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子供の泣き声を聞かれる神 (創世記21:9~21)

メッセージ
2018年8月5日富里キリスト教会
「子供の泣き声を聞かれる神」
(創世記21:9~21)

1. 妻サラのわがまま
このイサクの誕生というすばらしい主の祝福の出来事の後に、すぐにまた家庭の問題が起こりました。その家庭内問題と言いますのは、イサクが生まれたのは良かったのですが、先に召使の奴隷ハガルに産ませた子供イシュマエルとの間にちょっとけんかのようなことがありました。子供同士ですから、少しはいたずらをしたり兄弟げんかはあると思います。その様子を見たサラは、アブラハムにこう言いました。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ後継ぎとなるべきではありません。』」(21:9~10)

正室と側室、後継ぎをめぐっての女同士の反目が、当然ながら起こってきました。実はこの事件の前にも、サラは、自分たちの跡継ぎがないので、何とかしてアブラハムに子供を造ってもらいたいと願って、自分の召使の女ハガルを夫に差し出します。そして、長男をハガルが宿すわけですが、召使の妻は正室のサラを軽視するような振る舞いをします。それで女主人であったサラは、妊娠した召使をいびり始めるのです。それでハガルはとうとういたたまれなくなって、身重の体で家出をしました。

ところが途中で神様がハガルに現れて、サラのもとに帰るよう勧めます。この神様の説得によってハガルは、また女主人のもとに帰って仕え、イシュマエルを出産します。ですから今度この二人の親子を追い出そうとしたことは、二回目になるのです。最初は、ハガルは自分で家出をしましたが、二回目は夫アブラハムの命令によって、泣く泣くアブラハムのもとを去り、自分の実家のあるエジプトに帰ることになりました。

「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。『あの子供と女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。』」(21:11~13)

アブラハムは苦しみました。それはそうです。いくら妻サラの要求とはいえ、自分の血を分けた子供と妻を離縁させて家に帰すわけですから。しかも14節に「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に背負わせて子供を連れ去らせた。」(21:14)とあります。これはロバも従者もつけないで、炎天下の砂漠をエジプトまで帰れということです。当然途中で息絶えてしまうことも考えられました。

アブラハムは、一晩中悩み苦しみましたが、神様の答えを得ることができましたので、朝早くに彼らを出発させました。それでも心配はあったと思います。わたしは夫が、よく妻サラの言葉を彼が聞いたと思います。サラは感情的にイサクがイシュマエルにからかわれているのが気に食わなかったのです。そんな女のヒステリーのような感情的な要求に、夫は従いました。それは神様が「すべてサラが言うことに聞き従いなさい。」という神様の言葉を信じていたからではないでしょうか。神の言葉を聞くときに、たとえ妻の感情的な言葉であってもそれを冷静に信仰的に聞き分けることができるのです。神様は時に、一番聞きたくない人の言葉を通して物事を実行されることがありますね。

神様はそういう女性の感情的な言葉を通しても、神の御意志を告げられることがあります。こんな理不尽な女の仕打ちの中にも、神の御意志が貫き通されているのです。家庭崩壊、離縁、親子離れ離れ、正妻と二号さんの争いと言った泥沼のような家族関係ではありますが、それでも神様は、しっかりとご計画に従ってアブラハムを祝福されるのです。それはアブラハムのためではなく、神様ご自身の聖なる御名のために、ご自分で神の救いの御計画を実行成就されるのです。

Sarah also made many failures. First she gave her maidservant to his husband to keep their prosperity. In spite of her decision Sarah hated her maidservant after being pregnant. Hagar run away from her mistress. But God persuaded Hagar to come back to home in the desert. Then she came back to Sarah. Second Sarah said to Abraham that she could not stand to see her son Isaac being mocked by Ishmael.
She asked Abraham to get rid of that slave woman and her son. Like this the family of Abraham had troubles in it. But God gave them good things through it all. As Abraham struggled and prayed to God, the Lord answered to his prayer of struggle. “Do not be so distressed about the boy and maidservant. I will bless Isaac and Ishmael, so listen and do what Sarah told you.” (21:12-13) God will do good things even if his wife said unreasonable thing according her feeling. God’s will is done through our weakness and our unfaithfulness. That is a God’s plan of salvation.

