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救いの衣 (創世記3:20~24)

メッセージ
2017年7月30日富里キリスト教会

「救いの衣」
(創世記3:20~24)

1.エバ(命)と名付ける

「アダムは女をエバ、(命)と名付けた。彼女が全て命ある者の母となったからである。」(3:20)とあります。アダムという名前の元の意味は何かと言いますと、「土」となっています。男の名前が「土」由来で、女の名前が「命」由来だと言うことです。男性から見ると少し、不本意な思いを持つかもしれません。「何で男が土で、女は命なのか。」と思うでしょう。しかも罪を犯した最初の原因は、男ではなく女であるエバの弱さから来ています。御言葉をしっかり覚えない、うる覚えの女が、蛇の誘惑に負けて最初に罪を犯してしまったのです。

ここでは、アダムが女に名前を付けました。名前を付けると言うことは、名付ける人が相手の人を良く理解し、権威をもって責任を持って養育するという意味があります。名付け親であるアダムは、女に対しての権威と責任を持っていると言っても過言ではありません。おそらく、罪を犯してしまった結果として、死ぬという運命を背負わされてしまった人間が抱いた希望は、やはり生きることではなかったでしょうか。以前のようにエデンの園で神と共に、永遠に生きていたいという願いを持っていたのではないでしょうか。そのような思いが、女に対して「命」=エバという名前となったのではないかと思います。

実際、イスラエルの歴史を見ても、立場の弱い女性たちの信仰を通して、イスラエルの有名な指導者が沢山排出されています。多くの信仰の母の涙によって、偉大なイスラエルの指導者が排出されてきました。つまりこれがどういうことを意味するのかと言いますと、これから始まりますイスラエルの歴史、そしてキリスト教の歴史も、一人の名もない立場の弱い女性の信仰によって、受け継がれてゆくということです。

3:15にありますように、「お前の子孫と女の子孫との間に敵を置く」と預言されています。サタンに打ち勝つのは、男の子孫ではなく女の子孫であるとはっきりと預言されています。この女の子孫で思いつくのは、やはりイエス・キリストの母であるマリヤです。彼女の信仰によってキリストが生まれました。このマリヤの子孫であるイエス・キリストがサタンに勝利して、十字架の上で悪魔の頭を打ち砕きました。神の力は、罪深い一人の弱い女を通して力強く働くのです。

女が男よりも弱いからこそ、女が男よりも罪深いからこそ、そこに神の奇蹟的な力が働くのではないでしょうか。ですから、アダムはあえてこの弱い女に対して「命」という、一番大切なものを与えたのではないかと思います。実際、どこの教会も女性が多いです。たくさんのエバがいます。それは彼らが、男よりも弱い存在だからです。ですから、主の救いを求めるのです。そしてその弱いところに、罪深い所に、神様の大きな力と恵みが注がれるのではないでしょうか。そしてその女性の働きを男が喜び、その働きをほめたたえるところに、神の栄光が現われて来るような気がします。

パウロも言っています。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9~10)と。自分の弱さ、自分の罪深さを誇るものにこそ、神の力と恵みが注がれ、命あふれる者となって行くのです。そのことをこのエバという名前が示しているような気がします。

2.アダムの罪を覆う皮の衣

次に、「主なる神はアダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3:21)とあります。「皮の衣」についてみてみましょう。最初、人間は罪を犯してしまった時に、とっさに自分たちの腰をいちじくの葉っぱで覆い隠しました。しかし、この葉っぱの着物は、自分たちの裸を隠すためには不十分です。そこで、主なる神は二人のために、より立派な動物の毛皮で作られた衣を作ってあげました。毛皮ですから、裸もすっかり隠れます。温かいです。長持ちします。この皮でできた衣を着せてあげたうえで、二人をエデンの園から追放しました。

待っているのは、苦労ときつい仕事の世界です。しかし、神が作ってくれた衣ならば、どんなに世間の風が冷たくても、守ってくれるのではないでしょうか。21節に「アダムと女」とあります。どうして「アダムとエバ」という固有名詞を書かなかったのでしょうか。これはおそらく、二人だけのために作ってくれた皮の衣ではなく、罪を犯してしまった全ての人のために、神は皮の衣を作って下さったと言うことを意味しています。

つまり、皮の衣を作るためには、その皮を提供する動物が必要です。どの種類の動物かは書いておりませんが、どんな動物でも、自分の皮を与えるためにはその命を献げ、血を流さなければ作ることはできません。ヘブライ書9:22には、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない。」という御言葉があります。誰かがその人の罪を贖い、償うためにはその人の命ともいうべき血の代償が必要なのです。ですからこの皮の衣と言いますのは、人間の罪の許しを与えることのできる皮の衣なのです。あのイエス・キリストの十字架の贖いの血を意味しているのです。そしてイエス御自身が、義の衣、救いの衣(イザヤ61:10)、罪のない白い衣(黙示録3:18)となってわたしたちの罪を覆い隠して下さるのです。

旧約聖書の中でも、アベルは動物のいけにえをささげて神に喜ばれました。(創世記4:4)子羊の血を流すことは、自分の罪の贖いの祭壇であることを意味しています。アベルの供え物には、罪の告白の祈りがあったのです。一方カインは、穀物だけを捧げました。神はカインの供え物ではなく、弟アベルの供え物の方を選ばれました。血が流され、罪の悔い改めの祈りを主は受け入れたのです。また、同じように、ヤコブは自分の手に皮の衣をつけて兄に変装して、父イサクの目を欺いて神の祝福を全部奪い取ってしまいました。(創世記27:16)

