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弱さを誇る (Ⅱコリント11:30~12:10)

メッセージ
2018年6月24日富里キリスト教会
「弱さを誇る」
(Ⅱコリント11:30~12:10)
1.教会の悩み

主の御名を賛美します。
いよいよコリント教会の信徒への手紙も、今日で最期になります。当時の教会の様々な問題、そして伝道者であり、教師であり、牧会者であるパウロの苦悩と、今も昔も何ら変わることのない教会の様子が手に取るようにわかりました。今私たちの教会が抱えている問題も、コリント教会となんら変わるところはありません。何か富里の教会が田舎の教会で都会の教会に比べて劣っているとか、小さな教会だから遅れているとかというものではありません。どこの教会でも、どんな時代の教会でも同じ問題や悩みを抱えています。

また同じように、いつの時代でも、地方の弱い小さな教会を支配し、自分が教会のリーダーになって支配したいという人間の罪もまた時代を超えて変わることはありません。エルサレムから来たユダヤ教的な指導者たちは、パウロに対して、「愚か者だ、威厳がない、説教が下手だ、お金にうるさい、病気持ちだ」と言って非難して、パウロからコリントの信徒を自分たちの方へ引き離そうと躍起になっていました。

This is the last time to study 2 Corinthian letter. The Jewish leader of Jerusalem church came to Corinthian to pull in gentile Christian towards to them by the superficial dignity. The leader used to blame and speak ill of Paul to separate Christians from him. They said that Paul is foolish and with no dignity and no power of preaching and noisy person to money and having ill. Today our church also has similar trials and fights. In such a situation Paul as an evangelist proved himself and persuaded the Christians to stand the true Gospels that he had evangelized. And he boast himself to having been persecuted many times.

そしてこの伝道者であり牧会者であるパウロの悩みと悲しみは、伝道者なら誰でも経験していることなのです。失敗しながら、逃げ出しながら、追われながらでも、それでも神の福音は宣べ伝えられてきているのです。パウロは自分の体験として、いろんな危機的状況に遭遇して、その都度その都度逃げ延びてきました。自分をあえて誇ろうとするなら、そういう試練や迫害の経験を誇りたいと言っています。「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁伝いにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。」(Ⅱコリント11:32~33)と言っています。

2.パウロの誇り

しかし、パウロに何ら誇るところがなかったのでしょうか。そうではありません。パウロにも伝道者としての誇りがありました。でもその誇りも、あまり口にしないように自分では気を付けているというのです。なぜならば、人から過大評価されないように控えめに述べています。自分の素晴らしい神の啓示の出来事をこう述べています。

「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」(12:2~5)

パウロは、生粋のユダヤ人でベニヤミン族出身、律法学者ガブリエルのもとで教えを受けたエリート中のエリートでした。でも彼は自分を誇るとすれば、そういう家柄や学歴や職業ではなく、自分が苦労して伝道してきた失敗談や逃亡事件の方を誇りたいと言っています。自分がキリストの使徒として召されたものであることの資格を誇るならば、14年前に第三の天と言われるパラダイスまで引き上げていただき、そこで神の御言葉を聞いたこと、そういう体験ならば誇りましょうと、控えめに言っています。

つまり伝道者としての召命感の確かさと誇りというものは、だれそれ先生について学んだとか、どこそこの神学校を卒業したとか、アメリカやドイツで勉強したとか、どこそこ教会の出身ですという目に見えるこの世的な証明ではないということです。伝道者、使徒としての本当の証明と推薦状は、神様がその人に個人的に表れてくださったという出来事以外にないというのです。人間の証明や推薦状ではなく、神ご自身の証明と推薦以外にその人が神に召されているということの証明はないのです。

パウロは非常に奇妙な体験をしました。第三の天、つまり楽園、パラダイスという所まで登って、そこで神の声を聞いたというのです。あくまでも個人的な不思議な体験です。伝道者はそこに自分の召命感の確かさを見出す以外に証明の方法はないのです。神様からの幻と神様からの啓示以外に、その人の伝道者としての証明はないのです。きわめて個人的なことです。自分に語りかける神様の御言葉を、個人的に聞いたということです。

The true calling of evangelist is a personal event to meet the vision and revelation from God. Without the vision and revelation no one called to be an evangelist. Paul raised up to the paradise to hear the marvelous
voice. This is a reason and basis of his calling. If we hear the voice from God through the vision and revelation, we should response and stand according God’s calling. There is no difference of man or woman and younger or older.

