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心の目が開かれる (ルカ24:36~53)

メッセージ
2019年4月21日富里キリスト教会
「心の目が開かれる」
(ルカ24:36~53)
1. 復活の体

今日はその時に起こった出来事についてのお話です。
「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」(ルカ24:36~43)

ここに復活されたイエス様の様子が詳しく書かれてあります。復活されたイエス様は、壁やドア越しに部屋の中を自由に行き来ができたようです。エマオの宿屋でも、突然弟子の二人の目の前から姿を消されました。ですから弟子たちは、幽霊を見ているかのように恐れたのです。しかし復活のイエス様には、ちゃんと肉も骨もありました。しかも釘と槍の傷跡も見せられました。復活の体は、骨や肉体はそのままですが、物質を通して自由に行き来ができるようです。

それでも驚いて不思議に思っている弟子たちに、今度は焼き魚を食べて見せました。復活されたイエス様が、わざわざ焼き魚を食べて見せるということは、少し違和感を感じますが、皆さんはどう思いますか。多分魚の種類は、鯵とか鰯ではなく、ガリラヤ湖特産の骨の多い魚で、一般にペテロの魚と言われているもののようです。その魚をわざわざみんなの前で食べて見せられました。つまり復活の体と言いますのは、単なる霊的存在ではなく、しっかりと物理的な要素も持っているということになります。

つまり復活の体と言いますは、このアダムの土からできた肉体を持ったままでも、イエス様の上から来る霊的な体を身にまとう時に、この肉体の体であってもイエス様のような生き方ができるということではないでしょうか。今ちょうど春の種まきの時期です。畑や花壇にいろんな植物の種がまかれています。しかし、あの小さな種粒が、地面に入って死ぬことによって、新しいきれいな花びらやおいしい実をつけた体に成長します。

千葉県の名産の落花生はそのことをよく表しています。きれいな黄色い花が地面に落ちることによって、そこにおいしい落花生の実がつくのです。「花が落ちて生きる」と書いて落花生と言います。自分が死ぬことによって実をつけて行く、それが復活の体だと言っているような気がします。ですから、自分という古い肉の自分に死なないで、良い実を一生懸命つけようと思ってもなかなか実がついてきません。おいしい実をつけるためには自分という古い自分、肉の自分、自分中心の自分に死ななければならないのです。自分に死んだならば、実をつけることができるのです。

Jesus could move through door and wall like a ghost. But he showed his hand and feet and ate the baked fish. I thought that resurrected body may have two elements of body and spirit. After death our spirit will ascend to paradise leaving from the body. While we are living we are trying to have a heavenly and spiritual dwelling on our earthy and fleshly body. We do not wish to be unclosed but to be clothed with our heavenly dwelling. So we are now fighting for faith to be swallowed up by life of Jesus.

わたしたちがこの肉体を持ったままでも、古い肉の自分に死んで、イエスキリストに生きるならば、キリストと似たような生き方と行動が起こってくるのではないでしょうか。それが復活の体だということもできます。肉と霊の二つの要素、地上と天上という二つの要素がありますが、肉の自分に死ぬことによって天上霊的な自分に変えられてゆくのです。ですからわたしたちはもうすでに、この地上の肉の体の上に、復活の体を身に着けているのです。生きていても死んでからでも大事なことは、常に主と共にいて主に喜ばれる者でありたいと願っています。でも今は、この肉の自分が完全に霊の体に覆われてしまうことを願って、信仰の闘いを呻きながらしていると言っても過言ではありません。(Ⅱコリント5:2~5)

2.聖書を悟らせるために心の目を開く

肉と霊の狭間にあって、いつも呻き苦しんでいるわたしたちです。イエス様のようになりたい、主に従って行きたいと願いつつも、現実の自分を見る時にそうなっていかない自分の姿を見せつけられます。復活なんて本当だろうか、人間は死んだら復活して天国に行けるのだろうか。そんな場所あるのだろうかと疑ってしまうわたしたちです。疑いと恐れの塊のようなクリスチャンです。そのような古い肉の自分を変えてほしい、どうしたら復活の希望と確信を持つことができるのだろうかと、考え悩んでしまうわたしたちです。そのためにどうしたらいいか。その復活の確信を与えて下さるのが、聖書の御言葉なのです。ですからそのように疑っている弟子たちに対して、主はもう一度聖書の御言葉からていねいに説明をしてくださいました。

「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:44~49)

何度も申しますが、ルカの狙いは、イエス様による聖書全体の説明の大切さです。落ち込んでいる弟子たち、疑っている弟子たち、彼らを元気づけ復活信仰へと立ち上がらせてくださるのは、この聖書以外にないということです。まさに、「信仰は聞くことに始まり、聞くことはキリストの言葉から来るのです。」(ローマ
10:17)とパウロが言っているように、信仰はキリストの言葉から来るのです。しかもこのルカ24章では、聖書を歩きながら一生懸命熱心に説明してあげているのもイエス様です。その時二人の弟子の心が熱くなりました。この経験です。「聖書に書いてあることが本当だと、今わかった。」これが心に熱いものがこみあげてくる瞬間です。心の目が開かれる瞬間です。

そして聖書を説明して下さるだけではありません。イエス様はわたしたちが聖書を悟ることができるように、心の目を開いて下さるお方です。ですから、いくら聖書を熱心に読んでも、イエス様に「イエス様、どうかわたしの心の目を開いて下さい。そうすれば聖書が分かりますから。」と祈って読まないと解らないのです。聖書を悟ることはできないのです。ただ読んだだけでは、心の目が塞がれていますから真理が分かりません。目の上にうろこが張り付いている状態です。この自分の目からうろこが落ちることが、心の目が開かれることです。古い表現ですが、霊的な心眼をもってしてでないと聖書を悟ることができないのです。

