっとも恵まれない」とかいろんな不平や不満が出て来る時があります。良いものを分かち合うのではなく、悪いのも、すなわち不平や批判と言った悪いものを分かち合うことになります。もっと悪くなると、「先生の説教を聞いていられないから、わたしも献金をしないわ。」というとんでもない発言が出て来ます。

これが6節の「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は人を侮られることはありません。」という言葉です。このガラテヤ書6:6~8までを、現代訳聖書ではこう訳しています。「神の言葉を教えて下さる人に対しては、十分な謝礼をしなければならない。そのようにしないことは、神の言葉を教えるように建てられた神の権威に対して反抗することであり、その報いをやがてわが身に受けることになる。生まれながらの利己的な動機から神の言葉を聞いて、献金を惜しむ人は、やがて滅びという報いを受け、御霊のためという純粋な動機から神の言葉を聞いて、献金を惜しまぬ人は、永遠の祝福を受けるのである。」と。
(6:6~8・現代訳聖書)

ですから、誰が語ろうが、御言葉を神の御言葉として良いものとして聞き分けて受け入れるならば、教える者も、教えられる者も互いに良いもの分かち合うことになるというのです。わたしは皆さんの献げる献金に支えられて、毎日毎日祈りと御言葉の生活に励んでいます。本当に水曜祈祷会と、日曜日の宣教の準備は大変です。でも、皆さんから謝礼を十分いただいて、以前のように、仕事をして生計を立てなくても、専任の牧師として、その宣教と牧会の働きに専念できております。それに対して皆さんは一生懸命聞いて下さっています。多少説教に難点があっても、「先生、今日の説教はすばらしかった。励まされた。」と言って説教者を励まします。そして一生懸命牧師の生活のために献金をします。これがお互いの重荷を負い合うことです。

3.時のある間に

しかし、長い信仰生活、最初のうちは一生懸命お互いに励まし合って助け合って教会を支えていますが、やがて時がたって来て、教会生活や信仰生活もマンネリ化してくると、相手に対して善をおこなうことに疲れて来ることはないでしょうか。祈っても、祈っても祈りが聞かれない。いくら声をかけても教会に来てくれない。「じゃあ、もういいや、勝手にすれば」とあきらめてはいないでしょうか。しかし、マンネリ化の時が来ると、肉の思いが出て来ます。不平不満が出て来ます。

ですからパウロは「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば時が来て身を刈り取ることになります。」と言っています。お互いに善を行うことに、飽きてしまってはいけないというのがパウロの言葉です。わたし達はどうでしょうか。善をおこなうことに飽きてしまっていることはないですか。自分の罪を告白して悔い改める場となっているでしょうか。苦しみに耐えている人、大きな病や悩みを抱えている人の支えの場となっているでしょうか。

誰かが不注意にも罪を犯したら、すぐに行って忠告して、励まし悔い改めへと導いているでしょうか。あなたはみ言葉によって、日々養われていますか。御言葉によって日毎に新しく造り変えられていますか。パウロはこう言っています。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(6:9~10)と。たゆまず、あきらめず、途中でやめないで、最後まで善を行いましょう。そうすれば、やがて神様の時が来てきっと刈り取ることになるというのです。その人に信仰が与えられるというのです。教会に戻って来ますというのです。「時が来て」とありますが、神様の救いは、その時が来なければ起こらないのです。それは神様の決められた決定的な時があるのです。ですからあきらめないで、気落ちしないでたゆまず善を行いましょう。神様の時が必ず来て、実を刈り取るのです。

神様は言わたしたちの努力、忍耐を見ているのです。喜んで忠実に忍耐を持ってやり遂げるかを見ているのではないでしょうか。わたし達の時ではないのです。神様の時がありますので、その時を視野に置いて、あきらめないで善を行いましょう。礼拝、献金、祈祷会、教会学校、SG,秋の伝道集会といった神様の働かれる時を生かして霊に燃えて主に仕えてまいりましょう。

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