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新しいぶどう酒は新しい皮袋に (ルカ5:33~39)

メッセージ

2016年7月24日富里キリスト教会

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」
(ルカによる福音書5:33~39)

1.今は喜びの祝いの時

「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子達は度々断食をし、祈りをし、ファリサイ派の弟子達も同じようにしています。しかし、あなたの弟子達は飲んだり食べたりしています。』そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』」
(ルカ5:33~35)

パウロは、「今は、恵みの時、今こそ、救いの日だ。」(Ⅱコリント6:2)と言いました。今の時代は、神様がこの世を愛して下さり、御独り子をこの世に遣わされ、このお方の十字架の贖いによって、人々を恵みによって無条件で救いに入れて下さる救いの時代です。最高の喜びの時代なのです。誰でも自分の罪を悔い改めて、十字架の主を信じるならば、無償で義とされ救われる時なのです。神がこの世と和解した日、御子を花婿としてこの世に遣わされて、救いにあずかる人々を花嫁として迎え入れて下さる時代なのです。

だから今の時代は、神の救いを、悲痛な顔をして待つというのではなく、既に来て下さったことを単純に喜ぶ時なのです。今でもエルサレムでは、信仰的なユダヤ人たちは、メシアが来てこの世界を新しくしてくれる日を待ち望んで、あの嘆きの壁の前で一生懸命祈っています。断食をして、旧約聖書の律法による生活習慣をかたくなに守っています。しかしイエス様は、今は花婿であるわたしが来て、一緒に婚宴の宴を開いている時なのだから、もう苦しい顔をして断食をする必要はないのだと言いました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」とパウロも言っています。

でも、主が取り去られる日、すなわち十字架に架けられるために、弟子達から引き離される時が来ます。その時には断食をしなさい。そしてその時には、御子の死を嘆き悲しみつつ、祈りの時を持つことになると預言されました。この段階で主はすでに十字架への道を歩むことを御決心されていたようです。そして今、新しい時代、新しい契約、新約の時代が始まる時に、古い契約であるモーセの教えと旧約聖書による生活習慣とをどのように位置づけたらいいのかを、結婚式のたとえを用いて話されました。

2.新しい服と古い服

最初に、新しい服と古い服のたとえから見てみましょう。
「そして、イエスはたとえを話された。『誰も、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。』」(5:36)

ユダヤ人は律法に従って、一日に三回祈ることが定められていました。正午と午後三時と六時の三回です。皆さん方もよくイスラム教徒の方が、駅前や公園などで、道路に敷物を敷いて膝まずいて祈っている姿を見たことがあるでしょう。町の中でも、駅のホームでも、仕事をしていても、わざわざ時間と場所を取って厳格に祈る姿を見かけることがあります。

もし、新しい教えであるイエス・キリストの生活習慣と、ユダヤ教徒の生活習慣を融合したキリスト教になっていましたら、おそらく私たちも一日三回、必ず祈る時間を持たなければならないと規定されていたでしょう。また、バプテスマだけでは不十分で、男子は必ず割礼を受けなければならない、それがユダヤ教の教えを受け継いだクリスチャンだということになっていたのではないでしょうか。ユダヤ人にとっては割礼を受けない信仰者なんて考えられませんでした。また断食をしない信仰者も考えられませんでした。

もし、この二つの教えが融合して、折衷案となり万事うまくいって迫害がなかったとしましたら、一体どうなっていたでしょうか。十字架の恵みと信仰による救いを受け入れつつ、片方では断食と割礼を義務化するというユダヤ教の律法とが一緒になっていたとしたら、どうなっていたでしょうか。イエスの教えも台無しになってしまいます。律法的なキリスト教になってしまいます。また、イエスの教えを取り入れたユダヤ教の教えも、自由で節度のない信仰になって律法が骨抜きになってしまいます。ですから、イエス様は、新しい服も破れてしまうし、古い服もだめになってしまうと警告しました。古い服は、洗濯をすると新しい生地に引っ張られて、裂けてかえって破れがひどくなってしまいます。どちらもだめになってしまうのです。

パウロは、ガラテヤ書4:2節でこう言っています。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもないものとされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」と。
(ガラテヤ5:2~6)

いつの時代にもこの古い教え、律法的なそうあらねばならないという教えが、自由な愛の教えに介入して来て、命を奪ってしまおうとします。イエスもパウロも生涯、この律法的な規則づくめの教えとそれを信奉する人々との戦いでした。もしイエス様が、断食をしなさい、割礼を受けなさいと弟子たちに教えていたら、おそらく十字架に架けられることもなかったでしょうし、ユダヤ人の指導者たちから排斥されることもなかったでしょう。立派な教師として生涯を全うしたことでしょう。更に主はもう一つ、ぶどう酒のたとえ話を取り上げています。

3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に

「また、だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』というのである。」
(5:37~39)