つまり、皮の衣の下は、罪の体であっても、わたしたちがその罪の体をキリストの救いの衣である義の衣で覆い隠すならば、たとえどんな極悪人でも、神はその人の罪を赦して再び神の祝福のもとに置いて下さると言うことです。この皮の衣は、罪深いわたしたちに対する神の赦しと祝福を表しています。ですからパウロもこう言っています。「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、イエス・キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:27)このイエス・キリストの十字架に示された神の愛にこそ真理があるのです。ですから「皮の衣」は、自分の罪深さを認めて、主の前にへり下る者に与えられる神の恵みを表しています。

3.命の木に至る道

三番目に「道」についてみてみましょう。23節から読んでみます。「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(3:23~24)

人間は、園の中央にある善悪を知る木の実を食べてしまい、善悪を判断できるようになりました。そして、もう一本の命の木からも取って食べると、完全に神になってしまいます。そこで、それを恐れた神は人間を園から追い出して、命の木に近づけないようにされました。エデンの園を追い出した神は、人間にエデンの東側の土地を耕して生活をするようにされました。ですから現代人と言いますが、人間の一番求めているものは、この命の木の実を手に入れることなのです。

しかし、主なる神は、人間が命の木の実を食べてしまわないように、エデンの園の東の入り口にケルビムを置いて、侵入を阻止しました。ケルビムと言いますのは、神の御臨在を示して、罪深い人間が聖なる神に近づくことのないように守っている天使と言っていいでしょう。手には炎の剣をもって、誰もエデンの園に入らないように今も見守っています。ですから、人間の側から神に近づく道はもはや断たれているのです。誰も命の木に至る道に進むことができないのです。以来、人間と科学の最大の関心は、命を手に入れることになりました。

でも、この永遠の命に至る道が一つだけ存在します。それは人間が自分で手に入れる道ではなく、自分の側から神に近づく道ではなく、神様の方から、人間の側に向けて造って下さった道があるのです。それが、神の御独り子イエス・キリストによって示された道です。神様の側からの道です。エデンの園の方から、この世、すなわちエデンの東であるこの世界に差し向けられた道なのです。

この道をたどって行くならば、誰でもエデンの園に戻ることができます。もう一度あの楽園に戻ることができるのです。ですからイエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。誰もわたしを通らなくては父のもとに行くことはできない。」とおっしゃったのです。そしてその道は、イエス・キリストがわたしのために十字架にかかって下さったという、十字架を通って行く道です。十字架というつまづきがあります。つまり罪の悔い改めという道です。

人間の努力や勉強や善行や道徳を積めば、入って行けるという道ではありません。人間の行いや努力によって手に入れることのできる道ではないのです。裸の自分、罪を犯してしまった自分、恥を持った自分、欠点や不十分さを持った自分と言うことを素直に認めて、ただ主の十字架を仰ぎ見る者だけが入れる道なのです。この命であり真理であり道である唯一のお方、イエス・キリスト様を受け入れる者だけが入れる道なのです。

一人のお金持ちの青年が、イエス様のもとに来て、「先生、どんな良いことをしたら永遠の命を手に入れることができるのでしょうか。」と尋ねたことがありました。すると主イエスは「あなたの財産を売り払い、人々に施してからわたしに従いなさい。」と言いました。すると、彼はガッカリして主のもとを立ち去って行きました。たくさんの財産を持っていたからです。(マタイ19:16~23)このことは何を教えているのかと言いますと、イエス様は、お金を捨てることも施すこともできない欲張りな自分ですと、自分の弱さや罪を素直に認めることを望んだのです。財産を捨てることができない自分、自分を捨てることができない自分、自分中心の自分、そういう自分だと言うことを素直に認める所に開かれる道なのです。自分では自分を救うことができない、ただ主の憐みにすがるほかないと言うことを知る道なのです。

道であり、真理であり命であるこのイエス・キリストは、わたしたちのところまで、神のもとを離れて来て下さいました。御自分の血を流し、十字架の上でわたしたちの罪の身代わりになって神の罰を受けて下さいました。そのことによってアダムの子孫であり罪人のわたしたちに、罪の赦しと永遠の命を与えて下さったのです。天国への道を示し、あの故郷エデンの園へ帰る道となって下さったのです。罪人のわたしたちに救いの衣を着せ、永遠の命に至る道を開いて下さいました。

このようにして、このエデンの園からの追放という悲しい出来事の中にも、主なる神様はすでにわたしたちのために救いの道、真理の道、命の道であるイエス・キリストの救いをあらかじめ備えていて下さっていたのです。それがこの皮の衣です。イエス・キリストの衣です。きれいな人は着る必要がありません。罪人アダムの着る着物です。信仰が弱く、罪を犯した張本人エバの切る皮の衣です。先週は一人の姉妹が、バプテスマを受けられてこの皮の救いの衣を着ることができました。たとえ衣の下は罪で汚れ、汚くてもいいのです。いやむしろそういう人こそが、この皮の衣を着る価値のある人間です。あるがままの自分で、主の前に出てこの命の衣を着せてもらいましょう。

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