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子供達は教会の祝福 (マルコ10:13~16)

メッセージ
2021/11/14
子供祝福礼拝説教
「子供達は教会の祝福」
(マルコ福音書10:13〜16)

①イエスの怒り
本日は子供祝福礼拝となります。教会に子供の声が聞こえるということ。これはまさしく神の祝福であります。子供の声がきこえないと寂しい嘆きが、多くの教会でなされているの対し、私たちの教会は子供達の声であふれている。これは本当に感謝なことです。
そして、この富里教会の方々の素晴らしいところは、その神の祝福への感謝を忘れていないということころです。子供の声というものは嬉しくもありますが、時に煩わしくなるときもあるものです。騒がしい子供に静かにするよう強いる教会も珍しくはありません。しかし、この教会はその子供の声を「まあ、子供は騒がしいものよね。それよりも子供がいることの方が嬉しいわ。」と愛おしく受け止めいている空気がどことなしかあるのを私は感じます。良いか悪いかは置いて、私個人としてはそのような雰囲気を好ましく思っています。
子供は教会の祝福である。しかし、それと共にこの祝福は私たちに委ねられた責任でもあります。教会の子供たちを私たちの霊的な子供として時に愛し、時に諌め、育てていく。そして祈り、祝福する。そういった責任です。「教会は神の祝福を子供達に積極的に与える聖なる義務がある。」このように書かれている注解書がありますが、本当にその通りだと思います。どこかおおげさに聞こえるかもしれませんが、決して大げさなことではありません。
子供の頃から教会で育った人は、多くの信徒の方々に育ててもらった記憶があることでしょう。私もその一人です。子供の頃を振り返ると牧師よりも教会学校の先生との方が圧倒的に深い関係性が築かれていました。そして、その子供のころから築かれた関係は今でも続いています。教会学校の先生という存在は本当に子供にとって特別な存在です。
子供の祝福を願い、育てる。この大きなミニストリーを2000年間、教会は大切にしてきました。その聖書的根拠にあたるのが本日の箇所にあたります。今日の箇所は、福音書の中でよく見られるイエス様と弟子との一つのエピソードです。しかし、弟子たちにとっては数あるエピソードの中でもこの出来事にはとても印象が残っていたのではないかと思います。それゆえに、今日のエピソードはマタイ、マルコ、ルカと共観福音書と呼ばれるものに全て書かれているのだろうと思います。それほど、小さなエピソードのようにみえて弟子たちの価値観を根底から覆すものが、この話の中にはあるのです。そして、きっと弟子たちには大きなインパクトがあったのだと思います。それは、まずイエス様が弟子たちに対し、怒った、憤りを見せられたというところにあるでしょう。

マルコ10:13
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」

ことの発端は人々がイエス様に触れてもらおうと子供達を連れてきたことから始まりました。イエスに触れてもらうと癒される、こういったことを聞きつけ多くの人々がイエス様の元に集まってきました。きっとその延長線上で子供にも触ってもらって祝福をもらいたい、そういった思いがあったのかもしれません。ユダヤ人にとって手を置いて祈るということは祝福のしるしという認識がありましたので、それはありうることでしょう。イエス様に触ってもらったらうちの子は健やかに育つ、そういった少しどこかミーハーな思いだったのでしょうか。日本でもお相撲さんに赤ちゃんを抱っこされるとその子は風邪ひかないといった話がありますが、そういった感覚だったのかもしれません。
弟子の方からすると、そんなものに付き合っている暇はない。先生はお忙しいし、お疲れなのだ。だいたい子供ごときにかまっている場合じゃないんだ。宣教の邪魔をするな。そのような思いがあったのでしょう。子供連れの人たちを弟子たちは叱りつけました。
ところがびっくり、そんな弟子たちに対して逆にイエスさまのほうが憤りを見せられたのでした。福音書を見ていると、イエス様はたまに怒ったりします。それは、心の冷え切った憐れみのない民を見た時、神殿で商売し、神を侮っている者を見た時、自分を正当化し他者を裁き、見下す、高慢な者を見た時、そういった罪や不正に対してイエス様は怒りを露わにされました。
しかし、弟子たちに怒るというシーンは大変珍しいです。イエス様は弟子たちに呆れることはあっても怒ることは、ほとんどありませんでした。このシーンだけかもしれません。そしてここでの憤りという言葉は、先ほどの罪や不正を見た時の憤りとは違うギリシャ語が使われています。そして、この言葉はイエス様が主語の時に使われているのは唯一この場面のときのみです。ですから、ここでの憤りとは先ほど挙げたものとは少し質が違うのかもしれません。実際にここでの憤りと訳されている言葉には不正でなく、間違いに対する憤慨という意味合いがあります。罪ではないが、間違い、見当違いなことをしているとイエス様は怒られたのです。弟子たちは一体、なにを間違ったのでしょうか。それは。子供たちをイエス様から遠ざけようとしたことです。

