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天国は激しく奪われている (マタイ11:2~19)

メッセージ
2016年12月11日富里キリスト教会

「天国は激しく奪われている」
(マタイ11:2~19)

1.天の国は激しく奪われている

今朝はこの神の救いが、今まで以上に、この世に入り込んできているということと、このキリストの救いの時代に生きるわたしたちが、どのように生きていったらいいかと言うことを、マタイ11章の御言葉から学んでみたいと思います。今朝、このアドベントの季節にどうしてこのマタイ11章の御言葉を選んだのかと言いますと、11:12節の御言葉が心に引っ掛かったからです。「はっきり言っておく、およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(マタイ11:11~12)この御言葉の中の、12節の「天の国は力ずくで襲われており、激しく奪う者がそれを奪い取ろうとしている。」と言う御言葉です。これは一体どういうことを言っているのかと言うことが、気になりまして取り上げさせていただきました。

天国の福音が宣べ伝えられている今日、誰でも、この天国に入ることができるようになりました。預言者とか律法が今まで預言して来たことは、すべてこのイエス・キリストの誕生と十字架と復活による神の救いという、この一点に集約されるのです。今やキリストの誕生によって、そしてバプテスマのヨハネの宣教によって、全く新しい時代が到来しました。それはこのキリストの福音を聞いて信じる者は、誰でも罪赦されて天国に入ることができると言うことです。
ですから今の時代は、誰でも天の国に入ることができるために、人々は我先きにと争って、天国に突入しているのです。それが「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言う表現になるのではないでしょうか。

それではほかの聖書の訳はどうなっているのか、共同訳聖書以外の他の聖書の訳を見てみましょう。現代訳、リビングバイブルはそれぞれ「バプテスマのヨハネが宣教を開始してから、ここ一二年の間は、天国が力強くこの地上に入って来ています。ですから、熱心に求める人は皆天国に入ります。」(現代訳)、「ヨハネが説教し、バプテスマを授けはじめてから、現在まで、大勢の熱心な人々が、天国を目指して押し寄せました。」(リビング)となっています。

つまり、バプテスマのヨハネ以降、天国の福音宣教が始まったのです。そして誰でもこの福音を聞いて悔い改めて、イエス・キリストを信じならば無条件で救われると言う時代に入りました。それまでは、ユダヤ人が大事にしてきた律法とか、預言と言うのは、このヨハネの時までだったのです。すべてが、このイエス・キリストの福音を指し示して来たものだったのです。

このような主の御言葉を引き出したのは、バプテスマのヨハネが牢屋に捕らわれていたからでした。ヨハネ自身も自分が牢に入っているという状況の中で、果たしてあの方は救い主メシヤなのだろうかと疑問を抱いたのではないでしょうか。そこで自分の弟子を遣わして、あなたは本当にメシアなのですかと尋ねさせました。すると、主イエスはヨハネの弟子に対して、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11:5~6)と答えました。

つまり神の国と言うのは、政治的に大きな変革が起こって新しいユダヤ人国家が実現するというものではなく、一人一人の心の中に生活に起こると言うことをヨハネに知らせました。神の国の福音によって、人々の耳が聞こえるようになり、神の救いを目で見、神の福音によって歩き出し、神の国の福音によって死んでいたような人が、新しい命に起き上がって、新しい人生を歩み出していたのです。これがわたしがメシアであることのしるしだと教えました。

そしてどんな小さな者でも、どんな貧しいものでも、どんなに弱い者でも、福音の力によって新しくされ、神の福音のための働きを担うようになるのです。そのような働きを担う者になると言う意味で、バプテスマのヨハネよりももっと大きな働きをする偉大な者となると言ったのです。

2.天国の福音を受け入れる者の心構え

ところが、肝心のイスラエルの人々は、バプテスマのヨハネが来て断食をしながら伝道していると、「あれは悪霊にとりつかれている。」と言い、イエス・キリストが来て、罪人と一緒に飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で、大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:18~19)と言って非難ばかりしていました。せっかく天国の福音が宣べ伝えられたにもかかわらず、ユダヤ人たちは、それを毛嫌いし非難して、悔い改めて主のもとに来る人を見つけることはできませんでした。逆にあら探しばかりをしていたのです。

肝心の神の民が、この福音を拒んだものですから、それ以外の人々、特に罪人と呼ばれている人、盲人、耳が聞こえない人、らい病人、さげすまれていた徴税人、異邦人、売春婦と言った人々しかイエスのもとに来ませんでした。いやむしろ彼らこそ、この福音にふさわしい人だったのです。彼らはイエスの行くところ、どこへでも後をついて行きました。そしてイエスに追いついて行って、イエスに触れ、イエスの御言葉を聞いていやされました。まさに、天国はこのような罪人たちによって、激しく襲われて奪い取られていたのではないでしょうか。ルカによる福音書の中にもこうあります。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力づくでそこに入ろうとしている。」(ルカ16:16)と。

