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救いは主にこそある (ヨナ2:1~11)

メッセージ

2012年11月4日富里キリスト教会
「救いは主にこそある」
(ヨナ書2:1~11)

1.神の選び(逃げるヨナと追い詰める神)

世界祈祷週間に合わせまして、今月は、預言書に入りますが、特に伝道的な物語でありますヨナ書が取り上げられています。ヨナはヘブライ人で、天地万物を御支配しておられる神を畏れる者でした。しかし、主の言葉がヨナに臨んで、「あのアッシリアの首都ニネベに行って伝道し、彼らの罪を責め、悔い改めに導きなさい。」と命じました。ところがこの神の伝道者としての召しの言葉を聞いたヨナは、神の前から逃げ出しました。

神様の手を逃れて逃げて行くヨナの生き方が、どんな生き方か記されています。それは地獄へ下る最悪の生き方でした。3節に「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」とあります。そして、「ヤッフォに下り、・・・人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とあります。そして5節には「ヨナは船底に降りて横になり、」とあります。ヤッフォに下り、船に乗り、船底に潜り込みました。こうしてどんどんヨナは、自分では逃げているつもりですけれど、どんどんと下へ下へと降って行っているのが見えます。神の御言葉に逆らうことは、一見安全な道のように見えても、それは地獄へ下るの道以外の何物でもありませんでした。

しかし、主の手は彼を決して逃がしませんでした。どこまでも追いかけて行き、行く手を阻み、彼がにっちもさっちも行くことができないようにして追い詰めて行ったのです。まず船に向かって嵐を起こし、逃げ道をふさぎました。すると、この嵐はだれのせいで起こったのかということになり、くじをひいたところヨナにあたってしまいました。船員が、ヨナに問い詰めたところ、ヨナは主の命令に背を向けて、逃げている者であるということを白状します。そして、船乗りたちは、神の怒りを鎮めるために、しかたなく、ヨナを捕えて荒れ狂う海の中に放り込んでしまいました。

この時点で、彼はもはや一巻の終わりです。ヨナは、海藻が体に絡みつくのを覚えながら、海の中にブクブクと沈み、海底に向かって落ちてゆきました。そこはまさに海の深淵であり、地獄の底のような死の世界です。それでもヨナは、神の御命令に従ってあのニネベに行くよりは、死んだ方がましだと思ったかもしれません。

このようにして、神様は、宣教の器として選ばれた者は、たとえ彼がその使命を拒否しても、どこまでも追いかけて行きます。そして、その逃げ道をふさぎます。そしてどうするかと言いますと、その人を追い詰めるのです。つまり、もう逃げ道が無くなって、死を目の前にし、もうだめだこれ以上逃げきれないということまで追い詰めるのです。真の選びは、神様の目的のために、神がその人を必要としておられるということです。そして、患難を通して信仰を磨いてくださるということです。ですから、今、試練の中にある人は、「わたしは、神様の選びにあずかっている」 と考えてもいいのではないでしょうか。

2.悔い改めの祈り(滅びの穴からの叫び)

ヨナは、とことん地獄の死の淵まで落ちて行きました。その時の彼の心境を述べたのが、今日の聖書箇所である第二章です。人間は、とことん落ちるところまで、落ちて行かないと、神様、助けてくださいと叫ばないかもしれません。3節「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。」8節「息絶えようとする時、わたしは主の御名を唱えた。」とあります。苦しみのどん底の中で、陰府の中から、地獄の中から、そして、今まさに息絶えて絶命しようとするその瞬間に、初めて、「神様!助けてください。」とヨナは叫んだのです。一章を見てみますと、ヨナが神に祈ったという言葉、神に助けを求めて叫んだという言葉は、どこにも書かれてありません。神に背を向けている限り、心底、神に祈り求めるということをおろそかにしていたのではないでしょうか。

8節の「息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。」とあります。彼は主を畏れ信じている者でしたが、一生の最後の最後に、今まさに人生が閉じようとするその瞬間に、やっと「神様!」と声をあげたのです。本来ならば、今さら叫んでも祈っても手遅れだと言われても仕方がないような男です。神様は、背を向けて逃げ回っていた者の祈りを聞くでしょうか。しかし、その後に「わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。」とあります。どんな自分勝手な、自分中心の祈りでありましても、私たちが「神様!助けてください。」と叫び祈るならば、その祈りは必ず聞き届けられます。

なぜか、それは、あの十字架のイエス様が、私たちと同じように罪の肉の姿を取り、まさに息絶えようとする瞬間に、「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか。」と言ったあの主の言葉のゆえです。御子は、父のもとを離れ、いや父から見捨てられて、私たちのところまで来て下さったのです。このイエス様を通して、私たちの自分勝手な祈りでも、このイエス様の十字架のゆえに、天の神様の御許に届くのです。

私たちは、この主の前でただ自分を明け渡して、主に降参する、主を受け入れるだけでいいのです。それが、信仰です。この8節の「息絶えようとする時、わたしは主の御名を唱えた。」という言葉です。ヨナはこの試練と苦しみとどん底の中で、罪を悔い改めて、主に従う決心をしました。彼は悔い改めたのです。悔い改めとは、人生の方向転換をすることです。方向転換とは、まず神に向くという所から始まります。それが祈りであり、叫び声なのです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。だれも誇ることがないためなのである。私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」(エフェソ2:8)こうしてヨナは、神様の大きな愛によって命救われました。それは同時に、神様のこの愛の宣教者として、神様の目的のために用いられるものとなるのです。

3.献身(神への従順)

この時、主は強大な魚に命じてヨナを飲み込ませられました。そして三日三晩、ヨナはこの大魚の中にいました。海の底で、もがき苦しむ人間を、この魚は一気に飲み込み、自分の腹の中に入れました。幸いそこは、空気もあり生きるだけの環境があったようです。そこで、ヨナは、一人静かに、静まってこの二章の祈りを捧げました。この三日間というのは、イエス様が復活するまで三日間墓の中におられたように、ヨナが復活して新しい使命に生きるために必要な準備の時間でした。ある人はこの三日間は、神学校に入って準備をする三年間のことだとも言いました。

ヨナは9~10節で、こう祈っています。「偽りの神々に従う者たちが、忠誠を捨て去ろうとも、わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」この最後の言葉、「救いは主にこそある」
(今日の宣教題ですが・・。)という告白が、ヨナの新しく生まれ変わった心境を表しているような気がします。

今までは、ヨナは、救いは自分が手に入れるものであり、自分の行い自分の成果によって救われると考えていました。ですから、敵国ニネベの人などどうでも良かったのです。いや、彼らこそ神から離れ、神に敵対している民として、真っ先に滅ぼされなければならない人々でした。しかし、滅びるべきは彼らではなく自分であるということに気がついた彼は、自分が彼らを救うのではない、神様こそが真の救い主であり、わたしが救うのではなく、神様が救うのであるという確信に至ったのです。主が救われる、主が戦われる、主が勝利される、これこそヨナがあの死の淵で教えられた信仰の基本でした。

「救いは主にある。わたしが救うのではない。」そう祈った時、主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させました。ヨナの人生の方角は、180度転換しました。タルシシュではなく、その反対のニネベに向かったのです。さあ、いよいよあのニネベに伝道に行くのです。それは次週のお話です。    (岡田 久)

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