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怒ったままでいてはいけない (エフェソ4:25~27、ヤコブ1:19~21)

メッセージ

2015年8月23日富里キリスト教会

「怒ったままでいてはいけない」
(エフェソ4:25~27、ヤコブ1:19~21)

1.怒りの根底にあるもの

さてこれはクイズですが、人類史上、最初に怒った人は誰でしょうか。答えはアダムの二人の息子のうち、兄のカインです。ご存じの通り、カインは、弟のアベルと一緒に、神様に供え物を捧げました。兄は、土から取れた作物を捧げものとして神様に捧げました。一方、弟のアベルは、肥えた子羊を捧げました。その時神様は、弟アベルの子羊を受け入れ、兄の献げの物は顧みられませんでした。そこの聖書を読んでみますと、「カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創世記4:5)とあります。このカインの怒りが人類史上初めての怒りではないかとおもいます。神への怒りです。そしてそれが弟に向けられました。この後カインは、この怒りから人類史上初めての殺人、しかも弟殺しと言う大罪を犯してしまいます。 

ではどうしてカインは怒ったのでしょうか。それは神様が、弟の供え物の方を良しとして受け取ったのですから、差別されたと思ったのでしょう。兄としてのプライドが傷つけられたかもしれません。「神は不公平だ、弟の方を愛している」、自分を愛していないと思ったでしょう。ですからカインは激しく怒って、顔を伏せてしまったのです。自分は神に見放された、見捨てられたという強い感情が出てきたのではないかと思います。心理学の本を読んでみますと、人間の「怒りの感情」の根底には、人間の孤独感、寂しさ、悲しさがあると書いてありました。

ですから、孤独な人ほど、またさびしがり屋の人ほど、怒りの感情が出て来るのではないでしょうか。それは相手に対する怒りというよりは、目に見えない何か、不条理感、差別感、見捨てられ感と言ったもののようです。聖書では、それが神に対する怒りとなって表れているような気がします。神が自分を見捨てるなら、それならそれでいいや、自分は自分で、一人で生きて行くという反発です。カインが、「顔を伏せた」と言うことは、神様との関係を自分から断ったということです。

「怒り」と言う漢字を見て下さい。「心」の上に奴隷の「奴」という字がのっかています。つまり、自分の心が、奴隷のようなひどい仕打ちを受けて、卑しめられたり、差別をされたり、虐げられたりする時に、心が押しつぶされて怒りという感情が出て来るのです。認めてもらえない、卑しめられる、無視される、軽蔑される、プライドが傷つけられる、見捨てられると言ったような時に、人は怒りという感情を覚えるのではないでしょうか。(「アメリカの黒人暴動」の例、または「非難と攻撃の心の天秤」の例)

新約聖書にあるもう一組の兄弟の場合も同じです。放蕩息子の兄弟の兄のほうが、怒って家に入ろうとしませんでした。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。」(ルカ15:28)とあります。放蕩三昧をして帰って来た弟と、それを叱りもせず喜んで迎えた父親に対する反感、怒り、不公平感で心がいっぱいになっていたのです。兄の心は自分が顧みられなかったこと、なぜ父はあんな弟を喜んで迎え入れたのかという反発と怒りでいっぱいでした。その心の根底には、父はもしかしたら自分よりも弟の方を愛しているのではないだろうかという、見捨てられ感でいっぱいでした。そして怒って家に入ろうとしなかったのです。父親である神様は、その兄をやさしくなだめていますが、彼が家に戻ったかどうかは、聖書に書いてありません。

カインの場合もそうです。自分は神に見放された、神に見捨てられたと思う時、怒りが起こり、妬みが起こり、我を忘れるほどに相手を攻撃し、殺人までエスカレートしてしまったのです。自分の中の怒りの感情を、抑えることができませんでした。人間の怒りの感情の根底には、人間の見捨てられ感、さびしさ、孤独感、絶望感があることを覚えたいと思います。大事なことは自分が見捨てられた、見放されたと思う前に、まず自分に語りかけて下さっている神様の御言葉に耳を傾けなさいとヤコブは言っています。

