ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

感謝の力 (ローマ7:22~8:3)

メッセージ

2010年11月14日富里教会
「感謝の力」
(ローマ7:22~8:3)

1. 罪と律法

前回も申しましたが、律法(十戒を中心とした生活上の細かい規則)の本来の目的は、人間の心の中の罪をあぶり出すのが目的だと言いました。「汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ」と十戒の中に教えられています。この十戒の戒めがなければ、人間は人を殺す事も、姦淫することも罪だとは思わないわけです。このように本来律法は良いものであり、人間が神の前に正しく生きるための戒めだったのです。ところが、この律法を守っているという人ほど、実は律法に違反している事に気がつかないと言う事です。ですから、律法の本来の目的は、人間は律法を守ることができない存在であり、全ての人が罪人なのだという意識を起こさせるのが目的なのです。

また先週は、モーセの律法が来る前の人々も、全部死に定められているので、アダムの罪によって全ての人は生まれながらにして罪人だと言う事も話しました。全ての人は罪人であり、何人もこの罪の支配から逃れる事はできないということも学びました。ただイエス・キリストを信じる者は、誰でも罪赦され、神の子とされているということを学びました。しかし、私たちはイエス・キリストを信じても、まだ罪を犯してしまう事があります。罪の古い性質は、クリスチャンの私の中にも依然として居座っていると言う事実に気がつきます。この私のうちに内在する罪の問題を取り上げたのが、今日の聖書の箇所です。

18節から読んでみましょう。「わたしは、自分のうちには、つまりわたしの肉には、善がすんでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望むことは行なわず、望まない悪を行なっている。もし私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
(ローマ7:18~20)

たとえクリスチャンでありましても、この自分の善をしようとする意志と、それができずに逆に悪を行なってしまうという葛藤を覚える事があるのではないでしょうか。例えば、電車に乗っていて、仕事帰り疲れた体でやっと座席に座る事ができたとします。ところが目の前に、お年寄りの方が立っていたとします。席を譲りたい、善をなそうとする気持ちはありますが、体が言うことを聞かない、疲れていて立つ事ができないのです。そしてつい、眠っているふりをしてしまいます。誰にでもあることだと思います。

心は良いことをしようと思いつつも、体がゆうことを聞かない。むしろ逆に、自分も疲れているんだからとか、別に御年寄りに席を譲る必要はないんだとか、自分を正当化しようとします。そういう悪が自分にはつきまとっていると言う現実を見せ付けられる時、私たちは、クリスチャン失格だ、ダメな人間だ、みじめな人間だと思ってしまいます。24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められてこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」と訴えております。これはパウロの言葉です。あの偉大な、そして敬虔な、生涯独身を守り通した伝道者のパウロでさえ、このような叫び声を上げているのです。

たとえクリスチャンでも、伝道者でも、自分の肉の内には罪が厳然として存在すると言うことを知っていたのです。いや、信仰者だからこそ、自分の肉の中にある罪の存在を肝に銘じていたのかもしれません。私も、そういう肉との葛藤を覚える時があります。してはいけないと思いつつも、神に喜ばれない事をしてしまう事があります。ある先輩の牧師先生が、しみじみとこう言っておられました。「岡田先生、牧師であっても死ぬまで肉の部分はあります。人間は、灰にならない限り、心の中の情欲は消えないんですよ。」と。ただ、大事な事は、この自分の肉に宿る罪の現実から、目をそむけてはいけないと言う事です。自分の罪を常に、目の前においてしっかりと見張っている事が大切です。

2.分裂している自分

「ふうん、これがパウロの本音か、建前は良いこと言っているけど、本音では俺と変わらないなあ。」と思った方もいるかもしれません。でもパウロは、自分の本音をはっきりと書いているのです。隠しませんでした。さらに驚くべき事実も赤裸々に述べています。25節「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」まるで、分裂しているような自分を開き直っているような言い方をしています。そして、神様に感謝を捧げつつ、肉では罪に仕えていますと、堂々と言っているのです。「これってクリスチャン!?」と首を傾げてしまいたくなるような言い方です。

実はこの7章は、昔から、パウロが回心する前のことを言っていると言う説と、いや、これは回心して主を信じてからのことなのだと言う二つの見方がありました。こんなに罪の法則と心の法則が対立しているのは、回心前の古いパウロの姿なのだと言う人もたくさんおります。皆さんはどうでしょうか?どちらだと思いますか?

私は、これは回心してからのパウロだと思います。なぜなら、自分の肉の中に存在する罪の現実を、しっかりと見届けているからです。回心以前のパウロでしたら、自分は律法を行なっているので罪を犯していないと確信してクリスチャンを迫害していた事でしょう。回心前は、自分の罪が全く見えていないのです。でも、パウロが光に打たれて回心したからこそ、自分の肉の中に厳然として宿っている罪を認め、それを告白できたのではないでしょうか。聖霊様が彼に罪を示して下さったのだと思います。

私たちは聖霊様によって、自分が肉のクリスチャンであり、ちょっと神様から目を離したり、有頂天になったりするとすぐに罪を犯してしまう、弱い存在であると言う事に気がつかなければなりません。天にもこの世にも、両方に窓が開いている肉のクリスチャンなのです。体が疲れていれば、席を譲る事もできません。そうしたいと思っても体が立ち上がれないのです。朝、祈りたいと思っても、起き上がって祈る時間を取ることもできない時があります。目の前に、情欲をかきたてるようなみだらな本があると、見てはいけないと思いつつもつい手が出てしまう事があります。そして、後で、何で自分はこんな事をしてしまったのかと悔やむ事があります。

