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悪魔の敗北と最後の審判 (ヨハネ黙示録20:1~15)

メッセージ
2016年5月2日富里キリスト教会

「悪魔の敗北と最後の審判」
(ヨハネ黙示録20:1~15)

1.はじめに

黙示録の狙いは、わたしたちがいたずらに主の再臨が来るぞ、来るぞと浮き足立つのではなく、いつ主が来られてもいいように目を覚ましてしっかりと信仰に踏みとどまっていなさいということではないでしょうか。もしキリストが2020年オリンピックの年に再臨するということが分かっていたら、それまでに日本人が全員バプテスマを受けるでしょう。でもそれが果たして救いの保証になるでしょうか。にわかクリスチャンです。

そうではなく、この黙示録が教えていることは、「わたしたちが絶えず目を覚まして、主の再臨に備えていなさいということです。どんな困難や迫害があっても、忠実な僕としての生活を守り続けることです。またキリストの救いの恵みにあずかった者としての清い敬虔な生活に励むことです。主を証する生活です。先週学んだように、礼拝と証しという麻の衣を着て、正しい行いに励む真の信仰者となることなのです。」そのような最後の審判を覚えて、今生きている間、主を信じ、神を真に畏れる生活に励みたいものです。

2.第一の復活にあずかる者は幸いな者

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経た蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、開放されるはずである。

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年経つまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」(黙示録20:1~6)

この聖書箇所には、首をはねられた殉教者が復活してキリスト共に、神の祭司となって千年の間統治するとあります。そしてこの千年の間は、サタンは底なしの淵に投げ入れられて、地上に出て来ることが許されませんでした。この時に復活するものは、幸いな者、聖なる者であるとあります。これが第一の復活であると記してあります。この第一の復活にあずかる者は、斬首刑にされたものだけではなく、最後まで信仰を守ってサタンを拝まなかった者たちも含まれます。

そして、この千年間の神の統治期間を神学的に「千年王国の教理」と言って、この箇所だけに出て来る言葉です。サタンはこの期間が過ぎると再び地上に出て、最後の戦いをしかけますが、最後には火の池に投げ込まれて滅ぼされてしまいます。キリストの再臨が、この千年王国の後に来るのか、それとも前に来るのかということで長く論議されて来ました。わたしは、この聖書の順番通り、19:11節以下の「白馬の騎手」がキリストの再臨と考え、前千年王国説が正しいのではないかと思いますが、皆様はいかがでしょうか。あるいはまた、この千年王国というものはもっと象徴的に解釈すべきで、千年という数字にこだわる必要がないという考えの人もあります。

じゃあいったいこの千年間というのは何を意味するのだろうかという疑問が残ります。わたしはこの期間というのは、第一コリント15:23~28に記されている事柄ではないのかと思います。つまり、復活の順番ですが、最初にキリスト、そしてキリスト再臨に際して信じている者たちが復活します。これが第一の復活です。必ずしも、首をはねられたとか非業の最期を遂げたクリスチャンだけではなく、最後まで信仰を持ってこの地上の生涯を走り終えたクリスチャン全員が、この第一の復活にあずかると確信しています。

パウロは、Ⅰコリント15:24で「その後に世の終わりが来る」と言っています。これは、キリストがすべてのものを御自分の足元に従わせるまでの時のことではないかと思います。この世のすべての支配、権威、権力を滅ぼして完全にキリストに従わせて、それからキリストは、御自分も神に服従させることによって、すべてのものを神の支配のもとにおいて神の国を完成させようとしているのではないでしょうか。その期間が、象徴的ですが千年かかると言っているような気がします。この間信じていない人々は、千年間死んだままで、この第一の復活にあずかることはありません。彼らはこの後、死者が神の前に引き出されるという(聖書にはその言葉はないですが)「第二の復活」の時までにそのまま、陰府の世界に置かれています。

3.最後の戦い

7節から読んでみます。
「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく日々さいなまれる。」(黙示録20:7~10)

