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幻のない民は滅びる (箴言29:18、ヨエル3:1~5)

メッセージ

2015年10月4日富里キリスト教会

「幻のない民は滅びる」
(箴言29:18、ヨエル3:1~5)

1.幻と霊の賜物

幻というのは、神様の意志を夢とかある事象を用いて、指し示すことです。例えば、パウロの枕もとに、マケドニヤ人が立って、「私たちを救うために、マケドニヤに渡って来て下さい。」(使徒言行録16:9)と懇願しています。マケドニヤ人の幻が夢の中に現われてパウロの行くべき道を示しました。また、旧約聖書のヨセフには、神様がよく夢に現われて、いろんなたとえを用いてこれから起こることを指し示しています。こういう何かのしるしや映像を用いて神様がその人に教えようとしているのを、幻と言ってもいいのではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか、今までそういう幻を見たことがあるでしょうか。

旧約聖書のヨエル書3章にこうあります。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1~2)このヨエルの預言が、ペンテコステの時に成就したのです。ですから今は、すべての人に神の霊が注がれている時代です。決して長老や成人男子だけに霊が与えられるのではなく、息子や娘、老人、若者にでも、誰にでも神の霊が注がれる時なのです。

Ⅱコリント3:16にこうあります。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」と。ただ主に顔を向けることです。向きを変えるということです。これが悔い改めであり、信仰です。その時に、老人であっても夢を見るのです。そして若者であっても幻を見るのです。年のいかない自分の息子や娘であっても、預言をするようになるのです。今は神の霊が働かれる時なのです。ですから、わたしたちは主に向かって顔を上げ、神の霊、聖霊様を求めるときなのです。ただ求めればいいのです。

何度も話してまいりましたが、ここは富里市七栄です。七つの栄光です。神様からいただくことのできる七つの霊を求める教会だと語って来ました。七つの霊、それは「知識と知恵、理解と助言、神への畏敬と力の霊」です。皆さん、嘘だと思ったら神に顔を向けて主の霊を求めて下さい。主の霊によって自由にされ、新しく造り変えられます。そして、この霊によって、わたしたちは主の幻を見ることができるのではないでしょうか。また霊的な賜物が与えられます。

既に私たちは、この「土地と建物」という大きな賜物をいただいていますし、「北総の地に福音の光を」という主の幻もいただいているのです。それらはみなすべて、イエス・キリストを通していただくのです。主を信じているものは、一切のものを主からいただいているのです。大きな幻と豊かな賜物をいただいているのです。北総の地にくまなく福音を宣べ伝えるという、この幻に向かって、教会員が一丸となって礼拝を献げ、伝道をして行くことが求められているのではないでしょうか。

2.幻がなければ

そしてもし、わたしたちにこの主から与えられた幻がなければ、どうなるでしょうか。ドイツ語の聖書では「幻のない民は滅びる」となっておりますが、英語のキングジェームス訳でも「Where there is no vision, the people perish」となっています。この共同訳聖書では、「幻がなければ、民は堕落する」となっております。また、新改訳聖書では「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」となっています。もし、わたしたちに主の幻がなかったならば、教会員はわがままにふるまい堕落する、そして富里教会は滅びるということになります。

なぜなら、この共有した一致の幻をみんなが共有して行く時に、初めて教会としての体をなすことができます。この幻がないならば、「民はほしいままにふるまう」とあります。つまり自分勝手に、自分のしたいことをめいめいが勝手にしてしまうのです。つまり、教会がバラバラ状態になってしまうのです。お互いに自分の好きなことをして集まります。これを何かと言いますと、それぞれが勝手に集まって、勝手に好きなことをして盛り上がっていることです。

これを聖書では、偶像礼拝と言います。教会がバラバラ、お互いに気の合う人だけ集まる、好きな人だけが一緒に行動する、これを偶像礼拝の教会です。あのモーセの姿が見えなくなった時に、人々は自分勝手に好みに合わせて自分たちのイメージに合った金の子牛を造り上げました。そして、その像の前で、踊り戯れて淫らな礼拝をしていました。皆さんはこういう経験はなかったでしょうか。ここまで行くと教会は崩壊寸前です。分裂消滅の一歩手前です。そういう危険性は常にあります。

3.御言葉による幻

最後に、この幻という言葉には、もう一つの意味があります。それは、御言葉を伴った幻だということです。口語訳聖書では箴言29:18はこう訳しています。「預言がなければ民はわがままにふるまう」と。また現代訳は「神の啓示の御言葉を無視すれば、人々は自分勝手なことをやり出す。」となっています。この幻(ヘブライ語では「ハーゾーン」)という言葉は、預言者が神から受けた啓示を意味していますので、ある時には「幻」とも訳せますし、ある時は「預言の言葉」とも訳すことができます。ですから、口語訳聖書や現代訳聖書では、「幻」を「預言の言葉」「神の啓示の言葉」と訳しています。

この共同訳聖書でも「幻がなければ民は堕落する。」という言葉の後に、「教えを守るものは幸いである。」となっています。幻というものを、ただ単に現象として見るだけではなく、神様から教えられた啓示の言葉として捉えているのです。要するに、幻というのは、神様の啓示の御言葉と結びついていないと、民は堕落してしまいやすいというのです。

そして、本当に神様から示された御言葉から来る幻ならば、それは既に成就しているということです。なぜなら、その幻は神様の御言葉に根拠を持っているからです。アブラハムは、ある時神様からこう告げられました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記12:1~2)と言いました。そしてアブラハムはこの神の御言葉を信じて信仰の旅に出ました。神様が約束して下さったのですから、たとえ途中にどんな困難が待ち受けていましても、神様が必ず成し遂げて下さるという確信を持って旅をしました。

これも主の幻の一つです。この主の御言葉に基づいた幻、ビジョン、これこそ確かな人生の目標ではないでしょうか。この御言葉の約束があるから、信仰の旅を続けることができるのです。たとえ、生きている時にその約束のものを手にしなくても、また啓示されたことを手に入れなくても、それが主の御言葉から来るところの幻ならば、必ず時が来れば実現します。

今は聖霊様が豊かに注がれ、働いて下さっている時代です。誰でも、主に顔を向けるならば、聖霊を求めるならば与えられる時代です。そして主は一人一人に幻を与え、預言の力、御言葉を語る力を与えて下さいます。わたしたちもこの主から来る御言葉の幻を求めてまいりましょう。

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