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悔い改めなければ (ルカ13:1~9)

メッセージ

2016年7月17日富里キリスト教会

「悔い改めなければ」
(ルカ13:1~9)

1.他人の罪を見て自分の罪を忘れる者

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。そのガリラヤ人たちがそのような災難にあったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:1~5)

最初のピラトの事件は、ガリラヤ出身の人々の中に反体制派の人が多く、彼らが反ローマ帝国の旗を掲げて、決起していた時に起こったと言われています。その反乱分子をピラトの軍隊が探し当てて、彼らが礼拝をしているところを襲って、全員を殺害してしまったというのです。その際に礼拝に献げられていた羊の血とガリラヤ人の血が混じってしまったのです。神を礼拝していながら、そこを襲われたわけですが、神が彼らを守ってくれなかったというのです。それだけ、ガリラヤ人は罪深く、神からも見捨てられた人々だったというのです。その点、エルサレムに住む我々生粋のユダヤ人は、神に守られている選ばれた民なのだという誇りがありました。ガリラヤ出身のイエス様にも、何らかのコメントを求めるためにわざわざ知らせたのではないでしょうか。

さらに最近、エルサレムであったシロアムの塔が倒れて18人が犠牲になったという事故も、悪いのは彼らではないと言いました。事故にあったからその人たちが悪いのでも、災難にあったからその人が悪いのでもなく、誰でも心から悔い改めなければ、皆同じように滅ぼされていまいますと答えました。つまり人間の罪というものは、誰にでもあるということです。災難にあった人だけ、特別罪深かったというのではありません。事故にあった人だけではなく、誰でも罪があり、誰でも自分の罪を悔い改めなければ滅んでしまうと、主は警告しているのです。

わたしたちもいかがでしょうか。同じように考えることはありませんか。あの人が病気になったのは、その人に罪があったからだ、あの人が事故にあったのは、あの人が悪かったからだと。助かったわたしは大丈夫、罪がなかったと安心します。果たしてそうでしょうか。あるいは自分がこうなったのは、あの人のせいだとかということはないでしょうか。自分の側に罪を見ようとしないことはないでしょうか。悪いのはあのガリラヤの反乱分子だけだったでしょうか。罪があったのは、あの塔の下敷きになって死んでしまった人たちだったでしょうか。自分は大丈夫、彼らよりも信仰によって守られていたからだと思うことはないでしょうか。

主はこう言いました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:2~3)と断言しました。あの人に罪があって自分にはなかったというのではないのです。あの人のせいで自分がこうなったということでもないのです。すべての人が罪人なんだ、だから誰でも信仰があってもなくても、災難に遭っても遭わなくても、人は悔いあらめなければ例外なく滅んでしまうといったのです。いやむしろクリスチャンであればあるほど、悔い改めの信仰が必要なのです。

ここでイエス様は、信仰者というのは、罪がない人というのではなく、罪を持ってはいるが悔い改めることによって、毎日、罪を赦してもらっている人のことだと言っているのではないでしょうか。信仰者というのは日々熱心に悔い改める人のことを言います。(今週の暗唱聖句)「すべて私の愛しているものを、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実な方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます。」(Ⅰヨハネ1:8~9)

わたしたちは決して罪というものを他人の中に見てはいけません。もちろん他の国の人々の中に見てもいけません。○○さんには罪がある。○○国は罪の国家だということはできないのです。罪はあなたの中にあるのです。わたしの心の中にあるのです。信じた今も厳然として残っています。でもキリスト者のキリスト者たるゆえんは、この罪をしっかりと認め、捕え、この自分の罪と対峙してこれと戦う人のことを言います。これがクリスチャン、罪が贖われている者という意味です。

2.木の周りを掘って、肥しをやる主イエス

「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」』」(13:6~9)

他人の罪ばかりを見て、自分の内側にある罪に目を向けない人への警告として、このたとえが語られました。ある人というのは神様で、ぶどう園の主人です。ぶどう園はイスラエルの国、そしていちじくの木はイスラエルの中のエルサレムの町です。ぶどう園を管理する園丁はイエス様と言われています。

パレスチナ地方には、なかなかいい土地がありませんから、ぶどう畑の中に別な果物の木を植えているところがありました。ここではいちじくの木を植えていました。ところがこのいちじくが三年経っても実をつけません。そこでブドウ園の主人が、土地がもったいないと言っていちじくの木を切り倒しなさいと園丁に命じました。普通三年目あたりで、実をつけると思いますが、肥料が足りなかったのかうまく実をつけませんでした。

