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律法による罪の自覚 (ローマ3:9~20)

メッセージ
20021/5/30
富里キリスト教会礼拝説教
「律法による罪の自覚」
(ローマ書3:9〜20)

①救いへ導くための断罪
私たちは今年度、このローマ書からみことばの恵みをいただいていますが、ここ数週間のメッセージを受けて、何が恵みなの?と言いたい方もおられるかもしれません。まあ、そのお気持ちもよくわかります。それはここ数週間ずっと人類の罪というものについて語ってきたからです。救いに至る道の中で罪の自覚というものはとっても大切なことですが、ちょっと気が滅入りたくなる気持ちもわからなくもありません。しかし、ご安心ください、罪シリーズはとうとう今日が最後になります。つまり人類の罪についての、ある意味パウロの結論が今日の箇所では語られています。それは、小見出しにもあるように「正しいものは一人もいない」ということです。

ローマ3:9
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるからです。」

お前たちには優れた点があるのか?ユダヤ人にもギリシャ人にも突きつけられた言葉です。律法を誇るユダヤ人、知恵を誇るギリシャ人。しかし、お前たちは結局のところ罪人ではないのか。この現実に彼らは何も言えないでしょう。もちろんユダヤ人は神のことばが与えられ、みこころを表すために選ばれた優れた者でもありました。しかしこれは彼らの役割上での話であって、罪を前にした時、ユダヤ人は霊的にも倫理的にも決して優れているわけではないのです。そしてそれはギリシャ人、つまり異邦人にも同じことが言えるでしょう。知恵には優れていても罪の前には彼らも無力です。
当時ローマ教会ではユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいがみ合っている可能性があったという話を以前しましたが、パウロはそんなローマ教会の人たちに「お前たち、お互いやいのやいの言っているけど同じ穴のムジナだぞ!!どちらも優れているところなど全くないぞ!!」と断言します。そして、さらに追い討ちをかけるように「お前たちは罪人だ!!」と断罪します。これをいうために、パウロはここまでくどくどと罪について語り続けていたのです。
とても耳に痛い言葉です。こんなことあんまり聞きたくありません。しかし、パウロは愛を持って語り続けます。なんとしてでも一人の魂を救い出したいがためにです。人の救いのためならなんでもするのがパウロであります。私たちにとってまず最初に、もっとも必要なことは、罪の自覚なのです。そこからキリストと出会い、救われていくのです。救いへの道は、まず自分自身が何者であるのかを知るということから始まっていくのです。
そして、全ての者は罪人である。これは、律法そのものをも言い表す旧約聖書全体に書かれているとパウロは語っていきます。10節から18節までの言葉は全て詩篇、箴言、イザヤ書などから引用された言葉です。正しい者はいない。一人もいない。悟る者もいなければ、善を行う者もいない。こういった言葉を旧約聖書は幾度となく語っています。さらにいえば、旧約聖書そのものが神への反逆の歴史を表しているものと言えます。
エジプトからその憐れみのゆえに救い出された主とイスラエルは契約を結びます。しかし、必ず主のみおしえに従うと言った先から金の子牛像を作って彼らは拝みます。ピンチになるたびに神に助けを求め、それがおさまったらまた神を忘れて偶像礼拝。これを何度も繰り返します。その都度、神様は預言者を送り、私に立ち返れと愛と忍耐を持って叫び続けます。しかし、その声を聞けずイスラエルは結局バビロン捕囚を受け、国は滅びます。
このイスラエルの姿を見てみなさんは愚かだと笑いますか?そうであるなら、それはブーメンのように自分に返ってくることでしょう。このイスラエルの姿こそまさしく自分自身の姿だからです。イスラエルの民を見て、まさしく人間とは、自分とは、なんとどうしようもない者なのか。正しい人など一人もいない。善を行うものなど一人もいないのだ。詩編の詩人のように、こう言わざるをえません。
正しいものなど一人もいない。しかし、この言葉に反論したい人もきっといることでしょう。そこまで人間というものは腐っているのだろうか?いい人だっているじゃないか?そう反論したくなる気持ちもよくわかります。実際、確かに尊敬できる素晴らしい人は世の中にたくさんいます。聖書の中をみてみても、アブラハム、モーセ、ダビデなど立派な人物もたくさんいます。たしかに、アブラハムもモーセもダビデも素晴らしい信仰者です。しかし、同時に彼らはしっかり罪も犯しています。
私たちはよく、善悪の判断とういうものを、あの人よりはマシとか、この人まではいっていないとか相対的に考えてしまいがちですが、ここでは絶対的に正しく、善である人というものははたして存在するのか?ということが問われているのです。「正しい者はいない。」この言葉は言ってみれば、「イエス・キリストのように正しい者はいない。」といった意味なのです。正しさとは人と比べるのではなく、あなた自身が神のみ前に立った時、その主ご自身が私に対してなされたような正しさや善を持つ者だといえるのだろうかということなのです。そして、その問いに対して私たちは目を伏せ、こうべをたれながら「否です。」と言わざるを得ないのです。神のみ前に立った時、私という人間は圧倒的に正しくない。それが自分自身を知る大きな、大切な一歩なのです。

