ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

御言葉を信じて帰る (ヨハネ4:46~54)

メッセージ

2015年10月25日富里キリスト教会

「御言葉を信じて帰る」
(ヨハネ4:46~54)

「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやして下さるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちにおいでください。』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『昨日の午後1時に熱が下がりました。』と言った。それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」
(ヨハネ4:46~54)

1.へりくだって必死に御言葉を求める

A)へりくだる

この人は王の役人であったとありますから、相当身分も地位も高い人物でした。しかし、その人の最愛の息子が瀕死の病いにかかりました。そこで親として、何としてでも愛するわが子の命を救いたいという思いから、わざわざカファルナウムの町からイエス様のおられるカナの町までやって来ました。距離にしてだいたい30キロくらいの距離ですから、富里から旭市まででしょうか。この頃はまだイエス様も伝道の初期でしたので、あまり名前も知られていませんでした。それでも、この役人は、以前カナの結婚式で水をぶどう酒に変えた奇蹟を伝え聞いたのでしょう、わが子のためにはるばる出かけて来たのです。

イエスの御言葉をじかに聞くということは、ある意味では大変です。何十キロもかけてやって来なければならないかもしれません。でも彼はやって来ました。もちろん車も電車もありません。馬車かあるいは徒歩ではるばる時間をかけて、一日歩き詰めでやってきたのでした。ですから、イエス様の話をじかに聞くということは、自分の足で出かけて行く必要があります。今日のように、電話や携帯、メールでは御言葉を聞くことができません。顔と顔を合わせて、じかに話を聞くことが大事です。汗水流して努力することが必要です。

しかも、彼は王様の高官です。いわば千葉県の総務部長、農林部長と言った地方行政局の幹部です。その彼が、自分からへりくだって長旅をしてわざわざ出かけて来たのです。一介のナザレの大工の息子に、王宮の高官がやってきたということは、彼は本当にへりくだった心の持ち主だったということです。つまりイエス様から直接御言葉を聞くということは、一つはまずへりくだって聞くということです。地位や立場やプライドを捨てて、謙遜になりへりくだることです。ですから聖書を読む時にも、まず聖書の前に心を砕いてへり下って主なるイエス様の前にひざまずかなければなりません。「主よ、どうか罪深い私の心を砕いて下さり、あなたの御言葉を教えて下さい。助けて下さい。」と。

そして、イエス様をカファルナウムまでお連れしようとしました。そうしましたら、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言ったのです。一介のナザレの大工の息子の前で、せっかく遠くからやって来て、しかもこんなにへりくだって手をついてお願いしているのに、その答えはつっけんどんなものでした。「あなたがたは奇跡を見なければ信じない」という冷たい、突き放すような言葉で突き返されたのです。

B)食い下がる

おそらく普通の人でしたら、「この私を誰だと思っているのか。あのナザレの領主ヘロデ・アンティパス王に仕える高級官僚だぞ。その私が頭を下げてお願いしているのに、その言葉はなんという言葉だ。一体自分を何様だと思っているのか。」と堪忍袋の緒が切れて、怒ってしまうかもしれません。しかし、彼は冷たくあしらわれても、そこでひるむことなく、「主よ、子供が死なないうちに来て下さい。」とさらに食い下がったのです。

ここにもう一つ、主の御言葉を聞くということの秘訣があります。それは少しくらい冷たくされてもあきらめないで、なお食い下がるということです。つまりへりくだることと食い下がることです。つまり、簡単に引っ込まないでどこまでもとことん食い下がって求めて行くことです。あのカナンの異邦人の母親も、イエス様から「異邦人の女に、この大切な御言葉はあげられない。」と言われました。その時に、母親は「犬ようなわたしでも、主人の食卓から落ちるパン屑は欲しいです。」(マタイ15:27)と言って食い下がりました。その信仰を見た主は感心して、「あなたの願いどおりになるように。」と言って娘から悪霊を追い出してあげました。たとえ拒まれても、嫌がられても、どこまでも食い下がって、へりくだって必死に主に命のパンを求めることです。これがイエス様からじかに、御言葉を聞くということです。

2.御言葉を聞いて従う

この必死に食い下がる役人に対して、主イエスはこう言いました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と。さて問題はこれからです。この役人は、何とかイエス様にカファルナウムの家まで来ていただき、子供に手を置いていやしていただきたいと思ってやって来ました。ところが、「お前たちは奇跡を見なければ信じない」と冷たくあしらわれただけでなく、「帰りなさい。息子は生きると」いう言葉をいただいたのです。この言葉も父親にとっては、一つの試練となってしまいました。いわば「帰れ!」というのです。いくら帰れと言っても、息子が治るという確かな証拠をいただかなければ、帰るわけにはいかないと普通は思います。

