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律法の完成者イエス (マタイ5:17~20)

メッセージ
2021年月17日富里キリスト教会
「律法の完成者イエス」
(マタイ5:17~20)
1.律法と預言の完成者イエス

イエス様は御自分と律法の関係をこう言っています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17~18)と。イエス様は、当時のパリサイ派の人々や律法学者とは、教えの上で鋭く対立していました。それはまるでモーセの律法の教えに反対して、律法を廃止してしまうのではないかと誤解されるほどの対立を生んでいました。

その解釈の違いの例が、5章の21節から48節の最後まで述べられています。そして6章から7章までに、イエス様の新しい教えが語られています。例えば、マタイ5:21~22を読んでみましょう。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺すな。人を殺した者は裁きを受ける。」(出エジプト記20:13)と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21~22)と解釈しました。
つまり殺人罪も人を「バカ」ということも、イエス様の目から見ますならば、同罪だと言うのです。

そしてさらに27節からですが、「あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:27~28)と解釈しました。十戒の七番目の戒め「姦淫をしてはならない」についても、律法学者やパリサイ人の解釈とイエス様の解釈は全く違っているのです。実際に姦淫や不倫をしたという行為と同じくらい、自分の目でみだらな思いで女性を見たならば、その人はもう立派に姦淫の罪を犯しているのだと解釈しました。

イエス様の解釈とパリサイ人たちの解釈とは、同じ聖書の教えでも全く異なっています。どこが違うでしょうか。それは、皆さんもお気づきになったと思いますが、パリサイ人は律法を単なる法律として見ていたようです。速度違反をしたら罰金を取る行政罰、人を殺したり物を盗んだりしたら、刑法によって処罰する刑事罰のように考えていました。でもイエス様が律法を理解したのは、表面的外形的な罪ではなく、人間の心の中の罪を問題にしたのでした。実際に殺人を犯すことと、「ばか」と人を馬鹿にすることも、同じように地獄の火に投げ込まれるというのです。

また、実際に姦淫をしたり不倫をしたりすることはもちろん、律法によって厳しく禁じられていますが、イエス様の律法では、みだらな思いで他人の妻を見た場合にはすでにその人は姦淫の罪を犯しているのであると言いました。ですから、姦淫の現行犯でつかまえた女性を処刑する時に、イエス様が群集に向かって言った言葉を覚えていますか。「まず罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ7:7)と言いました。そうしたら、年をとった者から順番に一人二人とその場を去って行きました。人間だれでも、自分を振り返って心の中をみれば、罪の一つや二つは思い出します。

パウロはローマ3:20でこう言っています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と。つまり律法の働きは、すべての人は神の前に罪人にすぎないということを自覚させるためなのです。この世の人で、いったい誰がみだらな思いを持ったことがないと言える男性はいますでしょうか。そして女性もいますでしょうか。そしてイエス様は、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ9:41口語訳)と言いました。

イエス様は、わたしたちの心の中を徹底的にご覧になられます。そしてわたしたちが聖書を理解する時に、自分の心の中を覗き込みながら、自分に向かって問いかけながら読むことを教えています。自分に当てはめて読むことです。相手を批判したり、相手を攻撃したりするために読むのではなく、自分に向かって読まなければなりません。これが信仰をもって読むということです。どのように神の言葉を一人一人が聞こうとしているのかが問われているのです。これが聖書を理解する、解釈するということの前提です。

2.イエスの律法

イエス様は最後にこう言いました。「言っておくがあなたがたの義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」(5:20)これはどういうことでしょうか。私達がパリサイ派の人々や律法学者よりも、もっと厳しい信仰生活をしなければならないということでしょうか。

先ほども言いましたように、律法によっては罪の自覚しか生じません。わたしは律法を守っていますと言う人ほど、自分の義を立て、自分こそ神の前に正しいとうぬぼれている人です。「もし罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちの内にない。・・・もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとするのであって、神の言葉はわたしたちの内にない。」(Ⅰヨハネ1:8,10)すべての人は神の前に罪人です。いつも晩餐式で言うように、罪人の頭、親分です。

