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教会全体の益となるために (Ⅰコリント12:1~11)

メッセージ

2014年1月12日富里キリスト教会

「教会全体の益となるために」
(Ⅰコリント12:1~11)

1.聖霊による信仰告白

パウロはどうして、教会に次々といろんな問題が起こるのかということを考えてみました。そして、その原因としてコリント教会の信徒の方々は、教会の中に働く聖霊の働きについての正しい認識がなかったからではないだろうかということに気がつきました。そして、ここから教会に与えられている聖霊の働きについて語り始めています。12:1から読んでみます。

「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Ⅰコリント12:1~3)パウロはここで霊の賜物について、二つのことを言っております。一つは、信仰告白です。そしてもう一つは、霊の賜物としての様々な奉仕が述べられております。最初に、信仰告白の賜物について述べてみたいと思います。

私たちが信仰をいただいたということは、神様からのプレゼントだということです。この人は人がいいからとか、良い行いをしているとか、ご両親が熱心なクリスチャンだとかということではなく、聖霊がその人に働いて「イエスは主である」という告白をさせていただいたということです。つまり、神の霊である聖霊様の働きがなければ、誰も信仰を表すことは出来ません。もちろん、聖書の御言葉を通してイエス様の十字架の贖いを教えて下さるのも、聖霊様の働きなのです。ですから端的に申しますと、イエス様の十字架の贖いを、神様の言葉を通して、その人の心の中に届けて下さるのが、聖霊様の働きです。父、子、聖霊の三位一体の働きなのです。ですから、イエス様を信じている皆さんは、すでに聖霊を受け、聖霊によって信仰を言い表しているということを確認していただきたいと思います。

2.霊の賜物

次にパウロは、様々な霊の賜物について述べています。8節から読んでみましょう。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には“霊”を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。」(Ⅰコリント12:8~11)

ここに九つの霊の賜物が述べられています。「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言の力」「霊を見分ける力」「異言を語る力」「異言を解釈する力」と九つの霊の賜物があります。皆さん方は、この中のどれを自分は持っていると思いますか、あるいは自分が欲しい賜物はどれでしょうか。

A.「知恵の言葉」 B.「知識の言葉」

「知恵の言葉」と言いますのは、ある注解書によりますと、「隠されている神の奥義を神との霊的な交わりを通して知ることである」とありました。そして、「知識の言葉」とは、その神様との深い交わりから得た知恵を、実際の信仰生活の中で、どのようにして実践して行ったらよいかを教える力だとありました。私も遅ればせながら、今、スモールグループのテキストを作らせていただいておりますが、教会で皆さんに用いられているとことを感謝します。できれば、あのようなテキストを他にも造って下さる方が出ないかと願っております。そのためには「知恵の言葉」と「知識の言葉」の賜物を与えられる人が他にも起こらないかと願っております。

C.「信仰の賜物」

これは誰にでも与えられているものですが、ここで取り上げられているのは、特別な強い信仰の賜物ということです。まさに山をも動かすほどの信仰を持った人です。富里教会も、津田沼教会と中條先生の強い信仰によってここに教会が生み出されました。そして、更にわたしたちは、この北総地域に福音を隅々まで述べ伝え、バプテスト教会を建てて行くという信仰を受け継いでいます。そして、このバプテスト教会の空白地帯にバプテストの群れを起こして行くという強い、山をも動かす信仰を持ってもいいのではないでしょうか。たとえ実現不可能のように思えても、信仰があれば実現します。そして教会は、この見えない事実を信じる信仰によって立てられ、前進してきました。

D.「病気をいやす力」 E.「奇跡を行う力」

私たちは今まで、いろんな病気のために祈って来ました。全部が全部、いやされたわけではありませんが、本当に多くの方がいやされて来ました。数え上げればきりがないでしょう。病気の種類も様々です。でも大事なことは信仰だと思います。そして昨年は、いろんな奇跡を拝見させていただきました。今年もこの神様の奇蹟の御業を拝見したいと思います。そのためにも奇跡を行う力を持った人の祈りが必要です。これも賜物ですから、是非、遠慮なく、神様に奇跡を行う力を与えてくださいと祈りましょう。「求めよ、さらば与えられん」です。

