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我らの国籍は天にあり (フィリピ3:20~4:1)

メッセージ
20021/6/13
富里キリスト教会礼拝説教
召天者記念「我らの国籍は天にあり」
(フィリピ書3:20〜4:1)

①我らの国籍は天にあり

フィリピ3:20
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

 私たちの本国は天にある。この言葉が今日のメッセージの中心となるわけですが、本国と言われても少しピンとこない人もおられるかもしれません。この本国という言葉はかつては国籍と訳され、今もその訳を採用している聖書もありますが、私自身はそちらの方がなじみもあるせいかどこかしっくりきます。「我らの国籍は天にあり。」このように声に出して宣言するとどこか心が感動で震えてくるような自分を感じずにはいられませんし、私だけじゃなく多くのクリスチャンが同じ思いを共有する、そういった言葉であると思います。
 通常、あなたの国籍はどこですか?あなたはどこに帰属していますか?と言われたらみなさんはどう答えるでしょうか。私たちの教会には様々な国の人がいます。日本と答える人もいればモンゴル、スリランカ、台湾、ガーナなど様々国の名前が挙がってくるかもしれません。国の数だけ国籍があるわけですからそれが普通ですよね。しかし、それと共に私たちはそれぞれ違ったこの地上の国籍だけでなく、天という一つの共通した国籍をもっている神の家族です。それが教会の群なのです。聖書は

エフェソ2:19
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」

と語っています。その神の家族である教会の共通点はただ一つ、イエス・キリストであります。教会とは本当にいろんな背景を持った人たちが集まっている群れです。共通点を探す方が難しいかもしれません。年齢、性別、民族、職業、教会に来た理由。本当に様々で、多種多様な人たちの集まりが教会だといってもいいかもしれません。しかし先程も言ったようにそれだけちがう背景にある人たちがたった一点イエス・キリストへの信仰のみによって私たちは集まり、互いを家族だと呼び合うのです。
召天者記念礼拝とは、ノンクリスチャンの方からすると、仏教でいう法事のようなものと捉えている方がいるそうですが、普通法事とは、家族がするものですよね。何故他人の教会の人たちがこんなことをするのか。それは、私たちが創造主なる神様という方を同じ父として、同じ天の国という場所に帰属している神の家族だからなのです。
更に言えば、法事というものは先祖の供養という性質を持つものですが、私たちの召天者記念礼拝に供養という性質はありません。なぜなら、召天者はすでに神のもとに帰り、平安に過ごされているからです。私たちは神の家族でありながらこの地上を一緒に旅する旅人仲間でもあるのです。そして、この旅人たちはいつか、順番に天の故郷へと帰っていく備えへと入っていくのです。
私たちにとってこの地上での死というものは、すべての終わりを意味しません。あくまでこの地上においては一時的に眠っているのです。そしていつか、皆が蘇り再会を果たす。そういった希望の中、人を供養するのではなく死から救い出してくださる神さまを礼拝するのです。
聖書は、イエス・キリストを救い主であると信じて告白し、その主イエスに従って生きた者には永遠の命が与えられ、死んでも生きると明確に約束をされています。イエス様は十字架にかかり死なれ、復活されたのち、そのまま天に上られていきました。そしてその時、そばにいた天使は「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と語られました。
イエス様はいつか再びこの地上に来られるのです。そしてそのときこそ、すでに地上において死を迎え、眠っていたものが皆すべて蘇るのだと聖書は語っています。

Ⅰテサロニケ4:16−17
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

私たちはこの希望の只中に生きているのです。死の先に復活が待っているのです。この希望は生きるにしても死ぬにしても大きな励ましと慰めを私たちに与えてくれます。生きる中でその人生がどれほど苦しいものだったとしても、その先にある永遠の希望はその人をとても励まし、また、大切な人との死別に悲しむ者にとって、またいつか天の故郷においての再会を果たすときがくるという希望はその人の心を限りなく慰めてくれるのです。

