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愛は行いです (マタイ5・21~26)

メッセージ

2010年7月18日富里教会
     「愛は行いです」
(マタイ5:21~26)

1.自分の感情とそれへの対応

マスターライフの中に、こういう実例が出ていました。「一人の父親が、自分の娘を虐待し、母親もわが子に優しく接してくれませんでした。その子は大人になってから、自分を子供として育ててくれなかった両親に対して、赦すことができませんでした。そして今に至るまで、親とは一切連絡をとることがありませんでした。彼女は牧師に面談してこう言いました。『両親の自分に対する今までの仕打ちを、私は赦すことができません。私は彼らが嫌いです。憎んでいます。』と」

マスターライフでは、このような私たちの内にある感情を、どのようにしてコントロールしたら良いかということなどを学びました。本当にこの第2巻「弟子の人格」は、「自分の感情を支配するにはどうしたら良いか」「自分の体を捧げるにはどうしたら良いか」「聖霊様に満たされるにはどうしたら良いか」と、クリスチャンにとってとても大切なテーマが取り上げられていて、非常に貴重な学びです。先週学んだように、人は誰でも感情を持っています。人間は感情の動物だといった人もあります。心の中に、知識、意志、感情を持っています。

感情とは、ある刺激に対して自然に生じるものですが、私たちはその感情のままに行動する傾向があります。子供は、自分の感情に任せて、泣いたりものを欲しがったりします。でも、私たち大人は、感情のままに行動する必要はありません。聖書では、自分の抱いた感情に対して、どのように対応し、どのように行動するかは私たちの責任であると言っています。ですから自分のとった否定的な行動を、自分の過去の辛い感情のせいにしたり、周りの人や周囲の環境のせいにして責任逃れをしようとしてもそれは正しいことではないということです。否定的な行動とは、腹を立てたり、怒りに任せて感情を爆発させたり、物を壊したり、人を傷つけたりすることです。よく覚醒剤で逮捕されたり、子供を虐待したことで逮捕された人が、その犯罪の理由として仕事でいらいらしていたとか、親の虐待でこうなったとかという人がいます。

いろんな感情を持つことは悪いことではありません。でも、自分のとった行動に対して、両親のせいや自分を取り巻く環境のせいやサタンのせいにすることはできません。どんな原因で自分がこのような否定的な悪い感情を持ったとしても、その感情にどのように対応するかは自分が選ぶことなのです。たとえ否定的な感情を持ったとしても、どのようにその感情に対応してどういう選択をするかは、本人の意思です。その時に、ある人は神の栄光をあらわすように対応することがあるかもしれません。また、ある人は感情のまま動いて罪を犯したり、攻撃したり、反発したりしてしまうかも知れません。あるいはその感情をコントロールできずに、自分の殻に閉じこもってしまう人もいるかも知れません。

2.祈りと御言葉で対応する

誰でも感情はあります。でもクリスチャンは、その感情に100%左右されないということです。感情の通りに行動しない。そこに、信仰というクッションが入るのです。つまり、そこで、「待てよ、何で自分はこんなに怒っているのだろうか。」あるいは「イエス様だったらどうするだろうか?」と間をおいて考えてみるということです。あるいは、一瞬、祈ってみるということです。

今日の聖書を読んで見ましょう。(マタイ5:21~22)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てるものは誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とあります。兄弟に腹を立てるものに対する警告です。

だれでも「腹の立つこと」はあります。そういう怒りの感情は持ちます。でもイエス様は、怒りによって、実際に殺人事件を起こすようなことがなくても、口で「ばか者」「愚か者」という人はすでに、殺人と同じような重大な罪を犯していると言っています。火の地獄に投げ込まれると言うのです。腹を立て、怒りに任せて、人を殺すことがなくても、「ばか」という人は、重大な裁きが下されます。私たちは、この言葉の犯す罪に気をつけなければいけません。

どんなに腹を立てることがあっても、怒り心頭に達しても、その感情に、どう反応し、どう対応するかは本人の責任なのです。あの人が自分をいらいらさせたとか、自分を怒らせた、腹を立てるようなことをしたからということは自分の間違った行いに対する言い訳にはなりません。人は皆、自分の口から出た言葉によって裁かれます。自分自身の行いによって裁かれます。(マタイ7:1~4)

