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成長する種の力 (マルコ4:26~34)

メッセージ

2015年1月25日富里キリスト教会

「成長する種の力」
(マルコ4:26~34)

1.すでに実現している天国

まず最初に、天国とは種を蒔く人が種を蒔くようなもので、いろんな人の心に蒔かれて、ある者は実を結ぶが、ある者は実を結ばないでしまうようなものであると言いました(4:3~20)。また天国とはともし火を燭台の上に置いて、世を照らすものであるとも言いました(4:21~25)。そして今日の個所ですが、天国とは種が芽を出して少しずつ成長するようなものであると言いました(4:26~29)。また最初は小さくても、やがて大きくなる成長するからし種のようなものである(4:30~32)とも言っております。

こうしてみますと、天国とは、わたしたちが死んでから行くところではありますが、もうすでにイエス様によってこの世界に、この時代に入って来ているということを聖書は教えています。ですから、天国を死後世界への備えと考えてはいけないような気がします。イエス様はこう言っています。「神の国は、見られる形で来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの只中にある。」(ルカ17:21・口語訳)と。天国は、どこか場所的なものではなく、実に私たちの只中にすでに実現しているのです。この礼拝を通して、集会を通して、伝道と証しの生活を通してすでに天国は始まっているのです。

2.成長する種と天国

「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるものであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」(マルコ4:26~29)

神の国、すなわち天国というのは、ある人が地面に種を蒔いておくと、本人が知らないうちに、蒔かれた種が成長してゆくようなものであると言いました。つまり、蒔いた人が知らないうちに、種が芽を出し、茎をつけ、そして穂をつけてその先に実をつけるようなものだと言いました。

これでイメージして頭に浮かぶ植物は、わたしはトウモロコシを思い起します。たった一粒のトウモロコシの種が、畑に植えられますと、まず芽が出て、それから茎がまっすぐに伸びて、あのふさふさとした穂がつきます。そしてその中に立派な何百個という実をつけたこうモロコシができます。しかも一本の苗からトウモロコシが何本も取れます。種にしたら、何百倍、何千倍もの実をつけることになります。天国、神の国というのはこういうものであると言いました。

わたしはこのたとえから、神の国というのは、確実にしかもゆっくりと成長するということを教えられました。成長には順番があります。それは、種、芽、茎、穂、実、収穫というプロセスがあります。種からいきなり実はできないのです。それはそうですね、トウモロコシの種を植えたら、翌日あのトウモロコシがなっているというわけではありません。時間がかかりますが、着実に成長してゆくのです。

よく聞く話ですが、「チラシを千枚枚蒔いても、一人来たらいい方だ。」といいます。確かにそうです。もしかしたら二千枚蒔いても一万枚蒔いても、一人来るか来ないかかもしれません。それでも種を蒔くことが大事なのです。蒔かれた人間の心の状態を気にする必要はありません。なぜかといいますと27節にこうあります。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」とあります。

つまり、良い地に落ちた種は、黙っていても自然にひとりでに実をつけてゆくのだから、あなたがた心配する必要がないと言っています。天国とはそういうものだというのです。ですから、わたしたちはただひたすら、種を蒔き続けるだけでいいのです。肥料を入れたり、水をやったり、雑草をとったりするのは、農夫であり管理人である神様がして下さるのですから。

28節に「土はひとりでに実を結ばせる」とあります。わたしはどうしてもこの言葉がピンと来ませんでした。正しくは、「種はひとりでに実を結ぶ」ではないでしょうか。実を結ばせるのは種ですから、種が主語になるべきだと思いました。ところが、主語が土なのです。土というのはわたしたちの心です。わたしたちの心がひとりでに実を結ばせるということになります。であれば、やっぱり人間の側の心の状態も大事なのではないかということです。種の独り舞台ではなく、その種を入れる心の状態も大事であって、やはり御言葉の種と人間の心の状態が、両方あいまって実をつけるようになるのだということではないかと思います。

ですから、心の状態をどう保つかは、人間の責任です。神様の独り舞台ではなく、人間の側もこの種をどういう心でしっかりと持ち続けるかということも、問われているのではないかと思いました。従いまして、わたしたちがその種をしっかりと手放さずに、心の内に留めておくことによって、後は種自らが黙っていても成長してくれるということです。これが良い心、良い地に落ちた種ということではないでしょうか。

「ひとりでに」という言葉がありますが、これはギリシャ語では「オートマテー」という言葉です。オートマチックという英語の語源になった言葉です。つまり種はオートマチックにひとりでに成長するのです。ですから私たちも、たとえ成果が見えなくても、無駄になるような地面ばかりのようでも、あきらめないで種を蒔きつづけるということです。種蒔きに専念しなさいということです。そのことによって、あなたがたはすでに天国を体験しているのですよということを、聖書はわたしたちに教えているような気がします。天国とはそういうものです。

3.天国はからし種のようになる

最後にイエス様は、もう一つ天国のたとえを話しております。それがからし種のたとえです。「更に、イエスは言われた。『神の国は何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」(4:30~32)

「天国はからし種のようなものである」と言いました。先ほどは、トウモロコシの種を連想しましたが、実はイエス様が考えていたのは、からし種のようでした。からし種と言いますのは、こしょうの種よりも小さいです。目に見えないくらいです。そんな小さな種であっても、たった一つで大きな野菜に成長するというのです。大きくなりますと、この屋根に届くほどの高さになるよう
です。

つまり、天国というのは、初めは小さくても、やがて成長して大きなものになるというたとえです。ですから、天国というのは、大きいから天国だというのではなりません。最初は目に見えないほど小さいのです。最も小さいのです。教会もそうです。小さい教会、吹けば飛ぶような教会、しかし、たとえそのような教会でありましても、やがてたくさんの教会を生み出すような大きな教会になって行くということではないでしょうか。

どんな教会でも最初は、ほんの一握りの信徒しかいませんでした。でも一粒の種が良い地に落ちましたら、成長してゆきます。そしてそれは大きな鳥が宿るほどの成長を見せるのです。ですから、たとえ今はからし種のような小さな教会でありましても、神様の天国の御計画には、やがて大きな木に成長するという約束があるのです。

わたしたちの教会も、今は小さいですが、やがて大きな教会になり多くの宣教を送り出し、北総の地のあちこちにバプテスト教会を建てて行くということが実現するならば、わたしたちは今ここで天国に生きているのではないでしょうか。そういう夢のようなことが起こることが、天国だとイエス様は教えておられます。ですから、今はからし種のような小さな小さな教会かも知れませんが、やがて大きくなることを夢見て、喜んで御言葉の種を蒔いて行こうではありませんか。 

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