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御言葉を聞いて行なう (マタイ7・21~28)

メッセージ

2010年5月9日富里教会
「御言葉を聞いて行なう」
(マタイによる福音書7:21~28)

1.御言葉を聞くだけで行わない者

「『そこで、私はこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。』」(マタイ7:24~27)とあります。

どうして、この家は、こんなひどい倒れ方をしたのでしょうか。その答えは明白です。砂の上に家を建てたからです。簡単に手っ取り早く、安く、早く完成しました。一応、一戸建ての新築住宅が完成しました。他の家とそんなに変わりません。しかし、目に見えない部分を見れば、肝心の家の土台は柔らかく、やがて欠陥住宅になるということは明白です。それを買った人は大損害を受けてしまいます。

この欠陥住宅とは、誰のことを言っているかと申しますと、主のみ言葉を聞いても、それを行なわなかった人ということです。残念ながら、聞くだけのクリスチャンが意外と多いということです。聖書の話も、説教も、またいろんなテキストを使って学んではいるけれども、実際にその御言葉に従わなかったということです。信仰とは、その御言葉を信じて、その御言葉に従う時、初めて体験する者だといっても過言ではありません。

でも、ある人は、「私たちは祈りました。」というかも知れません。もちろん祈りは大切なことですし、祈ることも御言葉に従うことです。でも、祈った者は、祈りを通して神様の御心を求め、御言葉に従う者になってゆくはずではありませんか。もしかしたら、自分の祈りが、神様の御心にかなった祈りではなく、自分の願望、自分の願い、自分の意志で祈っていることはないかどうかを確めてみる必要があります。そのような、間違った祈り方をしている例が、このたとえ話の前の5:21~23に出ております。

「わたしに向って、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行なったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れされ。』」

彼らも、一生懸命「主よ、主よ」と祈っています。この言葉から、よほど熱心に祈っている様子が解ります。この人たちは、すばらしい霊の賜物をいただいき、預言をしたり、悪霊を追い出したり、数々の奇跡を行なっています。大伝道者のようです。私もこのような賜物が欲しいくらいです。でも、彼らは、最後にイエス様から、「お前なんか知らない」と言われ、天国から閉め出されました。なんと寂しいことでしょう。いや、なんと恐ろしいことでしょう。

どうしてでしょうか。それは、たとえ熱心に祈っても、天の神様の御心を行なっているかどうかが問題なのです。神様の御言葉をしっかりと聞き届け、神様の御心を実行することが「父の御心を行なう者」(7:21)なのです。ですから、自分の願いや願望で「主よ!主よ!」と必死に訴えて、すばらしい奇跡を行なっても、それは御言葉を聞いて行なうことにはならないのです。御言葉を聞くということは、神様の御心をまず求めることです。

私はここまで来て、もしかしたら自分がこの不法を働く者のようではないだろうか、と少し不安になりました。主に向って、霊の賜物を熱心には求めるが、御心にかなった求め方をしているだろうかと反省させられました。

2.御言葉を聞いて行う者

でも、イエス様はこの流された家のたとえ話を通して、たとえ、人生の中で、嵐に出会い、自分の存在もろとも、あるいは家財産もろとも流されてしまうような大損害をこうむっても、その嵐を通して、その苦難を通して、私たちがゆるぎないイエス・キリストの御言葉という土台に、足をつけて歩むことを望んでいるのではないでしょうか。これは人生の教訓です。一度流されたら、今度建てる時には、主の御言葉に聞いてそれに従い、岩の上に家を建てることことを願っておられるのではないでしょうか。

このお話をされてから、主は山を降られました。その後に、二つの出来事がありました。一つは一人のらい病を患っている人が、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(8:2)と言いました。するとイエス様が手を差し伸べて、「清くなりなさい」と言っていやして下さいました。この病人は「御心ならば」という願いを持って訴えました。「治してください!治してください!」ではなく、まず神様の御心を第一に求めたのです。その信仰を主は見られました。

その次には、異邦人の百人隊長が近づいて来て、「一言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕はいやされます。」と言いました。「主の御言葉さえいただければそのとおりにします、私は兵士として権威の下にあるものですから、神の権威に従います。」と言ったのです。すると、イエス様は「イスラエルの中にも、これほどの信仰を見たことがない。」(8:10)と言って、その隊長の僕をいやされました。この兵士は、御言葉の権威に、絶対服従しますという信仰をもっておられました。その信仰を主は見られました。

これが御言葉を聞いて従う信仰です。神様の御心をまず第一に求め、この御言葉に服従する信仰です。ここに奇跡が起こりました。自分の能力や自分の名声のために奇跡を行なうのではありません。同じ奇跡でも、そこには大きな違いがあります。最後に、イエス様から「知らない」と言われることほど、悲しいことはありません。ですから、普段からイエス様とよく対話をし、何が主のみ心はどこにあるのか、祈りながら判断して慎重に対応してゆくことです。

岩の上に家を建てるということは、実に時間がかかります、手間もかかります。ある新築住宅の建設現場に行きましたら、家の基礎工事に莫大な時間と費用をかけている方がいました。上ものを造るのと同じくらい、基礎工事に時間と費用をかけているのです。それだけ、見えないところに時間をかけて、しっかりと硬い岩の上に家を建てているのです。その固い基礎の上に家を建てます。

基礎である岩の土台と建物を接着させるのに、時間がかかります。岩に穴をあけ、そこに柱を立てます。岩と木材がピッタリするように、木材も岩も滑らかになるまで、削るという作業があります。先がとがっている「自我」という出っ張りを削り落とさなければなりません。この心の角を取るために、カンナで削ったり、のみで削り落としたりしなければなりません。根気のいる、また時間のかかる作業です。耐震構造、防水工事、強風対策も必要です。このように、どんな嵐が来ても、また大水が出ても、絶対に流されない工事や施工をしなければなりません。そのためには時間がかかります、労力がかかります。でもそういう地道な長い作業をすることによって、建物が、この固いイエス・キリストという岩にがっしりとつながれるのではないかと思います。

主の御言葉に聞いて、主の御言葉にとどまり、主の御言葉を行ってゆくならば、必ず豊かに実を結ぶ者となります。信仰生活というのは実際に、そこに生きてみなければ見えてこない生活です。御言葉に聞いて実行してみなければ分からない世界です。主の権威に従う、そういう思いが信仰ではないでしょうか。ヤコブ書の中に「御言葉を行なう人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終る者になってはいけません。信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」(ヤコブ1:22,2:14)とあります。

人は信じるためには、行いは必要ありません。行いによっては人は救われません。信仰によるだけです。(エフェソ2:8~9)でも、一度信じた者は、神様が生きておられ、実際に私たちの生活の中で、働いておられることを信じて主の御心を行なう者となりたいものです。          
                                         (岡田 久)

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