ここでもそうです。主の奇蹟を呼び起こすのは、まず信仰が先です。その後に奇跡が来ます。先に奇跡の業を見てから信じようというのは、順番が逆です。それこそ、最初にイエス様が言ったように、「お前たちはしるしや不思議な業を見なければ信じない。」と言った言葉のとおりです。この父親は、イエスを連れ帰って自分の家で、自分の息子に手を置いていやしてもらうことを願いました。それを見たうえで、信じようとしたのです。でもそういう奇跡やしるしを見て信じるというのは、本当の信仰ではありません。

主イエスはその場で、「帰りなさい。」と言いました。そしてその後で、「あなたの息子は生きる」と言いました。主イエスが求めていたのは、奇跡を見てから信じる信仰ではなくて、見ずして信じる信仰です。「帰りなさい」と言われたらその言葉を信じて帰ることです。「息子は生きる」という言葉を信じて、まず行動を起こすことです。父親は「帰りなさい。」と言った言葉に従うかどうかという決断を迫られたのです。

旧約聖書にもそういう人がいましたね。アラム軍の司令官ナアマン将軍です。彼も自分の皮膚病をいやしてもらおうと、預言者エリシャのもとをはるばる、贈り物を携えて尋ねてきました。ところがエリシャは、自分の体に手を置いて祈ってあげるどころか、姿も顔も見せず「ヨルダン川で体を洗いなさい。」と伝えました。これを聞いたナアマン将軍は、カンカンに怒って引き返しました。しかし、途中で怒りながらも、言われたとおりにヨルダン川に入って体を七回洗ってみました。そうすると、彼の皮膚病が治ったのです。(列王記下5章)

たとえ失礼な対応だと思いながらも、預言者の御言葉通りにして見たら、いやされたのです。ここにじかに御言葉を聞くということはどういうことかが記されています。つまり、憤慨しても、プライドが傷つけられても、その御言葉に従ってみるという実践です。言われたとおりにして見るということです。御言葉を信じてそのとおりにするということです。この信仰が奇跡を起こすのです。
治ったら信じるというのは本当の信仰ではありません。それはいっときは良くてもやがて、色あせて信じなくなる可能性があります。長続きしません。

このヘロデの役人は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた時に、一瞬戸惑ったかもしれません。ナアマン将軍のように怒ったかもしれません。でも、彼は主の御言葉に従ったのです。その言葉通りにイエスの御言葉を信じて帰って行きました。これがじかに主の御言葉に聴くということです。へりくだって、あきらめないでとことん食い下がって聞くこと、そして聞いたならば、それを信じて実行に移すということです。行動が伴ったということです。

主イエスはまた他のところでもこう言いました。「だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」(マルコ11:24)と。少しも疑わないで、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになると言いました。実際は、信じられないことや、全く実現しそうもないことが目の前にいっぱいあります。どうせだめじゃないか、と失望落胆することの多い私たちの人生です。

彼はこの御言葉を信じて帰り、次の日家に帰り着きました。そうしましたら、家から僕たちが迎えに来て、子どもが一命を取り留めて回復したと告げたのです。彼はいつ治ったのか、とその癒された時刻を尋ねました。そうしましたら、何と、昨日ちょうどイエス様が、「息子は生きる」と言った時刻と一致したではありませんか。それは午後の1時でした。ということは、イエス様が御言葉を発した時に、その瞬時に同じ時間にすでに息子はいやされたということです。

役人にとってはまだ単なる約束の言葉でしかありませんでした。「あなたの息子は生きる」という約束の言葉です。しかし、この言葉はすでに実現していたのです。そしてたとえ自分の目では見ていなくても、この主の御言葉を信じて行くのがわたしたちの信仰生活ではないでしょうか。主の御言葉は真実です。嘘偽りではありません。そしてすでに実現、成就した言葉なのです。主がわたし達に罪が赦されたというなら、その瞬間にわたしたちの罪が赦されているのです。あなたは生きると言ったならば、すでにその瞬間にわたしたちは永遠の命をいただいて生きるのです。

この見ずして信じる、すでに実現した言葉を信じて行動に移す、この信仰を主は求めていたのです。このイエス様の真実の言葉は、すぐには聞けないかもしれません。時間がかかるかもしれません。でも必死に食い下がって、へりくだって主の御言葉を求めるならば、主は必ず御言葉を語って下さいます。この役人は家に帰ってから、息子が癒された時刻を確かめたうえで、確かに主の御言葉は真実だ、確かだということを確信したのでした。そして、家族と共にこぞって主イエス・キリストを信じたのでした。  

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional