御名を崇めさせたまえ (マタイ6・9~13)
2010年5月2日富里教会
「御名を崇めさせたまえ」
(マタイによる福音書6:9~13)
1. 祈りを教えてください
この主の祈りはルカによる福音書にも出ております。そこでは、イエス様が祈りを終えた後に、一人の弟子が祈りについて尋ね、それに主が答えて、祈りについて教えた形となっています。その弟子の尋ね方が、いいですね。「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と尋ねています。英語では「Teach us to pray」という短い言葉ですが、私はこの短い言葉に大きな感動を覚えました。それは、キリストの弟子である私たちの、祈りに対する真実な姿勢を教えられたからです。私もバプテスマを受けた時は、祈ることもできませんでした。献金当番の時には、紙に書いた文を読んでいたような気がします。
でも、「Teach us to pray(=祈ることを教えてください)」と言うなら、主は祈ることを教えてくださいます。大切なことは、私たちも、まず神様に、祈ることを教えてくださいとお願いすることから主の祈りが始まるのではないでしょうか。マーカス・ドッジ博士は、「主の祈り」についてこう言っておられます。「主の祈りは、母の膝の上で学んだものですが、その意味を十分に知るためには、一生かかりますし、祈る時間は1分もかかりませんが、その祈りの深さ、尊さ、聖さを思う時、一生涯、汲みつくしても汲みつくすことができないほどの豊かな内容を持った祈りです。」と。
この主の祈りは、二つの形があるような気がします。一つは、礼拝や祈祷会で皆さんで声を合わせて祈る時です。あるいは、夜寝る前に祈ったり、食事の前に祈ったりする人もあるかもしれません。たった15秒の祈りですが、そこには大きな力が働きます。それともう一つは、密室で一人で祈る時に、イエス様が教えて下さったこの祈りの順序と内容について、御言葉を用いながら祈りを深めるというやり方です。イエス様は、この主の祈りを、御題目のように祈ることを教えたのではなかったような気がします。もっと深い意味がありました。特に、この祈りの偉大な点は、祈りにおいて、自分の意志や願いを神に訴えるのではなく、どこまでも、祈りとは、自分の意志を神様の意志に、服従させようとするものだということです。
2.御名が崇められますように
A.天のお父様
「天の父」といいますのは、身近におられますが、天上に居て、この世界の全てを御支配されておられるお方だということです。わたしたちのどんな祈りにも耳を傾け、天上でこの世界の全てを御支配しておられますから、いつでも、どんな時にでも祈りに答えてくださる全能なるお方だということです。それが「天にまします」という意味です。
また、「父よ」という呼びかけは、私たちが、「お父さん」といえるくらい、身近におられ、いつも私たちを心配して見ておられるお方だということです。イエス様は「アッバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。これは、パパとかお父さんという意味だそうです。ですから神様は、お父さんのように私たちを天から見ておられ、いつ呼んでくれるのかと待っておられるのです。
B.御名が崇められますように
そして、最初の「御名が崇められますように」という祈りですが、一体「崇める」とはどういうことでしょうか。これはギリシャ語では、「ハギアゼッサイ」という言葉ですが、これは「ハギオス(=聖なる)」という形容詞と関連しております。ですから、「御名を崇めさせたまえ」という祈りは、「神様の御名前を他の全ての名前と区別して、特別な地位を与え、聖なるものとしてほめたたえ、かつ感謝させてください」という意味になります。
ですから、私たちも日曜日の礼拝前にするのは、「御名を崇めさせたまえ」という讃美から始まります。ここでは、神様を讃美し、ほめたたえる歌を何曲も歌って、わたしたちの心を神様に向け、そして神様の御臨在を仰ぎつつ、神様の御言葉を待ち望む時です。(ワーシップあがめたたえ「崇め讃え讃美しよう、主の御名を。崇め讃え讃美しよう、その名を永遠に。真実は滅びることなく、天も地も喜び歌う、崇め讃え讃美しよう。」)とても大切な時です。
では、「御名」(Your Name)とは何でしょうか。日本語にも「名は体を表わす」ということわざがありますが、人や物の名前は、その物やその人の実体や本質を表しているという意味です。ですから、神様の御名前というのは、神様の存在、神様の本質、神様の性質、神様の業と働きの全てを言い表しているということになります。