あの放蕩息子の父親も、怒って家に入らない兄に対して、「お前はわたしにとって高価で貴い息子だよ。お前も同じように愛しているのだから、いつまでも怒っていないで一緒に弟を喜ぼうじゃないか。」と言っているような気がしてなりません。(イザヤ43:4)怒って家に戻らない兄に対して、父親は優しく愛をもって語り、慰めてなだめているのです。

今朝のヤコブの手紙でもこう言っています。「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブ1:19~21)神様が何よりもまず、わたし達を愛する兄弟たちと言っています。この神様の愛の言葉をまず聞いて欲しいと言っています。素直な心で、御言葉を聞き、これを受け入れて、自分の心の中の悪を捨て去りなさいと勧めているのです。これが怒りをコントロールするための効果的な方法ではないでしょうか。

2.日が暮れるまで怒ったままではいけない

じゃあ私たちは怒ってはいけないのでしょうか。クリスチャンはいつも穏やかな顔をして微笑んでいなければならいのでしょうか。イエス様はそういうお方でしたでしょうか。わがままが御主人、DVをするような夫に対しても、いつも仏様のように微笑んでいなければならないのでしょうか。夫が不倫をしていても、クリスチャンの妻は怒ることなく黙っていなければならないのでしょうか。教会員の青年男女が同棲生活をしていても、牧師は、怒ってはいけないのでしょうか。そうではありません。正しい怒り、聖なる怒りもあるのです。

「怒ることがあっても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エフェソ4:26)
という御言葉があります。正しい怒り、聖なる怒りもあるのです。子供が道路で、立て看板を足蹴にして倒していたらどうしますか。誰でも「こら、やめろ!元に戻せ!」と叱るでしょう。中学生がそこの駐車場で、隠れてたばこを喫っていたらどうしますか。注意するでしょう。(高校生ともなるとそうもいかないですが・・・。)

人は必要な時には、怒ることも必要です。イエス様も、マルコ3:5に「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい。』と言われた。」という御言葉がります。かたくななユダヤ人ファリサイ派の人々に対して言った言葉です。相手のことを悲しみつつも怒りをもっておっしゃったのでした。イエス様は悪をそのままにはされませんでした。あの宮聖めでは、実際に行動をもって神に対して無神経なユダヤ人たちを追い出されました。

悪は悪、善は善とはっきり区別をして、もし誰かが悪を行っているならば、厳しく注意したり、叱ったり、怒ったりすることも必要ではないでしょうか。子供はよく、親がどこまでやったら本気で怒るだろうかということを確かめるために、悪さをすることがあります。親の怒り方を見て、自分に対する愛の本気度を確かめようとします。ですから、悪さをしたら、早いうちに厳しく叱ってあげることです。それは愛情の表現ですね。

しかしパウロは、エフェソ書でこうも言っています。「怒ることはあっても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」と。怒りの感情が起こったならば、それをもったままで夜を迎えてはいけないというのです。日が暮れる前に何とかしなさい。そうでないと、最初は小さなことでも、それを抱えたままにしておくと、寝ている間に、また日が経つにつれて、どんどんとその怒りの感情が大きくなってくるというのです。そして、憎しみと怒りが増大し、相手に対する怒りの感情によって自分自身も病んでしまうというのです。

怒りが増幅して殺人まで進むこともありますし、また逆に怒りによって引きこもってしまうこともあります。殺人は、外に対し相手に向かって行く場合ですが、引きこもりは逆に怒りが内側に向かって行く場合に起こると言われています。これはやはり、怒りを引きずってしまった結果です。怒りを早く始末することです。できれば日が暮れる前に、その日のうちが、怒りがまだ小さいですから処理をしやすいでしょう。直ちに和解をして、問題の解決を長引かせるなということです。怒りを放置して執念深く自分の正しさを主張し、自分のメンツにこだわっていては、サタンに絶好の機会を与えることになります。

詩篇4:5、6、9を見てみましょう。「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。・・・平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです。」(読む)いかがでしょうか、皆さん、誰かに対して怒りの感情をもったまま、夜休むことができますか。おそらく神経が高ぶって、いろいろと思いめぐらし考えあぐねて、悶々とした一夜を過ごすことはないでしょうか。怒りは罪です。確かに聖なる怒り、正しい怒りもあるでしょう。しかし、それでもその怒りを抱えたまま、夜眠れますか。怒りをもったまま、夜を迎えてはいけないというのです。

