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心貧しい者への福音 (イザヤ61:1~11)

メッセージ
2018年11月11日富里キリスト教会
「心貧しい者への福音」
(イザヤ書61:1~11)

1. 神の霊がわたしをとらえた

今日の個所を読んでみましょう。
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、とらわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」
(イザヤ61:1)

実はこの個所は、イエス様が初めて伝道された時に引用された箇所になっています。ルカによる福音書4:16~21まで読んでみましょう。(ルカ4:16~21を全員で読む。) イエス様はバプテスマを受けられた後、荒野でサタンの誘惑に会われました。そしてその誘惑を御言葉をもって退けた後に、聖霊に満たされてガリラヤのナザレに来て、安息日の日に会堂に入って、説教されたわけです。そしてその時の聖書箇所がちょうどこのイザヤ61章でした。そしてイエス様は、この個所を朗読された後に、「このイザヤの預言の言葉は、今日、わたしの説教の言葉を聞いたあなたがたの上に実現した。」と言われたのです。こうしてイエス・キリストの福音宣教が始まりました。今もこの預言の言葉は続いています。

福音はまず第一に、聖霊の油が注がれ、そして主の霊がその人をとらえて満たされた時に初めて語ることができるのです。聖霊様の注ぎと聖霊様の充満によって、はじめて救いの恵みの言葉が出てくるのです。ですから、逆に言いますと、聖霊を求めず、聖霊に満たされず、聖霊が存在することも信じていない人はこの福音の言葉は出てきません。それは聖書についての講演会、聖書の知識についての授業みたいなものです。宣教にはならないのです。

自分自身の罪の悔い改め、自分の弱さ、不十分さを認めてあとは主に委ねて行くことです。皆さんも経験していると思いますが、十分に調べて「よし、今日はこれで大丈夫。」だと思って出た時のメッセージは、聞く人の心を打たないことがあるのではないでしょうか。その人の自信とか知識が前面に出て、その人の弱さや欠点や罪が見えてこないのです。でも自分の不十分さ、弱さを認めてあきらめて神様の手に委ねて語った時、主ご自身が語ってくださったということを経験することはないでしょうか。ダメだったと落胆し、恥ずかしいと思った時こそ、聞いてくださる皆さんが今日のメッセージは恵まれたと言ってくださることがあるような気がします。それは自分の知恵や知識ではなく、聖霊によって語ったからです。

2. わたしを遣わして

神の霊に捕らえられた人は、神のメッセージ即ち福音を宣べ伝える者になります。「わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」とあります。聖霊が注がれ、聖霊に捕らえられ、聖霊に満たされた人は良き知らせを宣べ伝える者とされた人です。これはもう事実です。本人がいくら口を押さえても、神の霊が腹からあふれ出して、口からほとばしり出てくるのです。牧師であろうが信徒であろうが、聖霊に満たされた人はもう黙っていることはできません。

わたしも以前は口下手でした。そしてどもってしまいます。口が重く本当に話すことが一番苦手でした。その私がいつから、こんなにも雄弁になったのでしょうか。しかも普通のお話と違って、聖書の言葉を語っているのです。無口な青年が、いつからそうなったのかわたしも正直分かりません。ただ、信徒時代に牧師の話す説教を聞いていると、まるで自分が一緒に対話をしているような気持になるのです。黙って聞いているのですが、講壇で語っている牧師と一対一で討論をしているような気持ちになるのです。そして説教が終わると、わたしもぐったりと疲れてしまっているのです。もしかしたら、聴いているのではなく、霊を通して面と向かって先生と討論しているのではなかったのでしょうか。

そのうちだんだんと自分で話したいという気持ちになって行きました。聖書研究をしていても、人を差し置いて自分ばっかりが話してしまうのです。Ⅰコリント信徒への手紙14:26、29~31を読んでみてください。29節に「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」とあります。

