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御国が来ますように (ルカ11:1~3)

メッセージ

2014年10月5日富里キリスト教会

「御国が来ますように」
(ルカ11:1~3)

1.御国とは何か(クリスチャンの誤解)

日本語の「御国」という言葉のもとの言葉は、ギリシャ語で「バシレイア」だと言いました。「国」という意味の他に「支配」とか「統治」「権威」という意味もあります。ですから、「御国が来ますように」という祈りは、キリスト教国が多くなりますようにとか、クリスチャンの人口が増えますようにという意味よりも、「神の支配が一人一人の心の内に実現しますように」という意味の祈りになります。国というとどうしても領土や地域のことを考えてしまいますが、そうではなく、まず一人一人が神の国そのものであるイエス・キリストを受け入れることから始まるのが、神の国の始まりです。

主イエスの宣教の第一声が、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ1:15)という言葉でした。神の国はイエスキリストを通して、その宣教の御言葉と御業を通して、すでにこの世に来たのです。そしてこの神の国そのものの先駆けであり到来であるイエス・キリストを受け入れ信じることによって、その人の心の中に神の国が到来するのです。即ち、その人が主を受け入れることによって、イエスの権威に従い、イエスの全き御支配に入らせていただくのです。ですから、神の国の到来は、地上での国家的なことや領土的なことではなく、個人的なことなのです。まずイエス・キリストを心の中に受け入れて、この方の御支配のうちに生きることであり、この方の御心を行うことが神の国の到来なのです。

ところが私たちは、イエス・キリストを信じた後、自分はクリスチャンとしてどのようにしたら、社会貢献ができるか、どのようにしたら教会を増やして、この国をキリスト教国に変えることができるかと、いきなり行動に走ってしまいがちです。行動を起こす前に、自分自身の内面的な成長と成熟を計らなければなりません。そうでないと、全く変わらない現実社会を見て、落胆したり、意気消沈してしまって、信仰を失ったり教会から離れてしまったりします。また、自分自身もガッカリして、どうしてクリスチャンなのに自分の中にまだ罪や悪があるのだろうかと落ち込んでしまいます。そしてつまずいて、教会から離れてしまいます。ここに多くのクリスチャンの誤解があるような気がします。

ですから、すべてのクリスチャンは、祈るときに「御国が来ますように」自分の心の中をイエス・キリストが満たして下さり、完全にキリストの御支配の中に入り、キリストの権威に従う信仰者となることができますように、主イエスの御言葉に従うことができますようにというのが、この第二の祈り、「御国が来ますように」という祈りです。

2.御国が来る(御国に入るとはどういうことか)

イエス様がある人に、「わたしに従いなさい。」と言いました。すると彼は「まず自分の父親の葬儀を済ませてから行かせて下さい。」と言いました。そうしましたら主は「死者は、霊的に死んでいる人々にまかせて葬らせなさい。あなたは私について来て、神の国を言い広めなさい。」と言いました。またある人は、「イエス様、あなたに従いますが、家に帰って家族に暇乞いをさせてください。」と言いました。そうしましたら、イエス様が「鋤に手をかけてから後ろを振り向く人は、神の国にふさわしくない。」(ルカ9:59~62)と言いました。

御国に入りたいと願っている私たちですが、実際はそこには厳しい決断を迫られます。今までの生き方、今までの人生を捨てて、完全に主に従うという絶対服従が求められます。しかし、そうは言ってもそうなりきれない私たちです。この世の欲や未練、名誉、地位、財産、家族を第一にしてしまうようなわたしたちです。ですから、あなたがはこう祈りなさい。「御名を崇めさせてください。御国を来たらしめてください。」と。このような不信仰の私たちでも、完全に主に従うことができるようにして下さいという祈りです。

神様の御支配に入り、その御言葉に完全に服従するようになるためには時間がかかりますし、多くの試練を経なければならないかもしれません。この世との戦い、自分自身との戦いがあります。でも、この第二の祈りによって、まず何よりも私たちは、神様との太いパイプをしっかりと築くことです。神に向かって「御名を崇めさせてください。」と声をあげ、「御国をわたしの心の内に来たらしめてください。」と祈ることです。何度も何度も、繰り返し、繰り返しです。この神と自分の切っても切れない関係、神様にしっかりと繋がっている関係を第一に築くことです。このことが信仰生活の基本であり出発点なのです。ですから、「御国を来たらせたまえ」という祈りは生涯にわたっての大事な祈りなのです。

