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心の貧しい人々は幸いである (マタイ5:1~12)

メッセージ
2017年1月8日富里キリスト教会

「心の貧しい人々は幸いである」(2017)
(マタイ5:1~12)
1.心の貧しい人々は、幸いである

今朝与えられました主イエスの山上の垂訓(八福の教え)は、よく見てみますと二つに分けることができるのではないかと思います。後半の四つの教え、すなわちマイナスの「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」「義のために迫害される人々」と、プラスの「柔和な人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」という二つです。プラスの方は理解できますが、マイナスの教えはどこが幸福な生き方なのか、少し疑問を抱いてしまうところがあります。また1番目から4番目までは、神様と人間とのタテの関係を示していて、5番目から8番目までは、人間関係というヨコのつながりについての戒めだとも言われています。

第一番目の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:3)という教えは、いわゆる経済的に貧しいという意味ではなく、霊的に貧しい人という意味です。人間は、体と心と霊の三層構造を持っていると言われていますが、このいちばん奥底にある霊の部分で乏しい、欠けている、飢え渇いて求めていることが、本当の意味です。その霊的な貧しさは、何にもたとえようがないほどにその人を悩まし苦しめているものなのです。原語でも英語でも、はっきりとSpirit(=霊)となっています。

これはどういうことかと言いますと、人間は神によって造られ、神の前にあって生きていました。ところがアダムの罪によって、全人類は神の御言葉に背を向けて、神なしの世界に入り込んでしまいました。堕罪、罪の世界が始まりました。そこは恐れと欲望と比較と競争の世界です。アダムの息子カインは、弟を妬みから殺してしまいました。今日のわたし達の社会を見る通りです。しかし、人間はその罪と恐れを隠すかのようにして現代を生きています。物質的なものや経済的なもので自分を良く見せようとしたり、地位や知識で人の優位に立とうとしたり、何とかして上位につくこと、相手よりも上にいることによって自分の欠点を補い不安を打ち消そうとして生きています。それは自分の真の貧しさに気が付いていないか、あるいは気が付いていても、それを別なもので覆い隠そうとしているからではないでしょうか。

ジグゾウパズルの、最後の一個が見つからないで、焦っているようなものです。最後の一個が見つからない、いつもどこかに足りない、足りない、欠けている、欠けているという意識が残っています。その最後の一辺が、イエス・キリストの十字架なのですが、それに気が付いているのか、見ないふりをしているのです。そしてどこかに、一抹の不安と恐れを抱きながら生きているのが現代人ではないでしょうか。唯一の最後のピースである、イエス・キリストの十字架を、心のいちばん深い所に入れないと収まりがつかないのです。

ですから人間は皆、生まれながらにして不安や恐れを持っているのです。誰でもです。でもここで大事なことは、主イエスが言ったとおりに、「霊的に貧しい人々」なのです。日本語の聖書では「心の貧しい」となっていますが、霊的に貧しい人々の方が正しい訳だと思います。霊的に欠けている、貧しい人々は最高に幸福な人ですと言っているのです。いかがでしょうか。皆さんはそういう必要をお持ちでしょうか。

「わたしは霊的に欠けている。」「霊的に貧しい人間だ。」という意識と自覚をお持ちでしょうか。もし、そういう自覚と意識のない人は、もっともこの世で不幸な人だと言うことになります。幸不幸の基準は聖書では全く違うのです。あるいは、もう自分は霊的に豊かな人間だと思っている人も、果たしてそうでしょうかと反問してみることが必要です。霊的に貧しい人こそ、この世で最も幸福な人であり幸いな人生を送っているのです。そしてそういう人こそ、天国に入ることができるのです。いやもう既に入っているとイエスは教えています。