皆さんは聖書をどのように読まれていますか。復活の主にお会いしたいならば、簡単です。まずイエス様に祈って、「わたしの心の目、霊の眼を開いて下さい。」と祈りましょう。単純なことです。今まで聖書を読まなかったことを悔い改め、心を一新してもう一度聖書に向き合うことです。そうすれば必ず、主はわたしたちの心の目を開いて聖書を悟らせてくださいます。

イエス様が心の目を開いて下さらなければ悟ることはできないのです。聖書は心で読まなければなりません。詩を読むような気持、俳句を読むような気持で、心を静め、心を開いて祈りつつ読まない限り、聖書を悟ることができないのです。俳句もそうですね。意味が分からなくても何回も何回も思い起こし、口ずさんでいる時、ある時はっと俳句の意味が分かる時が来ます。それがいつ来るか分かりませんが、これが目が開かれる瞬間です。尺八もそうです。音が出るようになるまでには、最低8年かかります。「首振り三年、コロ八年」と言われています。同じように、「聖書の理解に三年、語るに八年」と言い換えてもいいような気がします。あせることはありません。時間がかかるということです。

極端な話ですが、旧約聖書はこの数行の言葉にまとめられるし、このことについて記しているのが旧約聖書だと言っても過言ではありません。そしてその時に、彼らの目が開かれたかどうかは記してありませんが、エマオでの弟子たちの例で言いますと、復活のイエス様だと悟った瞬間に、イエス様の姿が消え去りました。このようにして復活されたイエス様は、弟子たちが聖書を悟るまで、何度も何度も復活して現れて、聖書を説明して下さったのです。復活から40日間も、イエス様は不信仰な弟子たちのために働かれました。40日というのは、イエス様にとっては苦難の時でした。心が鈍く、目が開かれていない彼らのために苦労したのです。

We are always wondering in unbelief and doubt. We cannot believe the resurrection because we cannot prove and investigate the fact of resurrection. So what should we do to make sure of the resurrection.
Jesus tried to give us the conviction of resurrection by enlightening the bible. Only Jesus can make our spiritual and inner eyes open. “Then Jesus opened their minds so they could understand the scripture.” (24:45) we should pray to Jesus to open our eyes at first. We cannot understand the bible without faith to pray to Jesus. When you read the Bible do you pray to Jesus to open your eyes of mind? Jesus has been encountered disciples with patience and love for many times and long times of 40days. Please stay at church not leaving the fellowship of Christians until you have been clothed with power from the heaven.

でも大事なことは、イエス様が言いました。「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力が覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(24:49)と言いました。上からの聖霊の力が与えられるまで、都を離れてはいけないというのです。別な言葉で言いますならば、上からの聖霊様の力が与えられるまでは、教会を離れてはいけないということです。信仰が分からない、聖書が分からないと言って教会から離れないように、時がくれば必ず上から聖霊様の力に覆われて、心の目が開かれ、力を受けてみ言葉を語り出す時が来ます。

3.主日礼拝の始まり

そしてイエス様は、40日間弟子たちと共に過ごされ、ついには天に帰られる時が来ました。「イエスは、そこから彼らをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(24:50~53)

40日間復活の主と出会って、弟子たちはようやく主が復活されたことを確信できるようになりました。そして主はベタニヤ村の近くまで、弟子たちを連れて行って、そこで天に帰って行かれました。そのときに主は手を上げて祝福の祈りをささげました。こうして祝福をしながら天に昇って行ったのです。その時弟子たちは、イエス様をひれ伏して拝みました。礼拝を捧げたのです。そしてみんなでエルサレムに帰って行って、絶えず神殿の境内に行って、神様をたたえていました。十字架に架かってからの疑いと不安だらけの弟子達とは、全く心も態度も変わっていました。

もう自分たちも捕まるという恐れもなくなりました。堂々と神殿に行って、神をたたえて礼拝していたのです。彼らは確かに復活の主に出会いました。その証拠には、恐れが消え去っています。疑いも消え去りました。まだまだ祭司たちがガリラヤ出身のイエスの残党を狙っているにもかかわらず、神殿で堂々と礼拝をしていたのです。しかも大喜びです。もう彼らからは、逮捕や死という恐怖心が消えていました。イエス様が死んで復活したからには、もはや自分たちを縛っている死とか迫害と言った恐れが消え去ったのです。

After seeing the ascension of Jesus they came back to Jerusalem. Then they worshiped the God with great joy. They stayed continually at the temple praising God. After 10days from the ascension of Jesus, the great power of the Spirit rain down upon them and they were clothed with the power of the Spirit. The gospel of Jesus will spread from Jerusalem to the end of the world.

そして主が約束されたとおりに、復活してから50日目に彼らの上に聖霊が激しく降りました。弟子たちは力を受け、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリヤの全土まで、そして地の果てに至るまでキリストの証人として大胆に伝道してゆくことになります。復活の日から数えて50日目に、聖霊が注がれるペンテコステの日がやってきます。まさに聖書に書いてあるとおりのことが成就しました。主は「上からの力を与えられるまでは、教会に留まっていなさい。必ず、一人一人に上からの大きな力を、聖霊様を通して分け与える。」と言いました。そのためにもこの標語にありますとおり、絶えず喜びと感謝をもって、主を崇め、感謝と喜びの礼拝を捧げてまいりましょう。復活された主は、今も共におられ、共に歩んでくださっています。(岡田 久)

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