D.「預言する力」

私はこの預言の力は、二つあるような気がします。一つは、私のように、神様の御言葉を取り次ぐ説教の賜物です。もう一つは、実際に将来起こるべきことをあらかじめ預言することです。(ある集会での預言が実際に起こった事件)また、パウロは、たくさんある霊の賜物の中で、この預言の賜物を熱心に求めて欲しいと言っています。(14:1~3)ぜひ、皆さんの中でも、預言の賜物が与えられるようにと願っていますし、また、皆さんも自分に預言の賜物を与えてくださいと熱心に祈り求めてください。そうすれば与えられます。

F.「霊を見分ける力」

私は今、この霊を見分ける力を祈り求めています。人間は体と心と霊とこの三層からできています。人の心を見分けることもなかなか難しいですが、その心のもっと奥にある、その人の霊を見分けることはもっと難しいと思います。でも私たちは神様の霊によって人を見ることができますから、きっとその人の持っている内なる霊も見分けさせてくださると思います。(2:15)

E.「異言を語る力」・F.「異言を解釈する力」

異言と言いますのは、英語ではタング(=舌)といいます。ラララ・・とか意味不明な言葉で祈るのです。ちょっと奇妙な感じがしますが、そんなに怖がる必要はありません。これも霊の賜物の一つなのです。最初に言いました通り、「イエスは主なり」という信仰告白がすでに、聖霊のバプテスマを受けているということを思い出してもらいたいです。(12:3)異言を語れなくてもいいのです。また、どうしても異言で祈る人は、誰か他に異言を解く人がいる時に祈りなさい。今この人は、どんなことを異言で祈っているのか、説明してもらいなさい。そうでないと初めての人がびっくりしてしまうので、異言で祈る人は、みんなの前では黙っていなさいとパウロはくぎを刺しています。(14:27~28)

3.教会全体の益となるように

このように、神様は教会に信仰の賜物以外に、様々な霊の賜物が与えられております。これらの九つの霊の賜物は、クリスチャンにとって基本的な賜物です。他にも様々な賜物があります。皆さんは、どれを与えてほしいですか。イエス様も言いました。「求めなさい、そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と。またソロモン王が王位についた時、神様がソロモンにこう言いました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」(列王上3:5)と。するとソロモンは、「善悪を判断することができる、聞き分ける心を与えてください。」と答えました。彼は、自分の長寿やお金や軍隊など、この世のものではなく神様の霊的な賜物を求めたので祝福されました。

神様は私たちに、これらの霊の賜物を与えようとされているのです。私たちがこの霊の賜物を求めることを喜んでいるのです。「あの人よりもうまくピアノが弾けるようにして下さい。」とか、「あの人よりも多くの人を伝道できるようにして下さい。」というのではなりません。霊的な賜物です。神様に仕え、兄弟姉妹に仕えて行くための賜物なのです。これを求めて欲しいのです。「いや私には畏れ多いことです。」とか、「何でもけっこうです。」というのは、逆に神様を侮っていることになります。どうせ自分にはもらえないとか、もらってもそれを用いるのが大変だから程々にしていようという態度は神様に喜ばれません。

そして最後に、今朝皆さんに訴えたいのは、これらの霊の賜物はたくさんありますが、起源は一つだということです。12:4から読んでみます。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。勤めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(12:4~7)

ここに、いろんな賜物を与えるのは、同じ一つの霊であり、いろんな務めを与えるのも同じ一人の主です。そしていろんな働きを与えるのも、同じ一人の神です。このように、霊なる神、主なる神、父なる神が一体となっていろんな賜物、勤め、働きをする賜物を与えてくださっているのです。父と子と聖霊様が一つであるように、いろんな賜物(gift)や務め(service)や働き(work)があっても、もとは一つの主なる神から出ているのです。

ですから、このさまざまの賜物が目指すところは、一人の主のためであり、この方の賜物を通して私たちが一致して行くことなのです。聖霊様は一つの霊ですから、いろんな働きや賜物があっても一つになるために用いられるのです。「一人一人の霊の賜物の働きが現れるのは、教会全体のためである。」と言っています。教会全体のプラスにならなければ、どんな奉仕も働きも意味がないということです。三位一体の神様は、神様が三人いても一体であるように、私たちもたくさんのメンバーがいても、一つになるためにいろんな賜物が与えられているのです。ですから、知恵も知識も信仰も癒しも預言も異言も、教会全体の益、教会全体のプラスのためにあるのだということです。   (岡田 久)

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