それが、イエス様が最初に出会ったユダヤの指導者ニコデモでした。彼は今日でいうならば、東大教授でもあり最高裁の判事でもあり、国会議員でもあるような地位と肩書を持った人間です。そのユダヤ教の指導者である立派な人でさえ、自分の人生についての悩みと飢え渇きを持って、ある夜こっそりとイエス様のところを尋ねて来たのです。心の奥底に、何にも癒されない空しさを抱えていたからです。一体どうしたら生まれ変わって、神の国に入ることができるのかと真剣に考えていました。

皆さんがもし東大の教授だとしたら、ノーベル賞をもらうような学者だったとしたら、国会議員だったとしたら、それでもう自分の人生は満足ですか。ニコデモは、どうしてもイエス様にお会いしたかったのです。立場上、人に見られてはまずかったので、人目を忍んで夜こっそりと訪問しました。彼は本当に、霊的に貧しかったのです。そこで密かに主を尋ねました。そして彼は、時間はかかりましたが3年後には主イエスを主として信じて、その十字架の遺体を引き取りました。彼はようやく自分が探し求めていたもの、天国を手に入れました。この最高の幸せを手にして天国に帰って行きました。「霊的に貧しい者は幸いである」の言葉の通りです。

皆さんはいかがでしょうか。自分は本当に霊的に心貧しい者だと思っているでしょうか。この世界に真実の正義を、探し求めているでしょうか。皆さんの心は飢えているでしょうか。渇いているでしょうか。そういう人々は最高の幸せ者です。天国はそういう人たちのものだからです。聖書はそのことを教えてくださいます。ですから、心から飢えている人が食べ物を必死に求めるように、喉の乾いている人が水を求めるようにすることです。そういう人が最も幸福な人なのです。そのような渇き、そのような貧しさのない人は、不幸な人であり、天国からも遠ざけられてしまいます。

2.悲しむ人々は幸いである

次に「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(5:4)という教えを見てみましょう。これも不思議に思うことは、何で悲しんでいる人が幸福なのですかという率直な疑問です。みんなそれぞれ、誰でも悲しいことは持っていると思います。愛する人を亡くして悲しむ。試験に落ちて悲しむ。恋人にふられて悲しむ。人生悲しみのない人生などありません。わたしの知っている小学生の女の子が、「わたし『悲しみノート』を作っているの」と言っていたのを覚えております。小学生のころから、すでに悲しみは始まっています。

でもわたし達は、なるべくそのような悲しみは人様に見せないようにしていることはないでしょうか。自分が悲しんでいる姿、自分が涙している姿なんか人に見せたくありません。人前に弱さを出したくないのです。ですから、悲しくても悲しくないふりをします。でもイエス様はわたしたちの、「悲しんでもいいのだよ」と言ってくださっています。いや「悲しんでいる人の方が幸せなんですよ」とさえ言ってくださっています。

聖書の中にも登場していますが、一人の金持ちの青年のお話(マタイ19:16~22)があります。彼はイエス様に「先生永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらいいでしょうか。」と尋ねました。彼は、「自分は完全に律法を守って来た」と言い、「他に何が足りないでしょうか」と尋ねました。するとイエス様は、もし完全になりたいと思うなら、自分の持ち物を売り払ってから、わたしに従って来なさい。」と言われました。この言葉を聞いた青年は、がっくりと肩を下ろして、悲しみながら主イエスのもとを離れて行きました。

イエス様はここでも、この自信ありげな青年に、彼のできないこと、即ち彼の全財産を売り払って貧しい人に施してから、ご自分に従って来ることを求めました。すると彼は悲しみながら立ち去ったのです。あたかも主は彼が、そのようなことができないと言うことを前もって知っていたかのように、彼をつまずかせました。イエス様は、そういう自分を第一とし、自分の義を建てる人に対しては、はっきりと彼らのできないという弱さと限界と不完全さを示されたのです。そして彼の傲慢さを打ち砕いて、悲しみと絶望へと突き落としてしまったのです。あえて、自分の弱さ、不完全さ、不十分さ、傲慢さを知らしめて、悲しみに淵に落とされたのです。