今度は、結婚式に大切なお酒のお話です。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないと言いました。もし、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、どうなるかと言いますと、新しいぶどう酒は発酵を繰り返して熟成しますから、ガスが出ます。その二酸化炭素のガスが、皮袋の中にいっぱいになりますと、袋を破って爆発します。そうしますと皮袋もだめになるし、中に入っていた新しいぶどう酒も流れてしまいます。どちらもだめになってしまいます。ですから、新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れて発酵熟成させるのがいいのだと言いました。そうしないと、どちらもだめになってしまうと言いました。

この新しいぶどう酒というのは、イエス様の教え、福音のことです。確かに最初はまだ熟成していないので味は弱いかもしれませんが、新しい皮袋に入れて発酵させると、やがては美味しい最高のぶどう酒になって行きます。そしてこの新しいぶどう酒を入れる入れ物は、新しい皮袋でなければなりません。つまり、弾力性のある柔らかな皮だからこそアルコールの発酵ガスに耐えることができるのです。膨らむのです。そして時間をかけて、おいしいぶどう酒になって行きます。

つまり自分の宗教的な行いとか、善行とか奉仕とか、断食、割礼と言った目に見える外形的なしるしによって救われるというのではなく、ただ主の前に罪を悔い改めて立ち帰ることです。具体的には、この前の5章31節にありますが、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言うことです。病院に行けば、多くの病気の人が集まって来て診察を待っているように、イエス・キリストの教会では、多くの罪人が集まって来てイエス様の癒しを受けているのです。

病人に病院が必要であるように、罪人には教会が必要です。イエス・キリストの十字架の赦しが必要なのです。ですから、罪のない人は教会に来る必要はありません。罪人の集まりです。自分の内にある罪に悩む人の場所です。友達がいる、楽しい行事があるということが教会の第一の目的ではありません。そういう人は、他の同好会や趣味の会に行けば良いのです。これが教会の目的であり、イエス様がこの世に来て下さったことの意味なのです。

新しいぶどう酒を入れる新しい皮袋と言いますのは、自分は罪人であると信じ、悔い改めて主を見上げる、イエス様に顔を向ける人です。これが新しい皮袋を持った心の人です。柔らかい心、砕かれた心、へりくだった心、こういう心の持ち主が新しい皮袋です。先週もお話しました、自分の罪を悔い改めた人です。こういう人が新しい柔らかな心の人です。

パウロはこう言っています。
「しかし、この私には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:14~15)「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」(ガラテヤ6:15口語訳)

クリスチャンになってからも、自分の罪を悔い改めて、悔い改めて、自分に死んで、十字架のイエス・キリスト様がだんだん自分の心の中で大きくなって行くことです。これが新しい柔らかな皮袋の持ち主です。信仰から信仰へ、霊から霊へ、栄光から栄光へと日ごとに新しく造りかえられて行くことです。これが霊による新しい創造なのです。主の十字架の血潮と霊の力によって、日ごとに新しくされて行くことです。昨日の自分より今日の自分へと、信仰から信仰へと変えられて行くのです。これが新しい皮袋です。ですから、新しいぶどう酒は、必ず新しい皮袋に入れなければなりません。

ですからイエス様は、エルサレムで伝道を始めませんでした。ガリラヤ地方の片田舎から始めました。ユダヤ人の有力な指導者を弟子とはしませんでした。漁師や罪人と言われている人々を弟子として選んだのでした。その最たる人物が、このたとえの前にある取税人のレビでした。そしてこの罪人の家には行って、そこで飲み食いをして仲間になったのです。わたしが来たのは、丈夫な人でも立派な人でもない、世間から疎まれている罪人のところに来たのだ。

彼らこそ、新しいぶどう酒を入れるにふさわしい新しい皮袋だったのです。わたしたちもこの古い皮袋ではなく、新しい皮袋を探して罪人のところへ出かけましょう。イエス様があえて、取税人と言われ世間から疎まれている人の家に入って言ったように、一歩足を踏み出して罪人の友となりましょう。まだイエス様も福音も教会の知らない人々のところで出かけて行きましょう。そして新しいぶどう酒を、罪の赦しを与えるイエス様の福音を宣べ伝えようではありませんか。

皆さんは新しいぶどう酒の入った新しい皮袋ですから、発酵と熟成の時が必要かもしれません。おいしいぶどう酒は、一朝一夕にはできないし、時間がかかるでしょう。でもやがておいしい熟成したぶどう酒になることは間違いありません。主は、そういうわたしたちのような柔らかい皮袋の心を求めておられます。そしてまた罪の汚れで、悩み苦しんでいる心の持ち主を探しておられます。悔い改めた砕かれた魂を探しておられます。新しい心の皮袋をもって、新しい柔らかな砕かれた心の皮袋を探しましょう。    

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