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救い主の誕生 (ルカ2:8~20)

メッセージ

2013年12月22日富里キリスト教会

「救い主の誕生」
(ルカによる福音書2:8~20)

今朝は、この御使いが語った12節の言葉、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」という言葉の中に疑問点を見つけ、そこから神様の恵みを発見して行きたいと願っています。

1.布にくるまって

まず最初に、ルカは、「乳飲み子が布に包まれている」と書きました。普通は、赤ちゃんは柔らかい産着に包まれているものです。聖書がわざわざ「布にくるまって」と書いていることは、何かを読者に気付かせようとしているのではないでしょうか。つまり、この布と言いますのは、当時このパレスチナ地方では、人が死んだ時に、その遺体を布でぐるぐる巻きにして埋葬するという習慣がありました。ですから、「布にくるまって」とわざわざ書き記しているということは、この赤ちゃんが最初から「死」を身におびていたということになります。産まれるそうそう縁起でもない話ですが、この乳飲み子は、生まれた時から死ぬことを背負わされていたのです。

つまり、御子は、自分が全世界の罪のために十字架に架かって死を経験しなければならないという定めを背負って世に生まれたということではないでしょうか。マリヤとヨセフは、生まれてから41日目に聖めの期間が明けて、長男イエスを神様に献げるために神殿に行きました。するとその時、シメオンという老人が、この親子に出会ってこう預言しました。「この子はイスラエルの多くの人の反対を受け、お母さんのマリヤも自分の心が剣で刺されるような悲しい思いを経験します。」(ルカ2:34~35)と。イエス様は、生まれた時からすでに、十字架での死を予告されていたのです。

それは、この世の罪のために、ご自分が、その贖いのいけにえとして十字架に架かって死ななければならないということです。御子は私たちの罪を贖うためにこの世に来て下さり、十字架の上での苦しみと流されたご自分の血潮をもって、贖いの業を成し遂げてくださいました。「父なる神様は、私たちの罪の贖いの供え物として、御子をこの世に遣わして下さったのです。」(Ⅰヨハネ4:
10)これが救い主が、肉を取ってこの世に来て下さったことの本当の目的でした。これが、ルカがわざわざ「布にくるまって」と書いたことの意味ではないでしょうか。

2.飼い葉桶の中に寝ている

次に、不思議なことは「飼い葉桶」という言葉です。なぜ、わざわざ飼い葉桶の中に、乳飲み子を置いたのでしょうか。そこまで詳しく書き残さなくても良かったのではないでしょうか。ここの個所は、簡単に「マリヤはベツレヘムの馬小屋で赤子を産んだ。」と書いても良かったのではないでしょうか。しかも、神の御独り子で救い主であるお方です。馬小屋までは良いとしても、わざわざ飼い葉桶まで書かなくてもと思います。神の子でありメシアなるお方の、品位を貶めるようなものです。

皆さんもご存じの通り、飼い葉桶は家畜の餌を入れる桶です。牛や馬の唾液がついていたり、えさの食べかすが残っています。(新しい飼い葉桶だったという方があるかもしれませんが…。)そんな不衛生な、汚れているところに、わざわざ新生児を置く親がいるでしょうか。不潔な場所です。細菌やダニやシラミが、ウジャウジャしているかもしれません。「飼い葉桶の中に」新生児を寝かせたと、わざわざルカが書き記しているのは何故でしょうか。

先ほど、この子は既に生まれながらにして、わたしたちの罪の身代わりのいけにえとして献げられる方であると言いました。つまり、罪の贖いと赦しと聖めのために、罪のない神の御独り子が、この世に生を受けて下さったのです。もし、そうであるならば、御子が肉を取ってこの世に来られたのは、きれいなゆりかごの中ではなく、汚れた飼い葉桶のような人間の心に来て下さったということにならないでしょうか。

罪に汚れ、闇の中に生きて、悩み苦しんでいる人々の心の中を、ご自分の宿りたもう場所として定めて下さったということではないでしょうか。これが「飼い葉桶の中に置かれた。」ということの意味ではないかと思います。逆に言いますと、自分で心がきれいだ、自分は正しいと考えている人のところには入って行かないのです。衛生的なきれいな病院の新生児室とか、宮殿の柔らかな布団の上にはイエス様は置かれませんでした。救い主は、自分の罪に悩み、苦しみ、この罪の汚れから自分を救って欲しいと切に願っている人のところに来て下さったのです。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)と。正しい人にはクリスマスの本当の意味は解りません。罪人だけが、このクリスマスの本当の意味と喜びを感じるのです。

3.乳飲み子

三番目に、「あなたがたは、乳飲み子を見つけるであろう。」とあります。この汚れた飼い葉桶の中に横たわっているのは、まぎれもなく今生まれたばかりの赤ん坊です。かわいい、無垢な、そしてつやつや光っている赤ちゃんです。そこには、新しい命の息吹があります。新生の喜びがあります。希望があり、命に輝いています。

