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愛がなければ (Ⅰコリント13:1~13)

メッセージ

2014年3月2日富里キリスト教会

「愛がなければ」
(Ⅰコリント13:1~13)

この13章は、三つの部分に分けることができます。1~3節までが、「愛の絶対性」です。そして、4~7節までが「愛の性質」、8~13節までが「愛の永遠性」となっています。

1.愛の絶対性

まず最初に、愛の絶対性についてみてみたと思いますが、1~3節までを読んでみます。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしたちは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとしても、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(13:1~3)

教会の中で、天使が語るようなすばらしい声で説教しても、また何千人も集まる会堂で大観衆を前に説教しても、そこに愛がなければ、それはやかましいシンバルやドラのようにうるさいだけで無に等しいというのです。また、聖書のあらゆる知識に通じていて、神の奥義を語り、立派な神学書を何冊も表したとしても、また、山を動かすほどの信仰を持っていたとしても、そこに愛がなければ、それは無に等しいと言っています。

それは皆さんの方が良く知っていると思います。どんなに整っていて筋が通っていて、聞きやすい言葉で、聖書の知識にも富んで原語のギリシャ語やヘブライ語をふんだんに使って話したとしても、説教者のうちに神の愛がなければ、それは聞くに堪えない説教となると思います。それは、皆さんの方が敏感に感じることだと思います。

どうしてこの愛だけが絶対で、いつまでも残るものなのでしょうか。それは、考えてみましたら、愛だけは、神様から来るものだからではないかと思いました。たとえ、わたしたちの信仰が無くなったと思っても、希望の光が消えて、絶望の中に陥ったとしても、この神様から来る愛だけは、どんな時でも誰に対しても力強く降り注がれているのではないでしょうか。

預言や異言や慈善や殉教というものは、目には見えますが、目に見えないもの、信仰、希望、愛というものがいつまでも続くのである。特に愛は決して滅びることはないと言っています。神様から来る愛だけは、たとえ私たちが主に背を向けても、たとえ希望を失ったとしても、聖霊様を通して私たちの心の中に常に豊かに降り注がれているのではないでしょうか。ですから、神様の愛が絶対であり永遠なのではないかと思います。そして、この目に見えないものが永遠だと言っています。

2.愛の性質

じゃあ、いったいこの愛という賜物は何かということで、愛の性質についてみてみたいと思います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いら立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:4~7)

愛とは何か、まず第一に挙げられているのが、「忍耐強い」という言葉です。前の口語訳聖書では「愛は寛容である。」となっておりました。そして、この寛容ということはどういうことかを辞典を引いてみてみましたら、こうありました。「相手のどんな行為も、自分の価値判断によって判断しないで、それを認めて、受け入れること。そして、他人によって害を加えられるようなことがあっても、自分の感情に任せて仕返しをしないこと。」とありました。まさに忍耐の字の如くです。

そして次に、「情け深い」と続きますが、その後の愛の性質というものが、エッこれが愛ですかと思うような言葉が続いています。「ねたまない。自慢しない。高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めない。いらだたない。恨みを抱かない。不義を喜ばない。」と、ない、ない、ないと自分の感情をコントロールするような言葉が続いています。

でも聖書の愛は、あれをしてあげる、これをしてあげるではなく、あれもしないこれもしないという自分をコントロールする愛、自分というもの、自我を捨て去ること、自分に死ぬことの方が愛の本質のように書いております。つまり、愛というのは、何かをすること、何かを人にしてあげるということではなく、自分がしてもらっていること、自分が神様から大きなすばらしい宝物をすでにいただいていることに気がつくことから、始まって行くのではないでしょうか。

どんなにすばらしい演奏をしても説教をしても、そこに愛がなければ、それは空しくやかましい音楽に過ぎないというのです。パウロはこう言っています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバルに過ぎない。愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めない。そして、愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。演奏も廃れてしまうであろう。でも愛だけは、滅びることなく永遠につづきます。」と。

3.愛の永遠性

この愛だけはいつまでも残るのです。三つ永遠に存続するものがあると言っています。それは、信仰と希望と愛であると。8節から読んでみます。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13:8~13)

もし先ほどの方が、自分の賜物を誇り、高ぶって、他の奉仕者を退けて、自分がそこの教会の音楽のリーダーになったとしたらどうでしょうか。たとえ、すばらしい演奏をしても多くの人々が傷つくでしょう。そういう愛のない奉仕者のことをパウロは、「幼子」の信仰と言っています。子供は自分の姿がよく解りません。何でもかんでも自分の欲しいままに、親にねだるでしょう。自分が教会音楽の奉仕をすることで、今まで自分をヨーロッパまで行かせて勉強させてくれた、牧師の父親を喜ばしてあげようと考えたかもしれません。

まるで、幼い子供が、お父さんに気に入れられようと一生懸命頑張ってピアノのレッスンをするようなものです。牧師のお父さんに喜ばれたい。そういう願望がどこかにあるのではないでしょうか。子供は親に愛されようとするものです。親に認めてもらいたいものです。親に褒めてもらいたいのです。お父さんやお母さんの愛を求めて一生懸命頑張ります。もし、その御嬢さんが幼い信仰であったならば、教会で奉仕をしてお父さんを喜ばせてあげようとするかもしれません。そういう信仰者を、パウロは「幼子のようなクリスチャン」と言っています。

今は、もうそういう子供ではないので、教会ではそういう子供のような奉仕や働きはやめたとパウロは言っています。11節に「成人した今は、幼子のことを棄てた。」と宣言しています。そういう奉仕は、やがて時が来れば廃れるものであり、部分的なものであるとも言っています。しかし、愛だけは滅びることはない、この目に見えない愛だけは永遠に続くのですと言っています。

この忍耐、信仰、希望といった目に見えないものが教会に与えられた神様からの最高の賜物なのです。そういう目に見えない、神様の愛をまず追い求めなさい。この信仰、希望、愛だけがいつまでも残るのです。教会に起こるいろんな苦しみや試練は、わたしたちがこの神様の愛の中に生き、この愛を宣べ伝えて行く群れとなるための神様からの訓練だということです。

そして、やがてイエス様が再臨して、イエス様と顔と顔を合わせて相見える時、愛の答えをいただくことができるのではないでしょうか。主は、皆さん方一人一人を心から愛しています。どうかこの神の大いなる愛の内に、互いに仕え合う富里キリスト教会になって行きたいと願っています。(岡田 久)                        

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