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御顔の光の中へ (詩編90:1~17)

2019年10月6日富里キリスト教会
「御顔の光の中へ」
(詩編90:1~17)
1. 神の永遠性と人間の限界

この詩編のテーマが1~2節に述べられています。
「主よ、あなたは世々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」(90:1~2)ここに神様がどういうお方かということが述べられています。まず神はわたしたちが宿るところ、すなわち雛が親鳥の翼の蔭に隠れて、敵から身を守ってもらい、いつも食べ物をいただくことができるような安心できるお方なのです。

そして本来、人間は神によって土とチリから造られました。そして神と共にエデンの園で永遠に生きておりました。神と共に、神に養われ、神に愛され、守られてわたしたちは永遠に生きていたのです。全てが神の手によって造られた完全な、そして永遠に続く世界でした。ところが人間はサタンの誘惑によって、自我という目が開かれ、自分が神のようになろうとしました。神の御翼の中に宿るのではなく、自分で独立して、自分で自立して生きてゆきたい、神から離れ、神無しで生きて行けるという思いが芽生えてきたのです。アダムの原罪です。わたしたちはその子孫であり、今日の罪の世界に生きる人間の現実の姿です。

そこには比較と競争の自己中心の世界です。コンプレックスと優越感の世界、生きるか死ぬか、食うか食われるか、勝つか負けるか、敵か味方かと言った世界です。そして人間は今日に至るまで、果てしない比較と競争の罪の世界に生きてきました。そして最後には死を迎え塵に帰るのです。なぜ人間が死ぬのか、土に帰るのか、それは神の御言葉に逆らって、園の中央の木の実を食べてしまったからです。み言葉に背く、これが罪を示しています。そして神の御言葉に背いた結果、あなたは必ず死ぬといった主のことばどおりに、人は死んで塵に帰らなければならないという空しい人生になってしまったのです。

残念ながら、それが今日の人間の世界の現実です。そのような人間の人生を詩人は、花に譬えています。「あなたは人を塵に帰し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には、昨日が今日へ移る夜の一時にすごません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」(90:3~6)
「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消え失せます。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(90:9~10)

人の人生は一瞬だと言っています。しかもため息をする間の一瞬のようなものです。その短い人生は、なおかつ労苦と災いにすぎないというのです。ですから、自分の人生に嘆いている人は幸いです。自分の人生を恨んでいる人は幸いです。自分の人生は空しいと思っている人は幸いです。自分の人生は短いと思っている人も幸いです。なぜなら、その人は自分の人生に失望しているからです。そして自分にも失望しているからです。そういう人ほど、この世で最高の人はありません。最高に幸せな人です。

なぜ私がそのような皮肉のようなことをいうかと言いますと、人間はつまらないことにあまりにもあくせくしているからです。明日は何を食べようか、何を着ようか、保険何に入ろうか、どんな家に住もうか、何にもならない人生設計にあくせくしているからです。お金をいくらためて、家を買って車を買って、旅行に行って楽をしよう、楽しい思いをしようということに明け暮れて、それがあたかも自分の人生のすべてであるかのように生きている人が多いのです。

私達の人生は瞬く間に消え去り、飛び去り、過ぎ去るのです。平均で70年、長寿の人で80年だそうです。でも今はもっと長生きします。100歳まで生きてどうするのですか。それよりもあなたの人生は後何年ですと宣言されている人の方がラッキーです。ただ長々と長寿の垂れ流しのように生きるのは意味がありません。大事なことは自分の本文を知るということです。自分の寿命を知ること、限界を知ること、死が近いことを知ることです。自分があと何年生きれるかを知ることが幸福な人生です。ですから、がん宣言されて余命何年ですと宣言された方がいいのです。あなたは死刑囚で、後何年間で刑の執行がありますと言われた人の方が幸福ではないでしょうか。

大事なことは命の延命ではなく、限られた人生の時間帯に、いつ永遠なるお方と出会うかです。このお方を知って、この永遠なるお方を受け入れるならば、わたしたちも永遠に生きるのです。わたしたちは皆死刑囚のようなものです。皆ガン宣告患者です。なぜならみないつかは必ず死ぬからです。この死の門からは逃げられません。ある日生まれて、すぐ死を迎える人もあるでしょう。普通に生きて70年を迎える人もいるでしょう。長寿を全うして100歳まで生きるかもしれません。でも大事なことは、この限られた人生の中で、いつ永遠なるお方と出会うかです。なぜなら1歳も70歳も100歳も、神の目からは一瞬の瞬きにすぎないからです。

でも、この永遠なるお方を知ったならば、その人も永遠に生きるのです。いつ永遠なる神の懐に飛びこむかです。自分の限界を知ることです。自分の有限性を知ることです。あと何年生きながらえるかえ数えることのできる人は幸いです。なぜなら、みんな自分は死なない、いつまでも生きる、もっと生きる長生きする、健康でいたいという空しい願望をもって生きているからです。永遠なるお方の前にひれ伏していないのです。まだ自分が神様なのです。なぜ人間の人生はむなしく、自分の命もはかない者なのかということも知らないでいるのです。そしてその死の原因が何かということを知ろうとしないのでしょうか。

死の原因は何ですか?先ほども言いましたように、そして何度も言いましたように、それは罪です。あのアダムの犯した原罪です。わたしたちはその子孫であり、生まれつきの罪人なのです。このことを誰も認めないのです。まだ自分には罪がない、自分は正しいと思っているのです。しかし、罪を犯しているから死ぬのです。人生は空しいのです。ローマ書5:12に「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」とあります。