私たちの罪に汚れた心の中に、この救い主をお迎えする時、その汚れていた私たちの心が聖められ、輝きに満ちあふれます。汚れて臭いにおいがプンプンしていた心が、すっかりきれいにされるのです。つまり、イエス・キリストがわたしたちの罪汚れを聖めてくださるだけではなく、私たちに新しい命を与えてくださり、新しい人生の再出発へと甦らせて下さるのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)とあります。

乳飲み子とは、新しい命の誕生です。このお方を心の中にお迎えするならば、誰でも新しく造り変えられるのです。新しく生まれ変わることができるのです。今までの罪の責めから解放されて、無罪放免とされ、新しい人生を歩むことができるのです。これは人間の努力や力ではなく、ただ一方的に神様から与えられたプレゼントなのです。私たちは、この神様からの無償のプレゼントを、ただ受け取るだけでいいのです。信じるだけでいいのです。無条件で神の子とされ、永遠の命を受けるのです。ですから、クリスマスは喜びなのです。「大きな喜び」の知らせなのです。

きれいな心になってからいただこうと思う必要はありません。もっと、人間的に成長してからとか、もっと聖書について勉強して解ってからという必要はありません。大事なことは、今日、この場で、わたしはこのきたない汚れた飼い葉桶のような人間です。でも自分ではこの罪や汚れを、どうすることもできませんと告白して、イエス様を心の中に迎え入れるだけでいいのです。そうすれば、イエス様の血が私たちの罪をことごとく聖めて下さり、新しく生きるようにして下さるのです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです。それは、あなたがた御自身から出たのではなく、神の賜物だからです。」(エフェソ2:8)これは神様からの一方的な、無償の賜物なのです。このお方を私たちは、ただ感謝をもって受け取るだけでいいのです。汚れた心のままでいいのです。あるがままで、罪に汚れたままでいいのです。この恵みのプレゼントは神様からのものです。これが本当の意味でのクリスマスのプレゼントなのです。クリスマスの本当の意味なのです。

4.あなたがたは(飼い葉桶の救い主を)見つけるであろう。

最後に、たったこの短い「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」という言葉の中に、神様の大きな救いのメッセージが隠されているのです。そして、最初に言ったように、私たちはそのメッセージを見つけ出さなくてはなりません。野原で数名の羊飼いが、羊の群れの番をしていましたが、彼らに向かって天使が語りかけました。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10~12)と。

羊飼いたちはこのお告げを聞いて、すぐにベツレヘムの町へ行って、飼い葉桶の中の幼子を探そうとしました。真夜中にもかかわらず、彼らはお互いに天使のお告げについて語り合い、話し合い、急いで村まで行って御子を探しました。皆さんでしたらどうするでしょうか。「眠いなあ。」とか「今は夜で寒いから、明日の朝行こう。」と考えるでしょうか。「天使なんか信じない。」というでしょうか。

実は、この羊飼いの仲間と交わりと話し合いと言いますのは、スモールグループとか教会学校の成人科に置き換えてもいいのではないでしょうか。羊飼いのように、気の知れた仲間が数人集まって、天使の語った御言葉について、聖書を調べたり、聖書について話し合ったりすることです。そして、お互いに励まし合って、この御言葉の出来事を見つけようとすることです。飼い葉桶のイエス様、私たちの罪のために、身代わりになって十字架に架かってくださったお方を、聖書を調べたり学んだりしながら共に発見することです。

そして、その方を発見したら、町中の人々にそのことを知らせて歩くのです。これは伝道です。成田の人々に、八街の人々に、佐倉の人々に、「救い主がお生まれになりましたよう~。」と町の人々にその事実をふれ回ることです。これは、その町、その地域、その団地、そのマンションでの証と伝道ということです。町の人もマリヤでさえも、羊飼いの話を聞いて不思議に思っていました。それでもいいのです。にわかには信じられません。

羊飼いたちだけが、意気揚々と救い主の誕生を人々に告げ知らせて、賛美しながら帰って行きました。これは羊たちが待っている野原に帰って行ったとも考えられますが、彼らは、まぎれもなく彼らが帰るべきところ、天国へと帰って行ったとも考えていいのではないでしょうか。羊飼いたちの生涯は、この良き知らせ、救い主の到来と御子の十字架による神様の救いの御業を宣べ伝えることでした。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら(天国へと)帰って行った」(2:20)のであります。

クリスマスは、まさに神が肉を取ってこの世に来て下さり、私たちの罪を贖い、私たちに救いの道を示して下さった喜びの日なのであります。そして御子は、昨日も今日も永遠に私たち共にいて下さるお方です。インマヌエルの神様です。この救い主なる、我らの主イエス・キリストの御名を感謝し、心から賛美いたしましょう。                        (岡田久)

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