2.肉の子と約束の子

実はこのイシュマエル親子の追放の事件を、パウロが後でこう解説しています。
「ところで、兄弟たち、あなたがたはイサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき(イシュマエル追放事件)、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由の身から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ4:28~5:1)

パウロはあの時、つまりハガルとイシュマエルが追い出された時には、肉の子であるイシュマエルが、約束の子であるイサクを迫害していたのだとパウロは考えました。旧約聖書では、「からかっている」と書かれていましたが、それは約束の子であり霊の子であるイサクが、肉の子から迫害されていたのだというのです。それはパウロの時代に、クリスチャンがユダヤ教徒であり律法主義者から迫害されていたのと同じことだと考えました。そして、その状況は現代まで続いています。

イシュマエルはどうしても跡取りを造るために生まれた肉の子です。これが律法によって縛られて生まれてきた肉の子供です。まさに律法の奴隷の子供なのです。一方、イサクはただ神様の約束の言葉によって一方的に与えられた恵みの子、霊の子なのです。わたしたちは皆、神から生まれた霊の子供です。肉の子供ではありません。先週バプテスマを受けられたお二人の姉妹も霊の子供です。霊の家族に入ったのです。それでも今でも肉の力、律法の力は強力にわたしたち日本人を縛っています。

一方イサクは神様の言葉を信じて待った約束の子です。霊の子供です。信仰の子供です。今の時代はこの医療技術が優先する時代です。何としてでも血を分けた肉の子孫が欲しい、それを優先する時代です。いいえ、わたしは自由です。結婚しようがしまいが、わたしの自由であって、周囲から強制されることではありません。これが自由の子です。子供を持とうが持つまいがそれも自由です。でもそういう人は周りから白い目で見られる、つまり迫害されているわけです。

むしろ今の時代は、自分の肉の子供を産むことよりも霊の子供の出産、霊の家族の誕生の方が大事なのです。教会こそ神の自由の霊の家族です。自由のこの共同体です。肉の子供の出産もうれしいですが、一番の喜びは先週のように霊の子供の誕生ではないでしょうか。これが信仰による霊の家族なのです。肉の子を産んだお母さんは、もう一度霊の子を産む生みの苦しみを経験しなければなりません。これが霊のイスラエルの民なのです。肉のイスラエル人ではないのです。ですから、肉の子を排除するというサラの要求は、一見理不尽なむごい仕打ちのように見ますが、実は神様の御意志でもあったのです。

In the new testament Paul said that we are not children of the slave woman but children of the free women. Slave woman means Hagar who is the mother of flesh and free woman means Sarah who is the mother of promise being born by the holy Spirit. This difference is very great so that we should make a difference between the flesh and spirit.
We are the son of Abraham being born by faith not by flesh. So we are the son of freedom never be bounded the chain of the law. So the Sarah’s speaking was totally right in the sight of faith.

3.子供の泣き声を聞かれる主

最後にハガルとイシュマエルはどうなったでしょうか。親子二人で、背中にパンと水は持ったものの、ある意味では死出の旅路になってしまいました。女と子供で、どうして実家のエジプトまでたどり着けるでしょうか。途中、山賊や獣もいます。しかも何よりも砂漠です。死ねということと同じです。案の定、パンも水も尽きてしまいました。母親は子供の死を見るのに忍びないということで、子供を木の下において自分は離れたところに座って、子供の最期を見届けようとしました。

「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは必ずあの子を大きな国民とする。』神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。」(21:16~19)

聖書では母親のハガルが、声を上げて泣いたとあります。すると「神は子供の泣き声を聞かれた」とあります。ハガルは大人ですから、子供の泣き声を聞いたというのは少しおかしいのではないかと思いました。おそらく近くにいたイシュマエルも声を上げて一緒に泣いたのではないかと思います。そのイシュマエルの泣く声を、神様は聞かれたということではないかと思いました。

その方がつじつまが合うと思いました。でもあとで、この母親の泣き声も、神様の側からすると、同じ子供の声に聞こえたのではないかと思います。母親でも、その子供でも、神様から見たら、みな子供です。ハガルは、飲み水が無くなって、初めて神に向かって大声で泣きながら助けを呼びました。それは子供が、お母さんに向かって大声でなく泣き声のようだったのではないでしょうか。時々教会でも、子供の大きな泣き声がします。子供は泣くことしかできないのです。自分の力では何ともできないから、神様に向かって声を上げて泣くのです。