本人と神様との出会いと言いますか、啓示の出来事です。神様が本人に出会われて、ご自身を啓示(啓き示してくださること)してくださることなしには、誰もこの仕事に就くことができません。もし神様が、その人に出会って下さって伝道者になるように召されたのであれば、その人は女だろうが男だろうが、年を取っていようがまだ若かろうが、主の召しを受けてその道を歩み始めなければなりません。パウロは「もし自分のことを誇るならば、その神の啓示の出来事を誇りましょう」と言っています。しかもパウロはこの啓示体験を自分ではなく、別の人にあったことのように話しています。そして自分自身については、もう弱さ以外に誇るつもりはないですと言っています。自分の弱さを誇ることができる人こそ、真の伝道者です。神様から直接召された人です。

3.弱さを誇る

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは。思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(12:7~10)

パウロは、自分の肉体に一つのとげが与えられていると告白しています。この障害がなければ、自分はもっといい伝道ができたのに、あるいは人々をつまずかせることもなかったのにと思っていたことでしょう。三度も主に祈ったとありますから、何とかしてこの肉体のとげを取り去ってもらうように祈ったわけです。どんなとげ、欠点であったかは記されていません。ある人は目が悪かったので、眼病を患っていたとか、てんかん持ちだったとか、いろんなことが言われてきましたが、はっきりとした病名は解かりません。

でも彼はその肉体のとげを、ついには自分が思い上がらないためのサタンから送られた使いであると捕らえました。祈っても、祈っても取り去られないのは、神様はその弱さを通して、神の力が働くためであると告げられたのです。ですから、今は自分のこの弱さ、肉体のとげ、病い、障害を神から送られたものとして、この弱い部分と向き合い、受け止め、肯定し、それを誇ろうと心に決めたのです。

Paul said that to keep me from becoming conceited because of these great revelations, there was given me a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. Three times I pleaded the Lord to take it away from me. (12:7-8)
Paul confess his thorn of flesh. It may be an eye disease or epilepsy,
but there is no reliable evidence. Although this is a messenger of Satan,
he accepted and faced and agree with this thorn of flesh moreover he boast himself this weakness of his flesh. Because God said to him “my grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness. Therefore I will boast all the more gladly about my weakness, so that Christ’s power may rest on me” (12:9)
Do you confess your weakness publicly? Or do you boast yourself of your weaknesses all the more and gladly? You may not veal your weaknesses not to be seen especially to Japanese. We have been raised in the shame culture. It is very shameful to show our weaknesses to others. If so, the power of God never worked in us. This is a very important turning point. First of all we should admit our weaknesses and give it to God. At the time we gave up our effort and our work, the Power of God begin to start and to work. For the God’s power is made perfect in weaknesses.

いかがでしょうか。自分の弱さや欠点を誇る人はいるでしょうか。みんな自分の弱さや欠点や短所や恥ずかしい部分を隠して生きています。絶対にそれを明らかにしません。皆さんの周りで、あるいは会社や自治会で、自分の弱さや欠点を公表して、それを誇りにして堂々と生きている人はいますか?特に日本人は、恥の文化の中に生きていますから、絶対に自分の弱さを出しません。恥ずかしいことだからです。敗者になってしまいます。でもパウロは「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と言っています。ただ誇るだけではないのです。「大いに」「喜んで」という言葉がついています。自分の弱さ、弱点、欠点を「大いに」「喜んで」公表し、大々的に宣伝し、それを看板にして行こうと言っています。

もしここに、パウロのように一つのとげが与えられて、それを何度も祈って取って下さるようにお願いしたが、神様はそれを取り去ってくれないという方はおられませんか。もしそのような方がおられるなら、それを隠す必要もありません。恥と感じる必要もありません。隠せば隠すほど、恥の感情が募ってきますし、感情的にも肉体的にも痛みを覚えてきます。そして他の人に対して攻撃的になったり、批判的になったりします。隠す必要もないし、それを隠して自分良く見せよう、完全なものに見せようとする必要もありません。

そして、よく潮目が変わるということを言いますが、富里教会の潮目、聖霊の働きが変わったのは、2017年の教会総会からですね。その時からの奇跡の出来事をノートに記録していましたので、よくわかります。つまり、牧師がもう駄目だと天を仰いだ時から、神様の力が働き始めたということです。もはや自分の力ではない、わたしはもうギブアップしました。あなたにゆだねます、わたしは手を引きますと言った時から神様の手、「GOD’S HAND」が働き始めました。

皆さんもそう思いませんか?昨年の秋の集いを開催した年の教会の出来事を覚えていますか。いろんな奇跡が次々と起こりました。全部記録しています。その時から今日まで、約30の奇跡が富里教会に起こりました。自分がだめだ、弱点だらけだ、欠点や失敗ばかりだといって天を仰ぐ時、そこから神の力が働くのです。最後にパウロはこう言っています。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(12:10)

Let us boast all the more gladly about our weaknesses, so that Christ’s power may rest on us. God’s power begins to work when we gave up our own power and admitted our weaknesses. わたし達も神様の力が働くために、大いに喜んで、自分の弱さを誇るものとなってゆきましょう。ただ誇るだけではありません。大いに、喜んで誇るのです。そうすれば、これからもの奇跡の御業は起こってゆきます。 

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