ここにありますように、神の霊は自由に働きます。特に啓示の霊が与えられた人は、預言の言葉を語るのです。これは、自由な霊の働きですから、経験や年齢ではなく自由に誰かれなく働きます。そして聖霊が働いて聖霊が語らせる言葉を聞きながら、吟味検討するわけです。神様が真理を啓き示して語らせてくださるのです。この啓示の霊は、誰にいつどこで働くのか分かりません。突然誰かに自由に働くのです。

わたしは本当に自分がこの福音伝道者になってよかったなあと思います。今日もこうして福音を語らせていただいています。これは誰でもできることではないのです。選ばれて聖霊の注ぎを受け、満たされた者しかできない仕事です。恵みの仕事です。わたしは正直言いまして、この働きは牧師の私だけの特権ではないと思っています。クリスチャンならだれでもできるはずだと思っていたのです。そして半ば強制的に、今皆さんにもショートメッセージをしてもらっています。先ほどの第一コリント14:31にありましたように、「誰でも一人一人が預言できるようにしなさい。」とありました。皆ができるのです。牧師の特権ではありません。実際、教会では、教会学校やスモールグループで皆さん一人一人が預言するような集会になっています。

The bible said “God has sent me to bind up the broken-hearted to proclaim freedom for the captives.” (61:1) Those who were anointed with the holly Spirit should preach good news to broken-hearted. Those who were filled with the holly Spirit can become an evangelist and preacher of good news. If we do not go out to the world and proclaim good news to the people, we may be not filled with the holly Spirit. Only when we shared good news with the other people we will be filled with the holly Spirit. There are two lakes in Palestine. The one is the sea of Galilee and the other is Dead sea. The sea of Galilee is filled with pure water involved many fishes because the sea is always running water on the Jordan River. On the other hand Dead sea does not running the water only to save water. It became a sea of no fish which water evaporates and salt concentration increase. If we do not speak and share good news, we shall be like the Dead sea. Then praying to be filled with the holly Spirit, go out to the world and proclaim good news to our family and friends and the neighbors.

ときどきわたしも落ち込んだりする時があります。自信を無くしてしまうこともあります。福音を語らない、そうするとますます落ち込んでゆきます。そういう時に、出て行って誰かに福音を語るのです。そうするとまた力が出てきます。語らなければだめです。語らなければ、上からまた新しい霊が降って来ないのです。福音にあずかって半分、そして語って半分なのです。福音にあずかるために、福音を宣べ伝えるのです。この二つで一人前です。ですから、生きている限り語り続けることです。それは自分が福音に生きるためなのです。

しかも出て行ってです。聖書には「遣わす」とあります。Send なのです。派遣される、出かけてゆくのです。イエス様も最後に言いました。「あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)と。また「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ。」(マルコ15:15)と。待っているのではなく、全世界に出て行って宣べ伝えるのです。
じゃあいったいどこへ行って、誰に宣べ伝えるのですかということになります。

3.貧しい人に良い知らせを伝えさせるために

それが次の言葉です。「わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(61:1b)とあります。どこへ行って、誰に福音を宣べ伝えるのでしょうか。イザヤ書には「貧しい人」「打ち砕かれた心の人」「捕らわれている人」「つながれている人」とあります。イエス様も言いました。旧約聖書の時代には、自分の民であるイスラエルの人々はこの良き知らせを聞かずに、かえってザレパテという田舎の貧しい寡婦や、ライ病にかかった異邦人でシリア人のナアマン将軍しか預言者の言葉を聞かなかったと言っています。肝心の聞くべきはずのイスラエルの民ではなく、救いから遠く離れていた異邦人がこの良き知らせを聞いたのです。イエス様もエリヤと同じように、子にイザヤの預言の言葉が成就したと言ったら、同胞のユダヤ人に崖から突き落とされそうになりました。