わたしは、これがやはり祈りの原点ではないかと思いました。信仰とは、この点に尽きると言っていいような気がします。助けるものが何もない、孤立無援の中で、顔を天に向けて必死に声のあらんかぎりに呼び求める祈りです。その幼子の泣くような祈りに、必ず主は答えてくださいます。わたしたちは皆子供です。神の子供です。力がありません。何もできません。できることは只お父様に向かって、「わー、わー」と泣いて助けを求めるだけです。それが祈りではないでしょうか。

いつも子供メッセージが終わると祈ります。子供たちも小さい手を合わせて、目をつぶって祈りの姿勢に入ります。そして神様に祈ります。これがあのハガルの祈りではなかったでしょうか。そして木の下でただ助けを求めて泣くしかないイシュマエルの祈りではなかったでしょうか。ここに信仰の神髄があるような気がします。聖書がまだよくわからなくても、神学が解からなくても、うまい言葉が出てこなくても、涙を流してひたすら呼び続ける祈りです。神様はこのような祈りに必ず答えてくださいます。また神様は「幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた。」(マタイ21:16)とありますとおり、赤ちゃんや小さな子供でも神様を賛美していると言っています。

この祈りに答えて、神様はハガルの目を開いてくださいました。何とそこに井戸があったのです。今まで気が付かなかった場所に、今まさに自分たちが死のうとしていたその場所に、命の水があったのです。そのことを神様が教えてくださったのです。わたしたちの目が開かれなければ、わからない世界です。自分のそばに、井戸があったのを、見えなくしていた何かがハガルにはあったのではないでしょうか。ハガルにとっては、恐らく自分の夫よりも自分の子供イシュマエルの方が、大事だったのではないでしょうか。側室で奴隷の身分にすぎないハガルにとっては、おなかを痛めて生んだ息子イシュマエルの方が、自分の命でした。

でも今ようやくこの旅に出されて、イシュマエルを手放して神に委ねることができました。彼女はやっと子離れして、心を子供ではなく天に向けて、思い切って泣き叫んだのではないでしょうか。自分の一番大事な物を手放して、神に祈り求める。これが「声を上げて泣いた」ということです。ハガルもついに神の子として、祈ることができました。いったん大事な物を手放して主に祈る時、主は再びその子を生かして返してくださいます。

「神は子供の泣き声を聞かれ、天から御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。』神が目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。」(21:17~19)何と心強い主の言葉でしょう。

「あの子を抱き上げて、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。」ハガルは改めてわが子を抱き上げました。でも今度は神への信仰をもって、いったんわが子を神への信仰をもって捧げた後で、神の御言葉によって抱き上げたのです。子供はこの親の愛の抱擁を求めています。わが子を溺愛する母親の肉的な一体感ではなく、神を中心とした抱擁です。この時、ハガルの目が開かれました。ようやくハガルにも信仰の目が与えられたのです。命を救う水はすぐ近くにあったのです。救いはそばに、すぐ近くにあります。

Hagar who was burdened with lots of sorrow has gone to the death desert with her son Ishmael. They are to die because the water and bread went out. The mother went away from him not to see the last breath. Then she began to sob and cried out to the heaven, and her son Ishmael cried out too. And God heard the boy crying. And angel said to her “Do not be afraid. God has heard the boy crying. I will make him into a great nation.” (21:17-18) then God opened her eyes and she saw a well of water near. God heard and is hearing and will hear our crying like a child, for we are the son of God, God always takes care for us never slumber nor sleep. Even if we were the sinner and made many failures, we can call out to the heavenly father like a child. God will hear my crying. And God will make our eyes open. We can see the water of life in the middle of sorrow. We can see the light of life in the darkest place. Let us pray to God “please open my eyes, so that I can see you and I can live by the water of life. God surely answer our earnest prayer.

わたしたちが祈るならば、必ずそこに道が開けます。しかもその道は、自分のすぐそばにあったのです。今までその命の水に気が付きませんでした。それは神様が目を開いてくださらなかったからです。祈りましょう。主よ、まずわたしの目を開いてくださいと。そうすれば、自分の苦しみの傍らに平安があることに気が付きます。自分の悲しみのただ中に、喜びの泉が湧き出ているのです。真っ暗闇のただ中に、一筋の光を見ることができます。主よ、まずわたしの霊の目を開いてください。そして、あなたの不思議な御業を悟らせてくださいと祈りましょう。子供のように、遠慮せずに大声を上げて必死に祈り求めましょう。

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