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御心にかなった人々 (ルカ2:8~20)

メッセージ

2011年12月25日富里キリスト教会
「御心にかなった人々」
(ルカ2:8~20)
1.貧しき者への福音

この喜ばしいメシヤ誕生の知らせは、あんなに救い主を待ち望んでいたユダヤの民の中で、ナザレに住む大工の若い婚約者二人と、野原で羊を飼いながら野宿生活をしていた数名の羊飼いだけでした。クリスマスの劇の中では羊飼いは人気がありますが、当時は社会の底辺に置かれていた貧しい人々でした。こんな寒い冬の夜でも、家に帰れないで、野宿者同然のきつい仕事をしなければなりませんでした。ユダヤ社会では最低の仕事でした。

私もイスラエルに行った時、バスの中から羊飼いを見たのですが、羊か人間か分からないほどに汚れた格好をして羊の群れと一緒に歩いていました。それでも、彼等は救い主の到来を待ち望みながら、凍てつく冬の空のもとで生活していました。そういう人間に、神様は天使を遣わしてメッセージを送ってくださったのです。

また、貧しい者とは、経済的だけではなく、霊的にも精神的にも満たされない心の渇きを持っている人のことです。主はこう言いました。「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)心にどこか飢え渇きを持っている人、自分の人生について思い悩んでいる人、人生の不条理について悲しんでいる人、死について、あるいは将来について不安を持っている人、自分の生き方や人生について確かな指針を欲しいと思っている人、そういう人々に対して天使が語りかけて下さるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2:11~12)と。

2.真実を探し当てる信仰(聖書に聞く)

羊飼い達にとっては本当に、青天の霹靂の出来事ではなかったでしょうか。突然、天から天使が現れて語りかけたからです。しかも天の大群が現れて、大合唱をしました。しかし、問題はその後です。天使が語った言葉を確かめるために羊飼いはベツレヘムの村を指してかけて行きました。真夜中です。この大合唱は何だと思い、夢かと思う人もいるかもしれません。今夜はもう眠いから、寝よう寝ようと言って寝てしまい、時を逃がしてしまう人がいるかもしれません。

天使の声は突然やって来ます。その時に、その御言葉の事実を確かめるために出かけて行って見に行くかどうかで、信仰の分かれ目があります。彼らは、真夜中にもかかわらず、しかもベツレヘムのどこの馬小屋かも知らないにもかかわらず、御言葉の真実を求めて探しに出かけました。仲間と話し合いながら、互いに声を掛け合うことです。そして暗い夜道にもかかわらずに出かけて行きました。

おそらく何軒も馬小屋を尋ねたに違いありません。そしてとある一軒の馬小屋を探し当てました。御言葉の真実は、必死になって探さなければ見つけることはできません。誰かが見つけてくれる訳ではありません。自分で、自分の手で、自分の耳で、自分の目で見つけるのです。実は飼い葉おけというのは、この聖書のことを指しているとある注解書に出ておりました。ですから、聖書を何度も何度も読み返し、調べ尽くして、この聖書という飼い葉おけの中に眠っているイエス・キリスト様を捜し出さなければならないのです。これが、貧しき者の信仰です。

私たちは誰でも、この聖書を読むことはできます。でも、大事なことはこの聖書の中に隠されているイエス・キリストを見つけ出す必要があります。そのためには、ただ漫然と読むのではなく、真剣に調べたり、暗唱したり、考えたり、黙想したりしながら、全知全霊を持って探さない限り見出すことはできません。

3.良き知らせを宣べ伝える

羊飼いたちは、一生懸命この天使の知らせが本当かどうかを調べました。そしてようやく一軒の馬小屋を見つけ、そこに神の御子、救い主の姿を探し当てたのです。まさに天使が語った通りでした。彼らは有頂天になって喜びました。神の救いは王様とか祭司とか身分の高い人、高潔な人に与えられるものではなく、心貧しく自分の人生を探し求めている人に与えられたのだ。自分を低くして、この幼子のように素直に神の御言葉に従うものにこそ、救い主は見つかるのです。そして、その救いの事実を聖書から発見した彼らは、この喜びを人に告げずにはおられませんでした。