パウロは怒ってもいいけれども、それを夜まで持ち越してしまうならば、あなたは罪を犯してしまうことになりますよ、日が暮れる前になんとかその怒りの感情を始末しなさいと言っています。どこまでも自分の正当性、自分の正しさを執念深く主張して、夜までの持ち越してしまうならば、どんなにあなたが正しくても、あなたの方に真理があってもそれは警戒しなさいと警告しています。

というのはどんなに正しい怒りであっても、その怒りの背後には、サタンがすきを狙って待ち構えているからです。真の相手は自分を傷つけた人間ではないのです。敵は相手ではなく、サタン、悪魔なのです。サタンがその人の背後にいて、あなたを試しているのです。怒りの罠に、はまるように誘惑しているのです。そしてあなたの怒りが一日一日と持ちこされて行くならば、サタンはその怒りを利用して、わたし達を攻撃してくるからです。カインが、いつまでも自分を見捨てた神を恨み、弟に対する怒りの思いを持ち続けていたがために、ついにはそれが殺人という怒りの究極まで突き進んで行ってしまいました。心の中の「怒り」という私たちの心の固い足場を利用して、殺人というところまで追い込んでしまうのです。

敵は目に見える相手ではないのです。本当の敵は悪魔なんです。その人を使って、わたし達を怒らせ、怒りを抱えたまま生活させ、眠れなくなるようにさせているのです。そして怒りを増幅させて、罪へと誘っているのです。それが目に見えない本当の敵なんです。ですから、その悪魔にすきを見せないように、怒りを持ち続けることのないように、早くその人と和解しなさい。自分の方から手を差し伸べなさいと命じています。

ですからどんなに自分が正しくても、自分の方から先に和解を申し出なさい。謝罪しなさいということです。「エッ、自分が悪くなくても謝るのですか?」と思うかもしれませんが、怒りを夜まで持ち越してはいけないというのです。怒りの感情を、感謝の感情に代えて、神への感謝をもって今日の一日を終えて、床につきなさいというのです。また他にも罪を犯していることに気が付いたら、即座に自分の罪を告白して、神の平安の内に床につきなさいと言っています。

3.怒りの対処法

今、怒りの感情を抑えることができない人はいませんか。夫婦の間では、特にこういう怒りの危険信号が出る場面があるのではないでしょうか。パウロもこう言っています。「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手をあげてどこででも祈ることです。」(Ⅰテモテ2:8)と。「ムカッと来たらまず御言葉、カチンと来たらまず祈り」です。

怒りについての対処法は、先ほどはまず御言葉に耳を傾けなさいと言いました。そしてもう一つは、祈ることです。まず御言葉を聞いてから怒ることです。祈ってから怒ることです。そうすれば愛の怒りができるのではないでしょうか。しかし、それでも相手が悔い改めない場合でも、自分の義をいつまでも主張しないで、仲直りすることです。どんなに自分の方が正しくても、自分から和解の手を差し伸べて仲直りしなさいと言っています。それは悪魔の策略に、はまってしまわないためです。

ですからパウロは「怒ってもいい、むしろ悪に対しては即座に怒りなさい。しかし、日が暮れるまでには怒りを納めて相手と和解をしてから休みなさい。」と勧めているのです。ですから、怒りをため込まないで、語弊があるかもしれませんが、普段からマメに怒ることですね。明るく怒る、笑顔で怒るという知恵が必要かもしれません。怒ることがあっても自分の感情で怒るのではなく、相手のために怒るのです。

真に怒ることのできるのは、神様だけです。主イエス様が来られるときには、すべてのことが明らかになってすべてのことが裁かれます。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」(ローマ12:19)とあります。ですから裁く権利は主にあるのです。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:20~21)とパウロも勧めています。どんな状況でも、まず御言葉を第一にし、祈ることです。そうすれば、相手と仲直りをしたり、また相手にとってプラスになる怒りができるのではないでしょうか。
         

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