どうしてこのいちじくが実をつけなかったのかと言いますと、やはり前の話の続きで考えますと、悔い改めることのない信仰だったからです。罪とか悪というものを他の人の中にばかり見て、自分の中にはない、自分は正しい信仰者だ、神に選ばれた都エルサレムだという誇りがありました。つまり、表面的、形式的な信仰しかなかったのです。その証拠に何の実もつけていません。三年経ってもです。主人は、「こんなに土地も肥料も無駄にしているものはもったいないから、切り倒してしまえ。別な木を植えた方がまだましだ、土地を有効に使いなさい。」と園丁に命じました。

すると園丁はこう言いました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」(13:8~9)と伐採を留まるよう嘆願しました。この後、いちじくの木をどうしたかは書かれてありません。園丁が追肥をしたかどうか、そして実がついたかどうかも書かれていません。このお話はわたしたちに向けて問いかけられているからです。「あなたはどれに当りますか。あなたは誰ですか。いちじくの木ですか、園丁ですか、主人ですか。」と問いかけているのです。

わたしはこの箇所を読んだとき、二つの聖書の場面が頭に浮かんできました。
一つはあの滅びの町ソドムとゴモラのために、必死になって取り成しの祈りを献げた旧約聖書の信仰の父、アブラハムです。悪に染まり堕落した町を神様は、人間もろとも滅ぼすと言いました。しかし、ゴモラは自分の身内が住んでいましたから、アブラハムは何とか滅ぼさないように神様に必死に祈りました。「神様、後生ですからあの町には私の親族がいます。どうか滅ぼさないで下さい。」と何度も何度も主にとりなしをしました。その結果、甥のロト夫妻と二人の娘の四人だけが救われました。(創世記18~19章)

また新約聖書では、あの十字架のイエス様の執り成す姿です。主は自分の民イスラエルのところに来たのに、逆に彼らから反発され裏切られて、十字架の死まで追いやられてしまった方です。しかし主は、神を神とも思わずに十字架に架けて殺そうとしている人々のために、とりなしの祈りをされました。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないからです。」(ルカ23:34)と。あの十字架のイエス様の執り成す姿を、わたしはこの園丁の中に見る思いです。

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」(13:8~9)と園丁もぶどう園の主人に頼みました。切り倒そうとする神様と、その怒りを宥めて何とか待って下さるようにとりなすイエス様の姿を見る思いです。

では、どうしたら実をつけることができるでしょうか。それは自分の罪を悔い改めることです。あの人が悪かった、あの人に原因があるというのではありません。問題は、その原因は自分の中にあるのです。なぜ自分の心の中を見ないのですか。見ようとしないのでしょうか。あまりにも汚れきっているからですか。目を背けたくなるほど、罪の倉庫になっているから見たくないのでしょうか。自分のことが分からないほど子供ですか。子供は自分の姿が見えません。他人しか目に入らないのです。

つまりあなたは罪というものを他人の中に見ないで、自分の中に見ていますか。切り倒されなければならないいちじくの木というのは、他人のことではなく、あなた自身のことなんですよと呼びかけているのです。そこから目を離してはいけません。今まで何人の人つまずかせて来たか、今まで何人の人を傷つけて来たか、年をとればとるほどほど自分の本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。

罪はあの人にあるというのではなく、自分にあるのです。罪の内在化です。この内在化された罪の問題を何とかしなければ、本当の意味での伝道も和解も平和もありません。みんながみんな、自分には罪がないと言っているのでしたら、皆さんテロリストです。罪を持っている他の人をやっつければいいのです。罪人を始末すればいいのですから、クリスチャンのテロリストになります。

ブドウ園に植えられた神の都エルサレムも、表面的な美しさだけで、その心は金と経済でいっぱいでした。神の平和(エル=神、シャライム=平和)というのは名前だけで、景気と金融と経済だけがその中身でした。神の子イエス・キリストが来て救いを告げたのにもかかわらず、彼らはその信仰の結果である実を一つもつけていなかったのです。なぜか、それは悔い改めなかったからです。

自分の罪のために園丁である神の子キリストが、十字架にかかって罪の贖いをして下さった、そして御自分の体を贖いの永遠の供え物として献げて下さったのに、誰一人このお方の前に、自分の罪を悔い改めて立ち帰ろうとする人がなかったのです。罪を悔い改めず、未だに実をつけない私たちのために、身代わりになって切り倒されて下さったのは園丁であるイエス・キリスト様なのです。

この信仰を持って見上げるならば、あなたは必ず実を結びます。その人は新しく生まれ変わります。この悔い改めの信仰がなければ、滅びます。クリスチャンというのは、熱心に悔い改める者のことを言います。毎日毎日、十字架を見上げて悔い改める人のことです。そして少しずつ、実をつけて行きます。悔い改める人は必ず、良い実を結びます。主イエスは今もこう言っております。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥しをやってみますから。」と。今こそ悔い改める時です。今こそ恵みの時、救いの時、赦しの時です。 

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