3.御国が来るようにするためには

この主の祈りの最初の三つの祈りは、神様とわたしの関係について祈っていると言いました。一番目から三番目の神とわたしの関係についての祈りには、「わたしたち」という言葉は入っていません。ですから四番目以降の祈りになって初めて、私たちという複数形になって来るのです。一番目の「御名を崇めさせたまえ」、二番目の「御国を来たらせたまえ」、三番目の「御心をなしたまえ」は、神とわたしの関係なのです。

どういう関係かと言いますと、体の動作で示しますとこうなります。まず第一に、神に向かって両手をあげて顔を上げて神様を礼拝する、そしてわたしの心を整えます。(御名を崇めさせたまえ)次に、神の心をわが心とするようにします。(御国を来たらせたまえ)そして三番目にわたしを通して神の御心がこの世界に私の生活の中へと広がって行くようにと祈ることです。(これが御心をなしたまえ)です。そして四番目からは、「わたしたち」という共同の祈りになって行きます。

最後に、どうしたら御国がわたしの心の中に来るのかということを、もう一度考えてみたいと思います。それは、このルカ11章の主の祈りの前後の御言葉を見てみると解るのではないでしょうか。10:41のマルタとマリアの姉妹に話した主の御言葉を見て下さい。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

これはイエス様一行を迎えて接待の奉仕をしていた姉のマルタが、何も働かないでイエスの足もとに座って話ばかり聞いている妹のマリアに向かって、イエス様に注意して下さいと文句を言った場面です。マルタは一生懸命、奉仕に精を出していました。でもあまり忙しすぎて心が乱れて妹を叱ってしまいました。でもイエス様は、姉のマルタをたしなめて、マリアは「良い方を選んだ」と言いました。

つまり、良い方とは、御心を行う前に、まず自分の心を主に御支配していただくために、イエスの足もとに座ってじっくりと御言葉を聞くことです。別な言葉で言いますと、マリアはまず御国を求めたのです。イエス様の御言葉によって自分の心を養い、御言葉と聖霊様で心を満たすことの方を選びました。そして、それは良い選択だったとイエス様も認めています。これは私たちクリスチャンにもあてはまります。御国を求めて御言葉で養いを受けるよりも、先に御心を行う方に重点が行ってしまうことがあります。自分では、神様の御心を行っているつもりでも、妹を非難しイエス様にさえ文句を言ってしまいかねません。そうならないように、まず御言葉と御霊を求めることです。

また、この主の祈りの後に、イエスはこう言いました。「どんな人でも、執拗に求めれば、その求めに応じて与えてくれるものであるから、あなたがたも神の国が来ることを熱心に祈り求めなさい」と。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。」(ルカ11:8~110)何を求めるのですか、何を探すのですか。これは、御国を求める祈りです。父なる神様は、わが子には良い物を必ず下さるから、不信仰な出来の悪い息子、娘であっても、自分の子供には最高のものを与えてくださると言っています。それは聖霊様です。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる。」(11:13)と。

ですから、「御国が来ますように」という祈りは、神様の完全な御支配を受けるように、熱心に求めなさいということです。この神様の御言葉と御聖霊様をいただくことができるならば、わたしの内にあって力強く働くイエス様を通して神様の御心を行うことができます。御国の御支配が私たちを通して、この世界に拡大して行くのではないでしょうか。

「御国が来ますように」という祈りは、わたしたちが自分の罪を悔い改めて、完全にイエス様に心を明け渡して、イエスの御言葉と御霊によって、自分をコントロールし、この世のいろんな欲望に背を向けて、イエスキリストに従うことを選び取って行くことです。口では言っても、実際にそれを行うことは難しいです。一生の課題かもしれません。ですから、イエス様は、私たちに神の全き御支配が来るように、絶えず祈り続けなさいと教えておられるのではないかと思います。                      

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