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天国はからし種のようなもの (マタイ13・31〜32)

メッセージ

2009年12月27日富里教会
     「天国はからし種のようなもの」
          (マタイによる福音書13:31〜32)

1. はじめに

主の御名を賛美します。
今日が今年最後の主日礼拝となります。2009年を振り返ってみて、本当に神様の大きな恵みのうちに、皆さんとご一緒にこの年も歩んでくることができました。今年は東ブロックの秋の集いでの宣教の御用がありました。今朝は、その時のメッセージをもう一度思い起こしながら、「からし種」という言葉を中心に、「からした種のような自分」「からし種のような教会」「からし種のような信仰」の三つについてお話し、今年をしめくくりたいと思います。

1. からし種のような自分
第一に「からし種のような私」ですが、皆さんはからし種の種を見たことがありますでしょうか。実に小さな種です。ゴマよりも小さくコショウの様に小さな種です。イエス様の時代には「からし種のようだ」と言えば、「最も小さいもの」だということを意味していました。ですけれども、天国の法則は逆に、この小さければ小さいほど、大きく成長することを意味しています。それがこのからし種を用いた天国のたとえなのです。つまり天国とは、本当に小さいものが小さければ小さいほど、大きく成長するものだということです。しかも、野菜の中で一番大きな野菜になるというのです。ある教会の玄関にこのからし種の木が植えてありました。野菜というよりは3〜4メートルもなる木のような野菜です。

イエス様は、「天国はからし種のようなものです」と言いました。本当に小さい自分、不十分な自分、欠けの多い、問題だらけの自分それでも神様の前に良しとされている事を、恵みとして受け止めることができたら、すべてのことに感謝できるのではないでしょうか。パウロは自分が小さくされた事を喜びました。持病に悩まされ続けましたが、その肉体のとげをさえ神様からのプレゼントとして受け入れ、感謝することができたのです。(?コリント12:7〜10)

良いことも悪いこともすべて、神様からの恵みの賜物として喜んで受け取る時、そこに天国が実現するのではないでしょうか。天国はあそこにある、ここにあるというのではなく、実に、私たちの間にあるのです。他の家庭、他の教会、他のクリスチャン、他の奉仕と自分を見比べることなく、今あること、今生かされていることを感謝して、「今」という瞬間を感謝をもって全力で生き抜くこと、ここに天国の奥義が隠されているのではないかと思います。からし種は自分が小さいことを、卑下することも、悔やむことも、恨むこともなく、自分の小ささを精一杯生きたのです。最初から、野菜の王様になろうとはしていません。からし種として、あるがままで自分に与えられた小さい性質、小さい形を精一杯生きたのです。それが結果的に、鳥が宿るほど大きく成長したのです。

2. からし種のような教会
次に、「からし種のような教会」ですが、今年の東ブロックの秋の集いで私はこう言いました。「自分は今まで、教会をもっと大きくしようとする事ばかり目指してきた事を反省させられました。そのきっかけは、教会の庭に咲いている大きなチューリップよりも、その根元に凛として堂々と咲いている名もない雑草のような小さな花の姿に感動したからです。大きなことよりもむしろ、小さなことが祝福なのです。小さなものの美しさ、それは大きなものに優るとも劣りません。ですから、教会は20名で交わりも伝道も全てを、しようとすることはできません。むしろ、私たちはもっと小さくなることが必要です」と。そしてその時に、このマタイによる福音書のからし種のたとえを引用しました。

もう一度読んでみましょう。「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼等に言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれをとって畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』」(マタイ13:31〜32)

あのからし種のようでいいんだ、何も背伸びして大きくなろう、立派になろうと努力する必要がない、小さな、最低のところでそのことを心から喜んで、今あるがままの自分の道を、自分の仕事を、自分の生活を精一杯やるなら、そこが天国なんだ、ということを話しました。そのような小さなことに忠実になる時、2タラントが4タラントに、5タラントが10タラントに増えてゆくのではないでしょうか(マタイ25:20〜21)。そのようなからし種のように小さな事に忠実な奉仕者がいるからこそ、教会は逆に賜物が増え、鳥が宿るほど大きく成長するのではないかと思います。

ですから、私は本当に教会が成長するためには、小さくならなければならないと思います。教会の最小単位である二人または三人の集まりが必要なのです(マタイ18:20)。教会の生命力はここにあると思います。パウロも最後まで、自分の捕われていた宿屋、ホテルで、そして借家で集まりをもって御言葉を宣べ伝えました。このからし種のように小さければ小さいほどそこに命があり、成長する力があるのです。ですから20名の教会で伝道しいろんな奉仕をしても、そこに小さなグループ、からし種のような二人又は三人が集まって、イエス様の名によって祈ることがなければ、そういう場所、そういうグループ、そういう集まりがなければ命が成長してゆかないのではないでしょうか。

そのような小さな集まりがあるからこそ、千人以上の教会でもみんなしっかりと強い絆で結ばれて、一人も落ちてゆきません。20人の教会でも、そのような集まりがなければ、人はつながってきません。もし、そういう場所がなかったら、そういう仲間がいなければ、ここは自分の居場所ではないと思って一度きりで来なくなるでしょう。あるいはクリスチャンのような仮面をかぶって忙しく活動で動き回り、裏と表のある表面的な信仰生活をしてしまいます。内側にいろんな悩みや問題を抱えながら、それを奉仕でごまかしている事はないでしょうか。教会に来て自分を解ってくれる人がいなければ、いくら奉仕しても伝道しても空しい信仰生活になると思いますし、自分から、福音を語ろう、友達を誘おう、一人でも多くイエス様のもとに連れてこようとは思わないでしょう。

4. からし種のような信仰
最後に、からし種のことでもう一つ思い出しておきたい言葉があります。それは、ルカによる福音書17:6の「主は言われた。もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」という御言葉です。この言葉を読むと、自分はこのからし種ほどの信仰もないのかとがっかりすることがあります。といいますのは、あのからし種のような小さな、わずかな信仰でさえも、山が動くのですから、山を動かすことも出来ない自分の信仰を省みる時、自分の信仰のなさを痛切に感じるような気がします。

弟子達が「イエス様、信仰を増してください。」と言ったように、私もイエス様に自分の信仰を増して下さいと言いたい気持ちです。でもイエス様は、そういう私に、からし種ほどのほんの一握りの小さな信仰さえあれば、あなたの祈りはかなえられると言いました。そしてこの1年、ふり返ってみましたら、神様は私の祈りに本当に答えてくださったんだということが解りました。

今年の祈りのノートを見てみましたら、祈りの課題がずいぶん赤い線で消されていました。これはかなえられたという事です。神様は、本当に私のこの小さな小さな信仰でも、いつもその祈りに応えてくださいました。つめの垢ほどもない、からし種のような小さな信仰ですが、主は応えてくださるのです。鳥肌が立つほどに、答えて下さいます。「お前は、私に何をして欲しいのか?」と主は私達一人一人に尋ねておられるのです。こんな小さな小さな信仰しかない私たちの祈りを聞き届けようと待っておられるのです。新しい年も、小さな自分である事を忘れずに祈ってゆきましょう。からし種のように小さな事に感謝し、あるがままの自分を精一杯生き、感謝をもって前進してゆきたいと思います。
                                                      (岡田 久)

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