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恵みの充満 (ローマ5・17~21)

メッセージ
2010年11月7日富里教会
「恵みの充満」
(ローマ書5:17~21)

1.アダムの罪によって死が全人類に入り込んだ

最初に、ローマ書5章の12~14節を読んでみたいと思います。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表わす者だったのです。」(ローマ5:12~14)

つまりアダムによって罪がこの世界に入り、その結果すべての人が罪の罰としての死を経験しなければなりませんでした。12節に「罪が世に入り、それによって死がすべての人に及んだ」とあります。つまり、人間が誰でも経験する死は、アダムが犯した罪の結果であると聖書は言っています。私たち人間が死を経験するのは、アダムの犯した罪の罰を、現代人の私たちも負っているということです。わたしたちはアダムの罪を受け継いでいるし、私達の罪の原因をたどって行けばアダムに行き着くのです。

この死が存在し、全ての人がその死を体験する以上、全ての人間はいまだに罪の中に生を受け、罪を持ったままで生きているのです。さて、皆さんは罪と死とどちらが怖いですか?(間をおく)おそらくたいていの人は、死が怖いと言いうでしょう。死を避けるために、保険に入り、健康に気をつけ、ありとあらゆる手立てをします。しかし、罪については無頓着です。自分は罪人でも、アダムの子孫でもないし、法を犯した事など一度もないと思っています。でも、先ほど申しましたように、聖書では死の原因は罪であると言っています。さあ、皆さんはどちらが怖いですか?

答えは、死ではなく、その原因である罪が怖いのです。死は結果です。結果である死を怖がっても何の解決にもなりません。死の原因、死の源である罪を根本的に解決しない限り、人間の死の問題は解決しないのです。でも、死は必ず解決できます。それは、その原因である罪の解決がすでにイエス・キリストの十字架と復活によってなされたからです。この罪さえ解決できるならば、人間の死の問題も解決できるはずです。

2. 一人のキリストの恵みは、
全人類に及ぶアダムの罪に勝る

15節から21節に渡ってその事が述べられています。最初の人アダムが、やがて来るべきキリストの救いの恵みを表わしているとするならば、どのようにして表わしているのかが、実にこの長い文章の中に繰り返して述べられています。つまり、一人の人キリストの恵みが、全人類に影響を及ぼしたアダムの罪よりもはるかに大きく、恵みに富んだものだということが7回も繰り返されています。

① 一人の罪によって多くの人が死ぬ・・一人の人イエスキリストによって神の恵みは多くの人に豊かに注がれる(15節)。
② 裁きの場合には一つの罪で有罪の判決・・恵みの場合は、多くの罪を無罪判決にする(16節)。
③ 一人の罪によって死が支配する・・一人のキリストによって、恵みと義の賜物が支配する(17節)。
④ 一人の罪によって万人が有罪判決・・一人の正しい行為によって、万人が義とされ、命を得る(18節)。
⑤ 一人の不従順によって多くの人が罪人となる・・一人の従順によって多くの人が義とされる(19節)。
⑥ 律法が入り込んで罪が増す・・しかし、罪の増したところに恵みが満ちあふれた(20節)。
⑦ 罪が死によって支配した・・恵みも義によって支配する(21節)

パウロはここに、イエス・キリストの恵みの圧倒的な勝利と充満を、7回も繰り返して述べています。これは数学の問題です。講壇の横に花瓶に入った花があります。これを人類だとします。この内の一本のアダムの花が罪を犯して、その罪の根が、何本もの花に影響しました。この花瓶に入っている限り、もはや全部の花が罪を持っていることになります。たった1本の枝でもそれが全体に影響を与えるのです。これが全人類です。やがてこの多くの花は、罪のために全部死んでしまいます。

ところが、もう一本、別な花があって、この花は、たった1本ですが、この1本の花で、死にかけている全部の花を生き返らせることができるというのです。つまり、たった1本で罪に死んでいた多くの花をカバーして、生き返らせる事ができるのです。このたくさんの罪の花と、恵みを与えるたった1本の命の花とでは、どちらが大きいですか?そうです。比較にならないほどに、恵みの1本の花の方が大きいですね。人間もそうです。人類史上どんなにたくさんの人間が現在まで存在したとしても、それをたった一人の人死によって多くの人が生きることになるのです。