誰も、心では何とも思っていないのに、口からは差別する言葉、非難する言葉が出てしまった、本意はそうではないと言っても信用されません。この悪の根源である舌をどうコントロールするかが問題です。それには、この相手に対する、憎しみや怒り、妬みといった感情がまず自分にあるということをまず認め、次に、その原因について自分なりに考えてみることです。そしてその原因が、解ったならば、自分ではそれをコントロールすることができませんが、神様がコントロールして下さると信じて、祈り求めることです。そしてイエス様ならどうしただろうと、聖書のみ言葉に助けを求めて祈ることです。すると、兄弟に腹を立てたり、怒りの感情を持ったままでは、神様の裁きを受けるということを真剣に考えます。でもクリスチャンとして間違っていると思いながら、腹を立てている自分をコントロールできずに悩んでいるわけです。そこで、一つの解決策として、実は自分の行動が自分の感情をコントロールしてくれるということがあるのです。

3.愛は行いです。

つまり、心理学的にも、感情が行動に影響を及ぼすだけでなく、反対に行動が感情に影響を及ぼすことも事実だということです。ですから、私たちの行動を変えることによって、感情も変えることができるのです。感情から行動が出てくるだけではなく、行動が私たちの感情を変えるということも事実なのです。例えば、心に病を持っている人が、作業療法をして心をいやすとか。いやな感情に支配されていても、草取りをするとすっきりするとかという例もあります。

次のみ言葉を読んで見ましょう。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい。」(マタイ5:23~24)礼拝が終ってから、相手のところに行って仲直りしようとしても、神様はその礼拝を受け入れてくれません。まず、相手と仲直りしたうえで、その和解の献げ物をしなさいと言っています。それが神様が喜ばれる供え物だからです。また、相手が謝って来たら、和解をしてあげようということでもありません。

先に行動ありきです。しかも、本人が悪いことをしたわけではありません。別に自分は、天地神明に誓って悪いことをした覚えはないのです。潔白なんです。悪いのは相手かもしれません。相手の人が勝手にそう思い込んでいるかも知れないのです。それでも「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」なんです。もしかしたら、あの人私のことをにらんでいたから、何か失礼をしたかもしれないなあ、でも心当たりがない。相手の勘違い、八つ当たりかもしれない。それでも、相手のほうで、自分に対して何か良からぬ思いを持っているかもしれないと感じた時には、自分のほうから行って和解をしなさい。そうでなければ、あなたの礼拝は意味がない礼拝ですよと言っています。ここで問題なのは、自分の心ではなく相手の心なんですね。

マスターライフにこういう例が出ていました。ある一人のご婦人が、靴屋さんに入って、自分の足のサイズに合う靴をさんざん見ていました。奥の倉庫からも出してきて、店員さんが必死に足に合ういい靴を探してあげていました。足のサイズがあっても色が気に入りません。とうとう最後まで見つからず、そのお客さんが、「すみません。合うのがないわ。この辺に別の靴屋さんないかしら?」と尋ねました。あなたが店員なら何と答えますか。
①「怒って、靴を床にたたきつけて感情をあらわにする。」②「失礼な客の質問を無視して知らん顔をする。」③「一瞬腹が立ったが、怒りを抑え、笑顔で答えるが、近くの別の店は教えない。」④「一瞬ムッとしたが、感情を抑えて、近くの別の店を紹介して、礼を言う。」あなたはどんな態度をとりますか。

自分の感情をコントロールし、相手の思いを推し量り、自分の側に非がないにもかかわらず、こちらから出かけていって謝るということはなかなか難しいものがあります。でも、「愛は行いです」。私たちはこのイエス様の愛の和解を、一方的に受けた者です。イエス・キリストは、ご自分は何の非がないにもかかわらず、私たちのところに来て下さり、身を低くしてへりくだって、あの十字架の上で和解の行いをして下さいました。心だけではなく、その身体全体をもって、和解の供え物として献げて下さったのです。

これが私たちが受けた神様の愛です。神様の和解の愛の行いです。そのような礼拝を神様は喜ばれます。「兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したなら、まず自分のほうから兄弟のところに行って仲直りをし、それから帰って来て礼拝を献げなさい。」(マタイ5:23~24)「これこそ、神様に喜ばれる、私たちのなすべき霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)と聖書にあります。思い切って、飛び込むつもりで、この愛の行為を実行する者でありたいと願っています。
                             (岡田 久)

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