貧しい人、心打ち砕かれた人、捕らわれ人、つながれている人にその罪の束縛からの解放の知らせが届いたのです。後の肝心の人々は耳を傾けませんでした。今もそうです。多くの人々はこの福音を聞きたがらないです。本当に心渇いて求めて聞く人は何人いるでしょうか。この神の語る福音、グットニュースには本当に人々を罪から救い、さまざまの束縛から解放してくださる力があります。悪魔の力、死の力、罪の力から解放してくださいます。福音はその人を罪から救ってくださることは事実です。それほどにわたしたちを愛しておられます。それと同時に、神様はわたしたちがこの状態のままであることを放っておけないほどに愛しておられるのです。昔から今に至るまで、ズーっと心の内側にある悪い部分を根から取り除くことによって、さらに良きものをもたらしたいと願っているのです。

クリスチャンになってからも、何かにとらわれている、まだ何かに束縛されて縛られている。そういう人を永遠に開放し自由を与えてくれるのが福音なのです。わたしを長い間縛っていたお墓の問題について、聖霊様によって心の中を探っていただき、お墓にまつわることで自分を縛っていた親戚のおばさん、おじさんを赦す祈りをすることができました。クリスチャンになってからも長い間、まだ血縁やお墓に縛られていたのです。縛られていたのです。

自分の先祖を赦し、親戚の方々を赦し、それらの人々を赦していなかった自分の罪をも赦されることを求めました。まだほかにも私の心の中に、人を赦していないという苦い根が残っていたのです。それらをイエス・キリストの十字架の愛によって許す宣言の祈りをしてようやく解放されました。それ以外にも、自分の心の中の苦い根について探ってもらいました。まだあります。

福音には私たちを罪から救って下さる大きな力があります。わたしたちをズーっと愛しておられます。それは信仰に入った後も犯す罪や、自分の心の中に残っている苦い根、心の傷と言ったものを、そのままの手つかずの状態にしておけないほどの熱い愛をもって愛しておられるのです。信じてもなお、自分を束縛し、縛りつけているものから完全にわたしたちを解放したいと願っておられるのです。ですから、毎月主の晩餐式を行うのです。イエス・キリストの十字架の愛と贖いの力が必要なのです。水に入って死ぬという水のバプテスマは一回限りですが、心のバプテスマは常に繰り返して受け続ける必要があります。

To whom and to where will we be sent to ? The God send us to the poor and the broken-hearted man and captives and prisoners. We should search and find those people. They are waiting for our coming and preaching and sharing the good news. After the baptism many Christian have being captives and prisoners of something. God saved us from sins and moreover the God loves us not to permit to be in painful condition and captured condition in our heart. The God want to deliver us and release us from darkness and bitter roots in our heart.
The God want to have love relationship with us continually. And the God want to give us a crown of beauty instead of ashes, the oil of gladness instead of mourning, and a garment of praise instead of a spirit of despair. (61:3) The prophet Isaiah prophesied that the day of promised will come soon. And now this is the day the Lord promised.
The salvation of grace has being begun since Jesus Christ proclaimed at Nazareth. The God can make us oaks of righteousness and delight.

そして誰も主の前に、わたしは罪がないと言える人はいません。聖霊様はいつも、わたしたちの内なる隠れた罪を顕わにしてくださいます。自分の内にあるかくれた苦い根、罪をも聖霊様がすべて呼び起こしてくださるのです。本当に不思議な聖霊様の力です。そして、今まで自分を無意識の内に縛って来た罪の鎖を解き放って解放してくださるのが福音なのです。罪を赦される神様の大きな愛なのです。罪を赦す恵みの言葉です。神様はまさに愛のお方です。聖霊様がそのようにすべての隠された事柄を明らかにしてくださり、イエス様の愛のもとへともって行かせてくださいます。

そしてわたしたちを新しく造りかえてくださるのです。「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる。」(イザヤ61:3)このようにして、わたしたちを心の内側から新しく造り変えて、喜びと賛美と輝きへと変えてくださるのです。このようにして一人一人が真に内側から変えられることによって、家庭が代わり、教会が変わり、社会が変わって行くのです。福音にはそういう不思議な驚くべき力があります。聖霊がわたしたち一人一人の上に、そしてこの教会に豊かに降り注がれるようへりくだってお祈りしましょう。(岡田 久)

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