千年間閉じ込められていたサタンは、その後しばらくの間解放されました。しかし、間もなく神に対して戦いを挑みますが、あっという間に滅ぼされてしまいます。そして前に、獣や偽預言者たちが投げ込まれた火と硫黄の池に、同じように投げ入れられてしまいました。こうして完全にサタンや偽預言者、そして忌まわしい獣たちも大いなる都バビロンと共に滅ぼされてしまうのです。そして次に、死んだ人間に対する裁きが行われます。

4.第二の死としての最後の審判

「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれてあることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた使者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11~15)

人間に対する最後の審判は、大きな白い玉座に座っている方の前で行われました。その時にはもはや地球はなくなっています。そして不思議な事は、海や陰府の中にいた死者たちが復活させられて、神の御前に立たされ、一人一人が自分たちの行いに応じて、裁きを受けるとあります。そしてこの命の書に名前のないものは全部、あの硫黄の燃えている火の池に投げ込まれました。灼熱地獄です。そこで一瞬のうちに焼かれて死んで意識が無くなってしまうのではなく、生き永らえて、昼も夜も暑さの中で責めさいなまれ、永遠に苦しみ続けなければなりません。これが第二の死です。

肉体的医学的な死を意味する第一の死は、信仰者であれ不信者であれ全員誰でもが経験することですが、この第二の死は、最後の審判の時の霊的な死です。それは神から永遠に切り離されることです。しかも、死ぬことができずに苦しみ続けるのです。一体誰がこのような苦しみを想像できるでしょうか。そんな目に遭うことのないように、今のうちにキリストを信じてその尊い救いにあずかって欲しいです。あの金持ちとラザロのたとえ話にあるように、陰府に落とされた金持ちは、あまりの苦しさのあまり、家族がこんなところに来ないように言って欲しいとアブラハムにお願いします。その時アブラハムは、聖書の言葉に聴くことが大事だと教えます。(ルカ16:29)

イエス様もこう言っております。「だれを恐れるべきか教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくがこの方を恐れなさい。」(ルカ12:5)と。第一の死を宣言する人よりも、死んだ後に、死者を陰府の世界から引き出して第二の死を宣告する権威を持っている方、すなわちイエス・キリストを一番恐れなさいと言っています。これが「第二の死」です。すでに第一の復活にあずかるわたしたちにとっては、この第二の死は何の力も及びません。

じゃあ、クリスチャンは最後にキリストの前に立たなくてもいいのかと言いますと、そうではありません。パウロはこう言っています。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体をすみかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(Ⅱコリント5:10 P.330)と。つまりわたし達も裁きの座の前に立つのです。しかしそれは、火の池に投げ込まれる裁きの判決を受けるためではなく、報いを受けるためです。報いというのは報酬です。生前どんな働きをしたのかが、ここで評価されてそれぞれにふさわしい報酬が与えられるのです。

また、食い物に困っていた人や着る物、泊まる場所がなかった人に対して何もしなかった人、病気の時にもお見舞いに行かなかった人も同じように、永遠の刑罰である火の池に投げ込まれます。「はっきり言っておく、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の日に入れ。」(マタイ25:41,45)と言っています。

ですからクリスチャンにとっても、わたしはバプテスマを受けた方大丈夫とか、教会員名簿に名前があるということではなく、天にある命の書に名前が出ているかどうかです。「もしかしたら、名前がないんじゃないだろうか?」と心配に思う人は、簡単です。悔い改めることです。しかも生きているうちに。今がその時です。そして善い行いに励むことです。黙示録のテーマは、クリスチャンもそうでない人も、悔い改めて良い業に励みなさいです。

「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で洗練された金を買い、また、あなたの裸の恥を去らなさいため身につけるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。すべて私の愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:18~19)
このようにクリスチャンであっても、最後にはイエス様の前に出なければなりません。今、生活の苦しみや周囲からの迫害の真っ只中にあって、悩み苦しんでいましても、決してあきらめたり、気落ちすることなく主を見上げて歩みましょう。そして聖霊様の助けと御言葉への信頼を持って、愛のうちにひたすら主に仕えて行きたいと願っています。  

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