この恵みの花は、たった1本で全人類を生かし、命を与える事ができるのです。どんなに人類の罪が大きくても、イエス・キリストの恵みの大きさにはかなわないのです。ですから、15節に「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」とパウロが言っているのです。

3.罪の増し加わったところに
恵みもますます満ちあふれた

私たちは、時には自分の罪の大きさに気づかされ、絶望し、落ち込んでしまうことがあるかも知れません。でもイエス・キリストの十字架に示された神の恵みは、私たちの罪がどんなに大きくとも、それをはるかに大きくカバーしてもなお、余るほどの恵みです。この神の恵みは、私たちの罪と比較にならないほどの大きく、私たちを圧倒しています。

問題は、私たちが自分の罪をどれくらい自覚しているかと言う事です。りんごの大きさくらいの罪を感じている人は、りんごよりは少し大きめのメロンくらいの大きさの恵みを感じているかも知れません。スイカくらいの大きさの罪を感じている人は、それより少し大きい分の恵みを感じている事でしょう。罪の増し加わったところに恵みはいっそう満ちあふれました。もし、罪を全く感じていない人は、神の恵みと救いには縁がない人かもしれません。ですから、罪を気づかせてくださるのも神の恵みなのです。

わたしたちは皆、罪を背負わされ、死へ向ってあてどもなくさ迷い歩いている放蕩息子のようなものです。自分が神からはなれた罪人であるということに気づきません。相手に故障があるのではなく、こっちにあるのです。なかなか自分の方に問題がある、自分の方に罪があるとは認めたくないものですが、罪の結果である死は、誰にでも確実にやってきます。ですからまず、第一に自分自身が罪人だと認めることです。聖書からそれを学ぶ事です。第二にその罪の道を止めて、そこから離れることです。第三に悔い改めて方向転換をする事です。向きを変えるということです。今までのようなことを、二度と繰り返さないと言うです。生き方を変えることです。第四に、新しい生き方をスタートすることです。これが信仰です。信仰による義人は生きるとあります。

4.新生のバプテスマ

私たちは、イエス・キリストと共に死んで、イエス・キリストと共に甦りの命の内に歩む者です。新しく生まれ変わったスタートとして、バプテスマを受けました。私たちはすでに、キリストと共に罪に死んだ者です。ところが、このパウロの「罪の増し加わったところに恵みもますます満ちあふれた」という言葉を逆手にとって、こう言う人が現れました。

「恵みが増すようにと、我々は罪の中にとどまるべきではないか。」(6:1)とか、「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯して良いのではないか。」(6:15)という人々です。ああいえば、こういうという感じで、パウロに反論してくる人々がいました。そんなに恵みが増すのであれば、もっと罪の生活にとどまってもいいのではないか。あるいは、積極的に罪を犯していいのではないかと、とんでもない反論をして来ました。

わたしたちはキリストと共に死んだ者であって、もはや自分中心に生きているものではないのです。キリスト様がわたしの心の中にいて生きておられるのです。どうして自分勝手に歩む肉的な人生に一度死んだ私たちが、再び罪の欲望に自分の体を従わせて良いでしょうか。6:12にこうあります。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(6:13~13)

「罪の増し加わったところに、恵みはいっそう満ちあふれた」というこの恵みの充満、そしてその恵みへとイエス・キリストは私たちを招いておられます。この方と一緒に歩みたい、十字架と復活のイエス・キリストと一体になること、それが恵みのバプテスマです。新しい人生のスタートです。いかがですか、今日、私もイエス・キリストの恵みの内に、新しい人生を歩みたい、信じてバプテスマを受けますと、希望する方はおられませんでしょうか。罪を悔い改めて、イエス・キリストの恵みの充満の中へと飛び込んで下さい。   (岡田 久) 

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