②子供を中心とした教会
子供達を私の元に来させなさい。邪魔をするんじゃない。神の国はこのような者たちのものだ。イエス様の宣教を邪魔させないようにと子供を遠ざけた弟子たちに対して、お前らこそ邪魔するな、私のためにしていると思っているがとんだ見当違いだとイエス様は言われたのです。中々に手厳しいですね。弟子たちもびっくりしたことでしょう。
イエス様のために。そう思いながらもそのやり方と視点が間違っている。その間違いに対してイエス様は憤られたのです。そして、その間違いを示すかのように、イエス様は子供を自分の元に呼び寄せ、中心に据え、「神の国はこのような者たちのものである。」と高らかに宣言されたのです。
子供とは小さき、弱き者であります。当時においては人の数にも入れられないような存在でした。忘れられた存在、人が素通りしていくような存在に対してこそ、イエス様は目を注がれました。神の国とはこのような人たちのためにあるのだ。しかし、この言葉は子供や社会的弱者に限定された言葉ではありません。本来、全ての人間が小さき弱き存在なのです。この言葉はまさしく私自身にも向けられている言葉なのです。
この私も神の憐れみなくば、生きていくことのできない小さき者。しかし、それにも関わらず、目に見える小さき者を後回しにする、蚊帳の外にする。これを主は喜ばれません。そうではなく、むしろ子供のような小さな、弱き者を中心としたとき、教会はまことに神の祝福を受けるのです。逆にイエスのため、宣教のため、教会のためと言いながら子供達に我慢しなさいと、自分たちに合わせた形を強いるのならば、私たちも弟子たちのようにイエス様から、間違っている、邪魔をするなと怒られるかもしれません。
そのようなことを思うと私たちが今、子供メッセージを通して子供たちと一緒に神を礼拝することができていることは本当に感謝なことです。子供達に静かにしなさい、と大人に合わせるのではなく子供達と一緒にできる、むしろ子供中心、子供が楽しんで教会に行きたいと思えるように私たちは、知恵と工夫と愛を尽くしていきたいと願います。子供達がイエス様の元に来れるよう、その道を共に整えていきましょう。これは皆様にとっても私にとっても大きなチャレンジだと思います。えてして、子供達がイエス様のもとに来るのを邪魔している教会は多いようにも思います。私たちも今日を良い機会として改めて考えたいと願います。
子供は大人の都合に合わせるものだ。どこかそういうマインドが当たり前になっていることに時に気付かされます。私たちがそのマインドを逆にすることを主は望まれています。なぜならイエス様こそ私たちにそのようにしてくださったからです。神というご身分でありながらも私たちに合わせて、人となられ、さらにへりくだりこの小さき者である罪に囚われた私たち人間のしもべとなって、十字架にかかってくださったのです。

フィリピ2:6−9
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

子供たちに合わせ、小さき者を中心に置くことはこのキリスト・イエスのみわざにならうことなのです。そのときこそ、「神の国はこのような者たちのものである。」この言葉が本当に自分に向けられた言葉となって、その愛と喜びに私たちは包まれるのです。

③子供たちは大人たちの手本
子供たちがイエスに近づくのを邪魔してはならない。子供を中心にして、むしろ私たちが合わせていくのだ。そういったことをここまで語ってきました。しかし、そこに「子供はまあ、未熟だからね。仕方ない、合わせてやろうか。」そういった上から目線で子供を中心としていくわけではありません。その子供たちの姿にこそ、私たちの学ぶべきことがたくさんあるからです。むしろ、子供たちこそお手本なのだと、イエス様は言われるのです。

マルコ10:15
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

子供たちを祝福することによって、私たちも大きな祝福を受けます。そして、そこには小さな未熟な存在でありながらも、小さな私たちの先生として敬意を持って子供たちと関わっていくことがとっても大切です。子供から学ぶべきところに、どういうものがあるでしょうか。一つにそれは、素直さであると私は思います。主はまっすぐ、素直な者を喜ばれます。全ての子どもが自動的に神の国を受け入れているというわけではありませんが、受け入れている子は本当に素直にその福音を喜び、表現します。子供メッセージを楽しみに最前列に座り、そのワクワク感を隠しません。そのまっすぐなあり方に私たちは学ぶところがあるでしょう。私たちはどこか、クリスチャンとしての喜びを恥ずかしがるところがあります。屈託無くイエス様大好き、と躊躇なく言えるその姿を見習いたいと願います。
そして、何より私たちが子供から学ぶべきところとは、信頼する姿にあります。子が親に対して全幅の信頼を寄せる姿です。子供は不安や、嫌なことがあると、親に助けを求めます。赤子などはまさにそうです。泣けば、必ずミルクを与えてくれる。泣けば必ずオムツを替えてくれる。泣けば必ず抱きしめてくれる。そういった信頼があるからこそ大声で泣き叫ぶのです。まさしく、私たちもこのように神様を信頼したいものです。
更に言えば赤子はその信頼の中、少しずつ成長して幼児、幼子になると、泣かなくてもいいことにきづき、親のそばにいるだけで安心するようになります。最も信頼できるこの人がそばにいるから大丈夫だ。別に泣かなくても必要なものは必ず与えてくれる。健全な親子関係の中で子供は精神的にも安定し、心から頼り切ります。主が共におられる、この真実だけが私を平安にするのです。まるでそのように語る成熟した信仰者のようです。
親に迷惑かけちゃだめ、自分でなんとかするんだ。我慢しろ。これは立派ですけど、もう大人ですね。神様は決して私たちにそのようなものを求めているわけではありません。むしろ、もっと私を子供のように信じて頼りなさい。そのように自分で頑張ろうとする私たちに対して、慈しみをもって招いておられるのです。
子供とは自分の無力さをよくわかっています。だから素直に親に助けを求めます。そして、その親は必ず守ってくれると心から信頼しています。この幼子のような信仰で、私たちも主イエスに全てを委ねていきたいものです。でも、これが大人になればなるほど中々できなくなってしまうものです。そんな私たちが、親に全き信頼を寄せる子供の姿を見た時、本当に多くの気づきが与えられるのです。まことに子供の存在は教会の祝福であります。教会の子供たちを愛し、育てることによって、私たちもまた神の愛を知り、子供から育てられるのです。神の祝福の基である子供たちを喜び、感謝し、愛をもって育みながら、この宝のような富里キリスト教会につながる子供達のために祈り続けていきましょう。

武井誠司

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