しかし、そういうどうしようもない罪人のわたしたちのために、イエスキリストが十字架に架かり血を流し、苦しまれて、呻き、叫び声をあげることによって、わたしたちの罪のすべてを贖い取って下さいました。主が身代わりになって苦しまれ、最後に大きな声をあげて「テテレスタイ」、「全てが終わった、完了した、罪人の救いが成し遂げられた」と言って、息を引き取られたのです。このイエス・キリストの十字架の身代わりの苦しみと死によって、わたしたちの罪がことごとく贖い取られたのです。十字架の上に、律法と預言の言葉が成就したのです。

そして全人類の罪と、死と、律法の呪いがこの十字架の死を通して滅ぼされたのです。こうしてキリストは律法の終わりとなられ、律法の呪いからわたしたちを解放してくださいました。律法と預言者によって言われてきた教えが、十字架によって完成したのです。それは、律法を守ったから救われるという教えではなく、律法の教えを守れない私たち、罪を犯してはいけないと思いながらもまた罪に負けてしまう私たちです。

そういう罪だらけの弱い無力なもののために死んでくださった所に神様の義と愛が示されました。それはイエス・キリストの十字架の苦しみと死です。そしてこの十字架のキリストを信じる者をも、無償でその信仰によって義としてくださったのです。これがわたしたちの義なのです。罪人をも義としてくださる、神の義であり、神様の愛なのです。

パウロはこう言っています。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。」「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしの内に生きているのである。」(ガラテヤ2:16,19~20)

わたしたちの義と言いますのは、わたしたちの内側にはもはや何も誇るものも善もない、ただ罪人の自分を見るだけなのです。その自分という罪を、いや自分自身をキリストと一緒に十字架につけること、自分に死ぬことです。そしてキリスト共に死んだ者は、またキリスト共に復活の力によって生きるのです。わたしたちの義と言いますのは、キリストの義であり、十字架の義です。古い私、罪のわたし、過去のわたしに死んだからこそ、そこにキリストと共に生きる信仰の生き方が与えられるのです。生きているのはわたしではない、キリストがわたしの内に生きておられる、だから私はこのキリストにあって何でもすることができるのです。

最後に、イエス様はこのマタイ福音書の教えの中でこう言いました。それがマタイ7:12にのっています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)パウロもこう言っています。「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(ガラテヤ6:2)と。

人にして欲しいと、「自分が」思うことは、何でも人にしなさいと言っています。自分が一方的に人にしてあげたいと言うことではなく、自分を相手の立場において、自分だったらどうしてほしいと思うだろうかと考えてみることです。その上で、ああこうしてくれたら自分も喜ぶなあと思うことをしてあげることです。これが本当の律法と預言者である。これこそが、成就され、完成された律法の教えですよおっしゃいました。

イエス様だったら、このコロナ危機の状態の時、どうするでしょうか。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と読電車である。」と言われました。わたしたちもコロナ感染から自分を守るだけではなく、視点を変えて、自分が感染した場合何をして欲しいと思うだろうか。一人暮らしで自宅待機をしながら、入院を待つ、その間容態が急変したらどうしたらいいだろうかと思うことがあるかもしれません。

もちろん、物理的身体的に分離は必要ですが、心も分離してしまっていることはないでしょうか。パリサイ人というのは、「ファリシ―」(=分離する)というギリシャ語から来た呼び名です。目に見える表面的なことで人を差別し、自分は正しいものだと考えている人です。そういう表面的な差別的な義に負けてはいけません。わたしたちも体は分離しなければならないですが、心はつながっていたいですね。体はコロナにかかっても、心をコロナに感染させてはいけません。

感染された方々のために、医療関係者のために祈りましょう。また励ましのメッセージを送りたいものです。教会関係者の中で実際に感染された方もおられます。その方々のために祈りつつ、励ましの御手紙を書くのもいいでしょう。コロナだけではなく、もし自分がそうだったらどうしてほしいかということを考えて、自分にできることをしてゆきたいと思っています。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたが方は決して天の国に入ることはできない。」(マタイ5:20)       (岡田 久)

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