この悲しみの結果、この金持ちの青年は、自分の罪を悔い改めて、イエスに従ったか、あるいは悲しみの果てに自殺をしてしまったかは書いておりません。でもわたしは、この青年は心から自分の傲慢という罪を悔い改めて、主の後に従ったのではないかと思います。一説では、これは若い時のパウロではないかとも言われています。そういう意味で、悲しむ人々は幸いなのです。その人たちは必ず慰められます。悲しみが喜びに代わります。自分の弱さや欠点を知ったものだからこそ、その欠点や弱さを通して、主の慰めと希望が与えられるのです。

神の御心にかなった悲しみは、真の救いに至る悔い改めを起こさせます。この場合の悲しみは、神の御心にかなった悲しみでしょうか。この世的な悲しみは、悲しみの果てに、その人を死へと追いやってしまいますが、神の前における悲しみすなわち神様の御心にかなった悲しみは、心からの悔い改めへと導いてくれるものです。

3.柔和な人々は幸いである

この八福の教えのうち、前半の四つは、神様とわたしたちの関係を述べた教えになっています。そしてこの前半の四つの教えに共通していることは、どれも神様を第一とするために、自分というものは第二に置くと言うことではないかと思います。人間のいちばん深い霊の領域で、自分に欠けていることに気づき、そのことを認め、天の国、すなわち神様の完全な御支配を受けようとする人々は幸いな人なのです。天の国というのは、神様の御支配という意味ですから、やがて天上に帰ると言うことも含めて、今の現実の中で、神様の御臨在を強く感じることができると言うことです。

「心の貧しい人々」とは「霊的な部分において」欠けていると言うことを認めることです。「悲しむ人々」とは感情の場である心の中に悲しみを持っていると言うことです。「柔和な人々」とは、その行いと態度においてへりくだっている、自分を王としないで、謙遜な態度に徹していると言うことです。「柔和な人」というのは、本当に心砕かれて、へりくだり、謙遜になって主に従って行く人のことです。そのような人が、神様の約束を受け取って行くことができると言うことではないでしょうか。主に完全に信頼してゆく生き方です。

ちょうどこの人間の三重構造について、内側から、霊の部分、心の部分、体の行為態度の部分と、この三つの要素について、この山上の垂訓は順番に教えているような気がします。霊の部分は「霊的に貧しい人」、心の部分は「悲しんでいる人」、体の部分は「柔和な人」とわたし達の全存在についてのあるべき姿を教えているような気がします。

詩篇に「主に信頼し、善を行え。この地に住みつき、信仰を糧とせよ。主に自らを委ねよ、主はあなたの願いをかなえて下さる。あなたの道を主に任せよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせて下さる。」(詩編37:3~6)という御言葉があります。柔和な人々には、イエス様の十字架に示された神の真の義が与えられ、心に慰めを受け、この世の中にあっては神の国を受け継ぐ者となって行くのです。そのことが人生の最高の幸せではないでしょうか。まず神を第一とすること、そしてこのお方以外に頼るべきものはないと思って、信頼して委ねて行く人生です。そういう人こそが真に幸福な人生を歩むことができるというのです。

しかしながら、そういう生き方は、この世にあっては、迫害され、ののしられ、自分の身に覚えのないことで悪口を言われる生涯でもあるというのです。たとえ周りから迫害を受けても、神様との関係がしっかりしているならば、どんな迫害も悪口も取るに足らないというのです。むしろそういう時にこそ喜びなさいと教えています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(5:11~12)

わたしたちの人生は、この世の喜びや、この世の幸福感とはかけ離れているかもしれませんが、この主の教えによって、この世のどんな貧しさも、悲しみも、迫害にも耐えて行くことができるのではないでしょうか。いやむしろそのことを喜んでゆく生き方をしてゆきたいと願っています。  

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