2.御顔の光の中へ

ではどうしたら私たちは、自分の生きることのできる年数を数えることができるようになるのでしょうか。その大事な言葉が90:7~8にあります。
「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」(90:8~9)何故私たちは短命で空しい人生を送らねばならないのか。それは神の怒りのもとに置かれているからです。罪を犯した人間は、神の御顔を避けて隠れました。

神様から逃げたのです。会わないようにしたのです。何故でしょうか。それは簡単です。恐いからです。罪を犯した自分たちを神は怒りで、罰を与え滅ぼされてしまうのではないか。有罪宣告を受けるのではないか。だから御顔を避けて逃げるのです。神の顔が恐ろしい怒りに満ちた鬼のような顔に見えるのです。本当の神を知らない人間は、神の顔を鬼の顔にします。それは罪を持っているから、そしてそれを隠しているから鬼の顔になるのです。ですからいまだに、世の人は誰も神の顔の光の元に来ません。恐いからです。

でも詩編の記者は、「隠れた罪を御顔の光の中に置かれます」と言っています。怒りの顔の前に置くのではないのです。神の御顔の光の中に置いて下さるのです。光はわたしたちの隠している罪もすべて、ことごとくを照らし出します。何も隠れるものはありません。いや隠し通せる罪はありません。全ては神様の目の前に明らかなのです。イエス様はこう言いました。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行う者は、みな光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:19~21)

既に世を照らす真の光がこの世に来られました。しかし多くの人々はこの光から目をそらし、光を憎みました。自分の罪が明るみに出ることを嫌がったからです。でも、この詩編の作者は、隠れた罪を光の中に置かれますと言っています。確かにわたしたちの隠している罪を光にさらされて、暴かれます。でも、その光は罪に汚れのゆえに私たちを打つでしょうか。罰を加え、滅ぼされるでしょうか。そうではありません。この光は愛の光です。恵みの光なのです。ですから、わたしたちは遠慮をせずに堂々と光の前に出てもいいのです。安心して自分の心を包み隠さずです。「すべての人を照らす真の光です。」(ヨハネ1:9)

そこにはもはや自分のプライドとか、自分を正しいとする自己中心の自分はありません。主の前に降参し、明け渡して、処罰を覚悟で出るのではないでしょうか。あの放蕩息子のように、ただ父の前に言って涙を流してひれ伏すしかないのではないでしょうか。その時父は、何の償いも要求せず、悔い改めた息子に対して、無条件で元のこどもの資格を返してあげたではありませんか。そして身分を回復しました。いや何よりも、臭いのする汚れたわが子を、無条件で抱きしめたではありません。そしてきれいな服を着せ、息子のしるしである指輪をつけてくれたではありませんか。

わたしたちも自分の罪を持ったままで、包み隠さず主の前に出ようではありませんか。心の向きを変えることです。神を選ぶことです。これを悔い改めると言います。悔い改めるならば、主の前に心を明け渡して出るならば、主は何の見返りも求めることなく、わたしたちを受け入れて下さり、元の子たる身分を返してくださいます。愛の光で包んでくださいます。そして主の恵みに生きる人生へと造り替えてくださいます。何歳まで生きるという人生ではなく、いつ死んでもいい人生です。なぜならば、そういう人はすでに罪の自分に死んでいるからです。そして永遠なるお方緒と主に歩み始めているからです。たとえわたしたちが死んでも、永遠なるお方が生きていますから、わたしたちも永遠に生きます。生きよう生きようとする空しい人生ではなく、主にあって生かされている感謝と喜びの人生です。

3.主よ、帰って来てください。

最後になりますが、13~15節は、主の恵みによって罪を悔い改めた者の祈りになっています。先ほどの死刑囚の祈りです。がんの宣告を受けた者の祈りです。
「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に会わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。」(90:13~15)

間もなく死を迎えている人が、暗くつらい人生の中で、一筋の光に出会った時の祈りです。毎朝、主の御顔の光を仰ぎ見ながら、主の愛と慈しみ、永遠の命を感謝して、喜びに満ちたらせて下さいと祈っています。今までの空しくつらい罪の中にあった人生を、もう一度生きることができるように、しかも今度は喜びと祝福の内に歌いながら過ごすことができるようにと祈っています。

これは主の再臨を待ち望む祈りです。自分の人生はここで空しく終わりを告げるかもしれない、でもその後に主と共に永遠に生きる喜びの人生が待っているというのです。死んでしまえばそれで終わりの人生ではないのです。死んだ後の永遠の神と共に永遠に生きる最高の幸せを待ち望んでいるのです。帰って来てくださいという言葉は、英語ではReturn oh Lord! となっています。主の再臨を待ち望んでいるのです。たとえ死刑囚ではありましても、そこには大きな希望と喜びがあります。

死後の世界の喜びを待ち望みながら、この詩人は毎朝、毎朝その時のことをはるかに遠く仰ぎ待ち望んで、喜んでいるのです。長く生きることではなく、死んだ後の世界、永遠なる主の御翼の中に入って、主と共に永遠に生きることの幸せを求めているのです。「主よ、あなたは世々にわたって、わたしたちの宿るところです。」との喜びを祈っているのです。死ぬ前も、そして死んだ後も、大事なことはこの永遠なるお方と共にいることなのです。たとえ死の床にあっても、死を宣告されても、そこには永遠の命への喜びと希望が満ち溢れ、満ち足りた人生を生きているという感謝以外のないものもないのではないでしょうか。(岡田 久)

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