②罪の現実―口、争い、無神論
全ての人間は罪の下にある。正しい人は一人もいない。では、具体的に罪に囚われた現実の姿とは一体どのようなものなのでしょうか。さまよい、役立たずとなり、悟ることも神を探すこともしない、罪に囚われた悲惨な人の姿とはどのようなものなのか。パウロは旧約聖書を引用しながらその姿を語っていきます。
まずは、口から起こる罪です。口は災いのもと。沈黙は金なり。余計なことは言わないほうがいい。こういったことわざは、日本だけに留まらず古今東西にあります。こういった教訓は普遍的なもので、誰が聞いても納得いくものでしょう。聖書においても箴言を始め、舌による罪というものはいたるとところで警告がなされています。
あんなこと言わなきゃよかった。これは必ず誰しもが持っている後悔でしょう。また、時に私たちは嘘をつき、人を欺いてしまうこともあります。まさしく呪いと苦みで満ちた口です。言葉の力というものは本当に強いものがあります。簡単に人の心を再起不能にするまで壊してしまいます。
他方、人を癒すのもまた言葉であると言えます。逆に自殺をしようとする人を踏みとどめたみことばや、誰かの言葉というものがあるのまた確かなのです。言葉には人を癒し回復させる力を持っています。しかし、現実を見るとこの罪に痛んだ世界は圧倒的にネガティヴな言葉に支配されています。その中にあって私たちはその希望と回復の言葉を知っていることは本当に大きな恵でありますし、その言葉を痛んでいる者に届けていきたいと切に願います。
次に罪は口や言葉だけなく現実に破壊と悲惨を生むとパウロは言います。罪は血が流れることを全く躊躇しません。人間の歴史は戦争の歴史です。文明というものができて以来、戦争をしていない時というものはありません。日本に住んでいるとピンとこないかもしれませんが今もどこかで血が流れているのです。また、実際の戦争でなくても今は経済戦争中だとも言われています。食うか食われるか。破産に追い込まれ、絶望し、自殺する人もたくさんいます。
こんなことがなぜ平気でできるのでしょうか。それはその状況を大多数の人が肯定しているからでしょう。そもそも全ての人間は罪人なのですから当然と言えばそうかもしれません。人は麻痺してしまうのです。周りが殺していたら殺していいと思ってしまうのです。そんなことないと思いますか?しかし残念ながら歴史がそれを証明しています。ナチスドイツのホロコースト、旧日本軍の虐殺や、人体実験。例を挙げればきりがないほどです。悲しい現実ですが一皮むけば人は狂気に満ちているという一面があります。私たち自身もそうなのです。十字架にかけろとエキサイトして唾を吐き、罵り叫ぶユダヤ人。一人の命が消えることを心から望むこの姿はまさしく罪人である私の姿なのです。
なぜ、そんなことが平気でできてしまうのか。それは、神への恐れがないからであるとパウロは言います。つまりこれは神の存在の否定、無神論を表すことであり、まさしくこの現代社会であるとも言えるでしょう。恐れがないということは、リミッターがない。物差しがないということです。更に言えば、自分自身が物差し、基準となっている。つまり自分を神としているということです。これが今の価値観です。物事のいい悪いは、俺が決める、私がきめるんだっていうことです。もう怖いもの無しです。
しかし怖いもの無しの者ほど恐ろしいものはありません。なんでもやりかねないからです。恐れというものは人には必要なものでもあるのです。しかし、恐れにもいろいろあります。世間の目、人への恐れ。これが多くの日本人のブレーキとなっています。これによって日本社会は本当に秩序が保たれていますし、世界的にも平和で安全な社会であると評価されています。しかし、この恐れは、裏を返せば世間の目がなければ平気でやってしまいます。日本人は同調圧力も強く、群集心理に弱いところがあると言われています。周りの人がみんな石を投げ始めて、それが正しいとされれば平気で躊躇なく石を投げ始めます。それが戦前の日本社会の姿であるといえるでしょう。
しかし、神への恐れというものはもっと強力な罪へのブレーキとなります。完全であり、聖であり義なる生けるまことの神が、いついかなるときも私をみて公正なさばきをくだすのだということへの恐れです。恐怖でしばるということではありませんが、そのまことの義なる神様を前にした時自分はどうあるべきなのか。これが最大のブレーキとなるのです。しかし悲しいかな、罪に囚われている人間はこの神への恐れがないため、その最大のブレーキが壊れて全く効かなくなっているのです。