イエス・キリストが肉を取ってこの世に来られたということは、すでに天国が、この世に突入して来たと言うことです。わたしたちが死んでから行く場所としての天国ではなく、福音を通して、その宣教活動を通してすでに天国がこの現実の世界に突入して来ているということなのです。主イエスはこう言いました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。じつに神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)と。

つまり天国と言うのは、わたしたちが死んでから行くべき場所でもありますが、すでに天国はこの世に突入して来ているのです。そして、わたしたちの間、わたしたちのこの世界、家庭、社会、自治会、そして教会の交わりの中に既に来ているということなのです。ですから、自分はこんないやな世界は避けて、早く天国に行くのだと言って、難しい人間関係を拒んでいる人は、天国を誤解していることになります。天国は特に教会の交わりの中に、CSにSGに、いろんな奉仕活動の中に入って来ているのです。ここに天国が存在するのです。

後はわたしたちがその天国をどう受け取るかと言うことです。天国に対する応答が求められます。いくら天国の話をしても、いくら天国について説明しても、最後はやはり、本人がそこに飛びこまなければならないのです。馬を水のあるところまで連れて行っても、馬に水を飲ませることはできません。それは馬が自分から水槽に口をつけて飲まない限り命の水にあずかることはできないからです。渇いていなければ飲みませんし、本人が飲みたいと思わなければ、誰も飲ませることはできません。

デニーと言う神学者はこう言っています。「神の国は何も努力しないで、自然に手に入るものではなく、一つの町を攻略するようなしたたかさと激しさを持って奪い取らなければ手には入らない。」と言いました。少し言い過ぎかもしれませんが、それだけ自分の人生や生き方に対して真剣さと熱心さを持って求めなければなないのだと言うことです。そして今そういう人々が、イエスのもとに押し寄せて来ていると言うのです。これが「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」と言うことの意味ではないでしょうか。

全ては天国の働きですから、わたしたちはどんな小さなことに忠実になるのです。チラシを蒔く人は蒔く、歌う人は歌う、掃除する人は掃除する、料理を作る人は作る、井戸の検査をする人はする、御言葉を語る人は語る、どんな小さなことでも、すべて神様の御心であるならば、すでにそこに天国が来ているのです。主はその働きを御覧になります。救い主のために働く、どんなことでもすると言う点において、わたしたちはあの預言者バプテスマのヨハネよりも偉大な奉仕者なのです。

そしてすでに救われているクリスチャンの人は、もっと主の働きのために精進することです。もっと成長したい、もっと神様のことを知りたい、もっとイエス様と共に働きたいと願い求めることです。わたしは30歳の時に公務員を辞めて伝道者に献身しましたが、この福音のために生涯かけて働きたい。中には定年退職してからでもいいのではないかと忠告してくれる人もいましたが、若いうちに、この体が元気なうちに体を主に献げたいと思って30歳の時に神学校の門をくぐりました。

これも天国が激しく襲われて、それを奪い取ろうとしている人がいると言うことではないでしょうか。クリスチャンの場合には、天国は奪い取らなければならないのです。一つの町を激しく攻め取るというような覚悟で、信仰生活をすべきではないでしょうか。ある人は神学校へ行って直接献身をして生涯主に仕える働きにつくかもしれません。またある人は役員として、一生懸命教会に仕えるために献身することがあるかもしれません。またある人はスモールグループを通して地域に福音を蒔きつづけ、教会を建て上げて行くために献身するかもしれません。海外宣教に行く人もいるでしょう。佐々木和之さんのように、信徒としてルワンダで平和のために福音を宣べ伝える人もいるでしょう。今まさに天国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取っています。

しかし当時の人々は、そして現代もイエス様が来て、いくら御国の福音を説いても、何の関心も反応も示しません。反対にあら捜しをしていたのが神の民であり、現代人です。ヨハネが断食して祈れば、悪霊にとりつかれていると言われ、イエス様が伝道のために罪人と一緒に飲み食いしていると、大酒のみだと非難されました。今はそういう時代です。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれない」(11:17)無反応な時代なのです。悔い改めることのない時代だったのです。救われたのは、重荷を負って苦しんでいる人、ごくわずかな人々でした。

それでもわたしたちは黙っていることができません。人々は滅びに向かって、今一目散に破滅に向かっています。誰も天国の知らせに耳を傾ける人はいません。そういう不信仰な時代ですが、わたしたちは黙っていることができません。人々の心は渇いています、苦しんでいます、救いを求めています、平安を求めています。そのような魂を一軒一軒、一人一人尋ねて行きたいものです。クリスマスのすばらしい救いの知らせを、この世に向かって告げ知らせて行きましょう。天国を奪い取って行きましょう。   

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