そして、この羊飼いこそ最初のキリストの福音の伝道者、宣教者になったのです。ここで大切なことは、この救い主を飼い葉桶である聖書の中から探し出さない限り、私たちはこの良き知らせの宣教者となることはできません。天使の語ったことが本当かどうか、疑っていては人に話すことはできないからです。信じたから、この神の約束の御言葉を発見して確信したからこそ、宣べ伝えることができるのです。

まず、ゆっくりと聖書から御子イエス・キリストの真理を探し当てることです。この聖書の言葉の通りだ、これは確かで誤りがないという確信が与えられれば、黙っていても証の言葉が出てきます。宣べ伝えずにはいれなくなります。羊飼いたちは、出かけて行って、村の人々にもまたマリヤやヨセフにも天使が語ったことや天使の大合唱について知らせました。

4.聞いた人々の反応

この羊飼いの話を聞いた人々は、それぞれ様々な反応をしました。2:18から読んでみましょう。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に治めて、思い巡らしていた。」とあります。すべての人が同じ反応を示したわけではありません。ある人々は、不思議に思いました。

羊飼いの話を聞いた村の人々は、不思議なこともあるものだと思いました。ただ、それだけです。ここが分かれ目です。この神様からのしるしである飼い葉桶の中の幼子について、それ以上考えませんでした。この点、母マリアは、羊飼いたちの話を聞いて、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」とあります。マリアは、羊飼いの言葉、すなわち天使が告げた福音を「心に納めました」。これは自分の心に忘れないようにしておくことです。保存しておくことです。聞きっ放しにせずに、しっかりと自分の心の中に蓄えておくことです。

そして「思い巡らす」ということは、ギリシャ語で「スンバロー」と言います。「スン」は「互いに」という意味で、「バロー」は「投げ合う」という意味です。
ですから、マリアは羊飼いの言ったことを、しっかりと自分の心に蓄えて、それを自分の心の中で投げ合うようにして語り合っていたということです。独り言のように、心の中で一人会話をしていたということです。これが思い巡らすです。

私たちは、このマリアのように、聖書の言葉をただ聞くだけではなく、自分の心の中に納めて、自分で心の中で語り合うようにしていることが大事です。分からない言葉、不思議な言葉をじっくりと心と頭に納めて、絶えずそれを思い巡らして、あれはどんな意味だろう、なぜそうなるのだろうかと一人で語り合っていることではないでしょうか。そういう思いが、やがては答えを見つけ出し、祈りの言葉になって来るのではないでしょうか。マリアも、最後には自分の長男イエスは、間違いなく神の子であった、救い主メシヤであったと信じました。そして、今でも母マリアの名で全世界の人々に愛され証をしております。

5.天に帰って行った羊飼い

さて最後に羊飼いたちはどうしたかと言いますと、20節にこうあります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」と。羊飼いの生活は変わりました。彼らは神をあがめ、賛美する生活に変わったのです。今まで通り仕事は、貧しい羊飼いの仕事かもしれませんが、神をあがめ賛美する者となりました。彼らこそ真の祭司となって、神を生涯礼拝し続けたのです。

そして、「帰って行った」とありますが、この時には、もう一度あのベツレヘムの郊外の羊の群れのところに帰って行ったでしょう。でも、この帰って行ったという言葉の中には、イスラエルの民が帰るべき天の故郷へと帰ることが赦されたということではないかと思います。心貧しき者に与えられた御言葉の真実を探し当て、この御言葉の確かさを発見した者は、人々にこの良き知らせを告げて、賛美と感謝を持ってその生涯を駆け抜けました。そして、神の御許へと帰って行ったのであります。

そういう意味でも、この誕生物語は、イエス様の誕生だけではなく、聖書全体にわたって記されている私たちの救いの全体について語られているのではないでしょうか。昔も今も、そしてこれからも主が再びこの地上に来られる時まで、この小さなクリスマスの物語は、全世界の人々に大人にも子供にも、どこでも絶えず語り継がれてゆくメッセージです。

私たちもこの羊飼いのように、心を低くして、貧しい心、乾いた心で神の御言葉を待ち、聖書という飼い葉桶の中に神の救いのしるしである御子イエス・キリストを捜し出したいものです。そしてこの救いの素晴らしい出来事を、御国に帰る時まで、人々に宣べ伝え、証しをしてゆきたいと願っています。(岡田久)  

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