②救いの完成
その希望の時とは、どのようになされるでしょうか。その希望はまず、イエス様が再びこの地上に来られる、再臨の時から始まります。そしてその時、私たちの体は主イエスの大能の力によってたちまち一瞬のうちに復活し朽ちない体へと変えられると聖書には書かれています(Ⅰコリント15:52)。本来、私たちの体とは、いずれ朽ち果てる有限な体です。これを聖書では卑しい体と表現しています。しかし、この復活の時私たちの体はこの卑しい体はイエス様と同じような朽ちない体へと変えられ、罪と死から完全に解放されてイエス様に似た者へとされるのです。これを栄化といいます。そしてその決して朽ちない栄光の体で、神様と共に永遠に天国で生きることになります。これが救いの完成です。
その世界とは、苦しみも悲しみも全くない、本当に喜びと平安に満ちた世界です。神様が私たちの悲しみや苦しみの涙を全て拭い去ってくださっているのです。その世界とはこのようなものだとヨハネ黙示録21:3―4で語られています。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

これが私たちに約束されている、帰るべき故郷、約束された天の国です。私たちの国籍はこの天にあるのです。そして、この地上での生涯を終えたこの召天者の方々は今や、その救いの完成という希望を胸に安らかに眠っておられるのです。地上においての労苦から解放され、希望を待ち望みゆっくりと休まれているのです。

③召天者たちからのメッセージ
「我らの国籍は天にあり」パウロという人物は、この真理を牢獄に囚われている中で、フィリピ教会に向けて書き送りました。この手紙の中で彼は、この獄中にいる自分を見習ってほしいと語っています。そこだけ切り取って聞くとパウロという男はずいぶんと自信家で偉そうなやつだなとお思いになるかもしれませんが、これは彼自身が完全にされているから模範として見習えと言っているのではありません。パウロが言っているのは彼自身の生き方、歩み方、戦い方を指しています。それは、キリストの希望を喜ぶ生き方です。
牢獄の中という、人生のどん底にいるようなときでもパウロは全く動じません。このフィリピ書とは喜びの書とも言われています。彼は牢獄の中で主の希望への喜びを心から表していたのです。たとえ人生が不遇であったとしても、彼はその先にある天の国の約束をずっと見ていたからです。天国を夢見つつ、牢獄にいた。これはむしろ、牢獄の中にいながらもパウロはすでに主イエスと共に天の中にいたともいえるのではないでしょうか。自分の行き先は天にあるということを覚えたとき、彼の心はまさにパラダイスにいるような平安がそこにはあったのだと思うのです。
パウロという人物はこの希望を胸に留め、ひたすらイエス様を追いかけていきました。このピリピ書の中でも
3:13−14
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

と語っています。本当にパウロの人生はキリストを追いかけ、駆け抜けた人生でした。実際、彼は晩年、我が子のように愛するテモテという人物に手紙で

Ⅱテモテ4:7−8
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

と、自分の人生を振り返ります。まるでどこか遺言のようですね。実際そのような思いもあったと思います。彼の先ほどの言葉は、このあとこのように続いていきます。

「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」

だからあなたもそのように生きてほしいのだ、と。義の栄冠を受け取ってほしいのだ、と。その義の栄冠とはまさに、神と愛する神の家族と共に生き続ける、永遠の命そのものであります。そして、この召天者の方々もパウロと同じく信仰をもってキリストを追いかけ、駆け抜けた人生を送られました。このパウロの言葉を、この召天者の方々がその駆け抜けた人生を通しても語っておられるような気がするのです。
この召天者の方々の信仰者として生き抜かれた人生を見て、私たちはこの方々に倣って、今あらためてキリストと共に生きる決意をする。それこそがこの召天者記念礼拝の大切な意味です。今日のこの日は死者の供養ではなく、今生きているものが召天者を見て、改めて我らの国籍は天にありと確信し、その天を見上げて生きていくことを決意する日なのです。
それがこの召天者の方々の本望なのです。そして、この地に残された全てのご家族にも天に国籍をもってほしいと願われています。故郷に共に帰りたいのだ。また、お前たちと会いたいのだ。これもまた召天者の方々の本望でしょう。そして天に国籍をもつことによってこそ、まさに今、目の前の人生が変わっていくのだ。そのように言われたいのではないでしょうか。何よりこの思いは神様ご自身が全ての人間に対して思われていることであります。神様は全てのものが救われて、永遠の命にあずかってほしいと願われているのです。

Ⅰテモテ2:4
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」

私たちの国籍はこの地上ではなく天にあります。その希望を胸に、天の国の民として、この今をキリストと共に生き、駆け抜けてまいりましょう。最後に今日の聖書箇所をもう一度読み、今日の宣教を終わりとしますが、特にこの4章1節を結論として胸に留め、今週も来週も来年もこの一生を、主を仰ぎ見ながら生きていきたいと心から願います。

フィリピ3:20―4:1
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」

武井誠司

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