ですから、礼拝の中で声を合わせて「天にましますわれらの父よ、御名を崇めさせたまえ」と祈るわけですが、私たちは、キリストの弟子として、この祈りの意味をもう少し深く理解して、祈る必要があると思います。例えば、ヨハネ3:16の御言葉を使って、「神様、あなたはご自分の御ひとり子なるイエス様をこの世に与えて下さいました。そして、十字架の上にその愛を示して下さり、わたしたちの罪を赦して下さいました。私たちを罪の滅びから救って下さり、神の子としてくださったことを感謝し、御名を崇めます。」と祈ることもできます。(他にもエフェソ1:3~14の三位一体の神の御性質と働きを覚えながら、祈ることもできます。)
このようにして、神様のご性質、働きなどを御言葉から取って、祈りの声にしてゆく時、祈るごとに、日々新しく、神様への感謝と讃美と信仰の確信と希望が与えられてゆきます。こうしてまず、神様の前にひざまずき、神様を礼拝することから祈りが始まってゆくのです。
3. 御国が来ますように
次に「御国が来ますように」という祈りですが、これも主の祈りの中で、最も大切な祈りだといわれています。先日もお話させていただきましたが、この御国といいますのは、国土とか領土という意味ではなく、目に見えない霊的な範囲、すなわち神様の権威(=ギリシャ語ではバシレイヤ、権威という意味。)がおよぶ範囲のことを御国といいます。それは私たちが、神の御言葉を信じて服従することからはじまる世界です。
私は、この神の支配が私の心の中に実現し、御国がまずわたしたち一人一人の心のうちに完全に成就するようにと祈ることにしています。私たちが、必死に努力し伝道してクリスチャンを獲得するとか、キリスト教国を造るということではありません。まず、私たちの内側に神の支配が起こり、神の御心に従った生き方が、聖霊様を通して、まず私から始まりますようにという祈りです。
最近は、エフェソ書の1:16のみ言葉を使ってこう祈っています。「栄光の父、どうか私に知恵と啓示の霊を与えて下さい。そして神様をもっと深く知ることができるようにしてください。私の心の目を開いてください。そして聖霊様に満たして下さり、私に御霊の賜物を与えて下さい。何よりも私の心の目を開いてくださり、内なる人を強めて下さい。そして聖霊様が私の心を満たして下さり、あなたの御言葉に服従することができるようにしてください。」と祈っています。(他にもイザヤ11:2現代訳を使った祈りもあります。)
4.御心が行なわれますように
最後に、「御心が行なわれますように、天におけるように地の上にも」とあります。祈って祈って、神様との血の出るような格闘の末に、ついに、自分の閉ざした心を主に明渡し、主の御支配を受ける時に、神様がその人をご自分の器として用いられたのです。そこに至るまで、大きな葛藤があると思います。しかし、イエス様が教えて下さったこの祈りのように、自分の意志を貫き通すのではなく、神様のご意志に従う時、そこに神様の御心がなるのではないでしょうか。イエス様もゲッセマネの園で、悩み苦しみながら「御心がなりますように」(マタイ26:42)と祈られました。そして、十字架の道を進んでゆかれました。
主の祈りのこの三つの祈りは、どこまでも神様のご意志に自分を服従させようという願いを持っております。つまり、神様に顔を向けて讃美し、神様が私の心を支配し、私が神様に従うことによって、神様の御心がこの地上に行なわれますようにという祈りです。ですから、どこまでも神様の前にひれ伏して、神様の御霊に満たして下さり、自分の願いではなく神様の御意志が、私を通してこの教会にこの地域に行なわれますようにと祈ることです。この上から来る聖霊様の流れを求めることです(天上の神様⇒私の心⇒私の身体⇒現実の世界)。「このように祈りなさい」と、イエス様は私たちに教えて下さいました。
誰でも、自分の心の中に苦手な人、嫌な人、赦せない人を抱えています。そのことで、信仰を持っていても、この上から来る聖霊様の流れがどこかで詰まっていることがあるかもしれません。神様の愛を受けつつも、神様の愛が伝わってゆかないことがあるかもしれません。でも、この主の祈りのように、何度も何度も主に向って、聖書の御言葉を用いて祈ってゆく時に、祈りの中で、主に心を明渡して御国の支配をいただき、御心を行ってゆくことだできるようになるのではないでしょうか。「イエス様、私たちにも祈ることを教えてください。」(Teach us to pray)と、主にお願いした弟子のように、私たちも祈りの仕方からもう一度尋ねてゆきたいものです。
(岡田 久)