③律法は罪の自覚を生み出すもの
ここまで、罪、罪、罪と語ってきました。今日も罪でてんこ盛りです。もう誰もが、もうわかったから、お腹いっぱいですと言いたいかもしれません。しかし、それほどパウロが伝えたかったことは、とても大切なことだったのです。ここまで聞いて私たちは、自分が罪人ではないと言えますか?罪が一つもないと言いきれますか?さすがにここまで明らかにされたら自分が罪人であることを認めざるをえないでしょう。
私たちは全て律法の下にいます。ユダヤ人も異邦人も日本人もアジア人もアフリカ人も全ての人間が、です。聖書の語る神が私たちに要求する律法を、私たちは知っています。聖書を読んだことのない人も、神から与えられたその良心をとおして、律法を知っています。その神の律法を前にした時、自分は正しいとはとてもじゃないけど言えません。私たちは口を閉じざるを得ません。パウロの言葉を借りると、私たちに弁解の余地はないのです。
人と比べてああだ、こうだということはできるかもしれませんが律法を前にし、義なる神のみ前に立った時、自分は神に有罪判決と裁かれるものでしかないと言わざるを得ないのです。なぜなら、律法を実行することによってでは、人が神の目にかなうほどの正しさ、イエス様のような正しさを表すことはできないからです。
確かに少しはできるかもしれません。しかし、それでも罪をゼロにするということはできません。なにかができたからといって、できていなかったことがチャラになるわけではないのです。ヤコブ2:10−11にはこう書かれています。

「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、全ての点について有罪となるからです。『姦淫するな』と言われた方は『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になるのです。」

世の中の法律と同じです。たとえ基本的に法を犯していなかったとしても、何か一つ犯罪を犯してしまえばその人は犯罪者です。

また、表面的には取り繕うこともできるかもしれません。しかし、それでできていると勘違いしては、逆に高慢の罪を生み出してしまうことでしょう。行いによって自分の正しさを示そうとするときには落とし穴があるのです。
さきほど、口、舌の罪について語りましたが、表面上は黙っていたら一見大丈夫にみえるわけです。しかし、神様はあなたの心を見ています。表面上は取り繕っていたパリサイ人の心の中は罪で汚れていました。その彼らに対し、イエス様は偽善であると怒りました。口から出たものの心の根が腐っていることを神様は問題としているのです。あなたの心をガラス張りにしたとき、果たして胸を張ってみせることができるでしょうか。とても神の律法にふさわしくない、汚れた心がそこにはあることを実感し、アダムのように神様の前から隠れたくなってしまうのではないでしょうか。少なくともそういった自分がいることを私は痛感せずにはいられません。
律法を前にしたとき、本当に自分は罪人であるということを痛感いたします。しかし、これは必要な痛みなのです。律法とは私たちを救いに導く聖なる言葉なのです。ただ、律法自体には私たちを救う力はありません。律法だけだと本当に絶望的ですね。自分は救いようがない罪人だと知って、そこで終わってしまいますので。しかし、ここで聖書は終わらないのです。
その絶望の闇から救う福音の光、神の力、イエス・キリストの十字架の恵みが私たちに与えられたのです。律法である旧約聖書を完成させるために福音の新約聖書が啓示されました。律法と福音が一つとなって初めて私たち人類への救いのメッセージである聖書が完成するのです。罪を知ってこそ福音の恵みがいかに神の大きな愛に満ちたものであることがわかるのです。お待たせしました。来週からは福音シリーズが始まっていきます。ここまで罪と向き合ってきた分、神の恵みに対する喜びが私たちの心を一層満たしてくださることでしょう。さあ、救いの道へとともに向かってまいりましょう。私たちが何を信じ、何を確信しているのかを確かめ、礼拝者として生きる喜びを携えて歩んでまいりましょう。

武井誠司

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