クリスチャンでなければ、そんな事を罪と思わないかもしれません。私は、このような罪の意識は、クリスチャンの健全な意識だと思います。つまり、このような罪を犯してしまっても、それを罪だと感じない、悪い事だと思わないことの方が異常だと思います。おそらく、救われていない人は、自分の中にある罪も、自分がしている事も罪だとは思わないかもしれません。パウロはここで、神様に向って嘆き、こんな惨めな体、死臭を放っている腐った汚れた体をいったい誰が救ってくれるだろうかと、叫んでいるのです。

「誰が私を救ってくれるのでしょうか!!」と叫ぶような祈りの声をあげています。これは、パウロの内にある聖霊様の叫び声だと思います。涙を流して、神様に助けて下さるように祈っているのです。ですから、この7章も回心したクリスチャンとしてのパウロの姿が描かれているのです。ですから、そのあとで、パウロは「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」と、感謝を述べています。この神への叫び声、祈りの言葉が大切です。

つまり、パウロはこう祈っているのです。「私は何という惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、誰が救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。イエス様は、私達の罪のために十字架にかかり、私たちの罪を贖って下さり、わたしたちを救ってくださいました。(こういうわけで、私は、生まれ変わった新しい人としては神の御心に従っていますが、生まれながらの古い人はまだ残っています。でも、すでに神の救いにあずかっているのです。)( )内は現代訳聖書」

「誰が私を救ってくれるのでしょうか。イエス様を通して神に感謝します。」これは祈りの言葉です。感謝の祈りの言葉です。たとえ、自己分裂したようの自分でも、神様に目を向け、助けを求めて祈るならば、必ず、神様は助け主を送って下さり、私たちを救い、赦し、聖めて下さいます。この祈りによって、惨めな死の体を持っているような私たちでも、神様は救って下さるのです。パウロはこの祈りによって救われているのです。そして私たちも、この助けを求める祈りによって救われるのです。それが次に出てきます命と御霊の法則です。

3. 命と御霊の法則

今ちょうど、マスターライフの第3巻「弟子の勝利」を学んでいます。クリスチャンであればあるほど、肉と霊の闘いが激しくなってきます。サタンは、私たちの中にある罪を暴き出して、私たちを攻撃してきます。いろんな思想や教育の分野で神を認めない考え方を起こしたり、倫理や道徳の分野で性道徳を乱し、神様が定めた結婚や家族のあり方を否定しようとしたりしています。また、宗教でもいろんな新興宗教や自然崇拝の宗教が盛んになってきています。そのようなサタンとの戦いに私たちは、祈りと御言葉を持って武装してゆくためにマスターライフを学んでいます。なぜなら、クリスチャンになっても、罪とサタンに対する戦いは続いているからです。私たちは神に仕える者として、御言葉によって祈りながら、霊的な武具を見に着け、完全に整えられた人になってゆく必要があります。

罪はなかなかしつこいです。そしてサタンが、その人の心の中に固い罪の要塞のようなものをがっしり造って離さないのです。ですから、まず大事な事は、これくらいは良いだろうと思わずに、パウロのように、「私はなんと言う惨めな人間なのだろう。いったい誰がこの死んだような体から私を救ってくれるだろうか。」と自分から、罪を告白して祈りの言葉をあげることです。自分の罪を認め、それを神様に告白する事が解決の第一歩です。そして、御言葉を読みながら、御言葉を用いた祈りを捧げること、これによってサタンが私たちの心の中に築いた罪の要塞を打ち砕いて行くことができます。(御言葉と祈りの二本のダイナマイト)

マスターライフの中にこういう例がありました。自分の心の中には「情欲」と言う要塞があります。クリスチャンでありながら、性的な欲望を駆り立てる雑誌やインターネットを見てしまいます。長い間習慣になってしまって、なかなか止められません。どうしたらいいですか?それは神様があなたの中にそのような罪を示して下さっていますので、まず、神様に自分の罪や悪を認め、告白する事です。そして、次に今まで自分が集めたみだらな雑誌や写真を捨てることです。サタンにすきを与えたり攻撃してくる足場を築かせないことです。そのためには、祈りだけではなく、それを戒める御言葉も一緒に読みましょう。この御言葉による祈りが、サタンの攻撃を打ち砕くことができます。

毎日、どこへ行っても心のすきを作らないようにしなければなりません。特に、深夜、夜遅くや旅行で気がゆるむ時、また人ごみの中に入ってしまう時、いつ  も神様が共にいて見ておられるということを忘れないようにしましょう。祈りだけではなく、真理の御言葉を用いると大きな力を発揮します。御言葉と祈りです。これによってクリスチャンは、今のこの終り時代に、乱れた世の中にあって、心の武装をして聖い生活をして行くことができるのではないでしょうか。

自分の力、自分の意志では、この罪の力に勝利する事はできません。祈りと御言葉による御霊の法則です。特に御言葉を常に心に蓄えておく必要があります。これが、キリスト・イエスに結ばれている者という意味です。8:1に「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」絶えず、毎日毎日自分の罪を告白し、熱心に悔い改め、神の御言葉を読み、聖霊に満たされて全ての聖徒のために祈る生活を、一歩一歩積み重ねて行きたいと願っています。
                   (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional